生体排気パイプが「うだらない」ように気を付けるのが彼の仕事だった。

 バルブを開け締めする作業員のキャップから汗が滴る。生体水素発電プラントの野放図な発熱の余波で、作業部屋はサウナにも似た湿った不快に包まれている。熱量の大半が冷却水と外気に投げ捨てられても、哀れな労働者を茹で上げるには十分な室温だった。

「くそったれ。パイプ様がうだる前に俺の方がうだっちまうぜ」

 作業員は誰にともなく呟いた。チーフに聞かれたらぶん殴られてからの説教を免れないが、この小さく、黴臭く、そしてどこまでも暑い配管部屋には、脈動する八本の生体排気パイプと作業員の他には何も存在しない。ここは彼の聖域だ。それも、できれば今すぐにでも出て行きたい。

 右隅のパイプがやや膨らみ、取り付けられた計器の針が左に触れつつある。作業員が計器の下のバルブを捻って緩めると、圧力と吸気のバランスが取れた計器が緑を示し、血管の浮き出た赤い配管が元気そうに蠢いた。これが彼の仕事だ。

 その日も男は暑さを呪い、面倒を呪い、革新的なエネルギー発生装置の癖に、バルブの開け締めなんて単純作業を必要とするプラント様を呪っていた。実験による偶発的な産物であるバイオエンジンは、未だその発電量に対する効率的装置化が成されていない。なし崩し的に導入され、細部は人力で調整される歪な発電システムは、発電所作業員の労働環境を産業革命期にまで押し戻した。

「では、生体排気管をご説明致しやす」

「馬鹿に暑いね」

「申し訳ねえです。なにぶん熱いガスの通り道ですもんで」

「ああ、いいからさっさと進めておくれ、あいにく長居の予定は無いんだ」

 この日は聖域に闖入者が訪れた。小気味良い靴音が近付く。蒸れるゴム靴を履かされた労働者の足音ではない。配管作業員はちらりと後ろを振り返った。

「こっちを見るなグズ、仕事してろ」

 いつも通りの汚い言葉で語気を荒げたのは、薄くなった頭に安全ヘルメットを被ったチーフだ。作業員の無能ぶりをなじるのが日課の現場監督は、かつてないほど丁寧な口調でワイシャツ姿の横の男に揉み手をしている。

「いや、失礼しやした。このグズ野郎はほっとくとすぐにミスしやがるんで」

「どうでもいいから、早く説明してくれ。聞くまで帰れないんだよこっちは」

 連れられて来たシャツ姿の男は、スーツを肩に掛けて汗の玉を浮かべていた。オフィス勤務のホワイトカラーだ、と作業員は推測した。整えた髪型と口髭が汗で張り付くのをしきりに気にしている。

「お仕事ご苦労、気にせず続けてくれ」

 上役らしいその男は、作業員に形だけの敬意を表して安い笑みを浮かべた。だがその青い眼には何の関心も浮かんでいない。興味はおろか、嫌悪すらない。鋤を引く牛を見る目だった。

「おい、作業に戻れ。これが生体排気パイプ配管部屋です。エンジンのやつは、発電のついでにガスを出しちまうんですな。そのガスが溜まると循環が止まっちまうんで、こうして人工的に代謝させてやってるわけです」

 パイプとバルブと計器しかない仕事場に向き直って、労働者はこっそり笑いを零した。下手な敬語はチーフなりに全力なのだろう。日頃威張り散らしてばかりのチーフが晒す情けない姿は、溜飲を下げる痛快さがあった。

「あすこのバルブを捻ると、パイプ内の圧力が上下しやす。圧を締めてる方がよく流れるんですが、詰まっちまうと危ねえんでたまに緩めてやらねえといけねえ」

「危ないって? 破裂でもするのかい? 爆発事故も多いけど、僕が居る間は勘弁してくれよ」

「だはははは……まあまあ、とにかくそういうわけでして、計器を確認して、バルブを捻って、圧を最適に保つのがこのグズの仕事です」

 そう、これが彼の仕事の全てだった。当、生体水素発電所が誇る発電プラント稼動に伴い発生するガスの逃げ道を作るため、定期的に生体吸気パイプの圧力を調整する。気圧計を注視し、針が赤に近付いたら圧力を緩め、問題無ければ必要まで締める。配管作業員は一人頭八本のパイプを担当し、あてがわれた兎小屋で単純作業を続ける。たったそれだけの簡単な人生だ。

「廊下にドアがずらりと並んでたけど、全部このビクビクしたパイプ部屋かい?」

「へえ、パイプが細い方がガスの通りがいいんです。圧力の問題で。ですから、細かい生体吸気管を八本ずつ十部屋で管理してやす」

「まるでタコだね。エンジンの本体もさっき見たけど、あいつタコにそっくりだよなあ」

「へへ、まったくその通りで。こいつらはタコ足配線の管理で茹でダコになってるってわけです」

 チーフの面白くも無い冗談に、ホワイトカラーの男が空々しい笑いを返した。やり取りを背にしながら、労働者の心に憮然なものが転がり始めた。チーフは彼ら配管作業員よりも数段格上で、顔を真っ赤にしながら部下を怒鳴り付けるのが仕事だ。だがそのチーフが、現場上がりで中年のチーフが、優雅な姿の若い優男に必死でゴマをすっている。それは、労働者を一番下に置いたピラミッドだ。登れば登るほど労働から免れる歪な格差だ。

「あっ、あの左のパイプ、危ないんじゃないの?」

「げっ! おいバカ、早く緩めねえか!」

 そんな無駄な思考が集中を妨げた。意識の外にあったパイプにピントを合わせると、確かに計器の一つが閾値に届きかけている。労働者は慌ててバルブを左に捻った。気圧が緩む。生体パイプの膨らみが、ものを飲み込んだ喉仏のようにごくりと下りて行く。計器は無事に緑を示した。

「ははっ、僕ならいつでもこの仕事に入れそうだね。絶対にごめんだけど」

「いやあ、おっしゃる通りで……おい、グズ野郎! 何ボケてやがる! 死にてえのか!?」

 チーフの歯が猛烈に剥かれたが、肩をすくめる上司を横目にして罵倒は止まった。

「すいません、チーフ。不注意でした」

「くそったれが……俺はもう行くが、二度とやるんじゃねえぞ。もし「うだらせて」、緊急レバーを引くハメになったらタダじゃおかねえ」

 それを捨てゼリフに、闖入者達は踵を返した。平謝りを繰り返すチーフに、鬱陶しそうにそれを受ける上司。革靴の音が去って行く。落ち着きを取り戻した聖域を、絶え間ないパイプの排気音が再び支配した。

 気を紛らわすものが失せた配管部屋で。作業員は不快な暑さと単調な作業に再び直面させられた。

 さっき緩めた左端のバルブをもう一度締める。右から三本目の計器が赤に近付いているからバルブを緩める。汗が零れた。真ん中左の計器が赤に近付いているから緩める。右から三本目のパイプの計器が緑に戻ったのを確認してもう一度締める。締める。汗が零れる。緩める。締める。緩める。締める。

 どくどくと揺れる生体パイプの生々しさが、主観的な暑さを助長させる。とめどなく溢れる汗が目に入り、手で拭う。湿り気を帯びてぼやけた視界には、パイプの赤と、計器とバルブの灰色と、そして緊急レバーの黄色だけが滲んでいる。警報を鳴らしてエンジン機構を強制中断させるそのレバーは、異様な存在感をもって壁際に聳えている。

 チーフが上役に濁した言葉の内容は、頭の中に良く刻み込まれていた。作業員が最初に仕事を教わった時に言われたことだ。警句を改めて口に出す。

「もしもパイプが「うだった」ら、すぐに緊急レバーを引け。さもなきゃ爆発してお陀仏だ」

 ガスの吸気不全が爆発事故に発展するのは事実だ。だが、もし事故原因が個人に因る場合は賠償責任を取らされ、向こう数ヶ月の給料が差っ引かれる羽目になる。見間違いや些細な変化を異常発生と勘違いしてレバーを引いてしまう者も多い。生きたパイプの「うだり」の臨界点を見抜くのはそう容易いことではない。

 作業員は目をこすり、もう一度レバーを網膜に焼き付けた。いざという時、迷わずこのレバーを引けるように。給料が天引きされると言っても、死ぬよりは幾らかマシだ。こんな形でも生きてきたのだから、今更簡単に死ぬ訳にはいかない。不可解な理屈を自分の中で咀嚼すると、労働者は作業に戻った。

 生体水素発電プラントの未だ多く残る欠点の一つに、安全性の低さがある。爆発事故が起きたのも一度や二度のことではない。そんな危険な仕事を頭の良い連中が買って出るわけもなく、代えが利く無能な労働者にお鉢が回る。教育もろくに受けていないような連中の仕事だから、給料は安くていい。そうしたわけで、発電所作業員は低賃金高負担の夢のような仕事になった。男はその中でも飛び切り役立たずの、配管の管理しか出来ないと判断された最底辺作業員だ。

 それだけ不安定にも関わらず、エコロジカルな発電方法である生体水素発電の人気は高い。人工的に生産出来る発電プラントは地球に優しく、悲劇に見舞われても環境汚染や二次災害の恐れは少ない。労働者規模で見たら哀れだが、地球規模で見たら優秀な発電方法。労働者達の安月給と命なんてものは、守るべき緑の星に比べれば芥ほどの価値も無いと世間は判断しているらしい。

「くそったれ」

 バルブを締める。バルブを緩める。不愉快なタコの足のご機嫌を伺う。滴る汗を飲み込んで、湿気を増した熱気がもやになって立ち昇ってくる。肌にまとわりつく暑さを振り払って、計器とバルブに神経を尖らせる。

 男は黙々と作業を続けた。単調を極めるバルブとの睨めっこは、踏み潰したはずの雑念を知らず知らずの内に這い上がらせて来る。このくだらない単純作業に縛られている自分を憎み、上司を憎み、世界を憎む。誰も彼もが、このくだらない発電所に縛られている。タコに似た醜い生体プラントの作り出す電力に、それに伴う利権に、それを生むための労働に。

「くだらねえ。みんなエネルギーの奴隷じゃねえか。チーフも、上役も、どいつもこいつも」

 そして、元を辿れば答えは一つだ。金。金のために人は働く。金のために人は学ぶ。金のために人は生きる。人より多く稼いで、人より良く暮らすためだけに。作業員は唾を吐き捨てた。彼の思考の中では、彼は誰よりも底辺に落とされ、搾取される、哀れなる被害者だった。他人の良い暮らしのために、こき使われる被害者だった。

「そうだ、俺が一番哀れだ。俺が一番不幸だ。俺が一番惨めだ。俺は誰も踏み付けてねえのに。俺は悪くねえのに、皆して俺を踏み付けやがって」

 その時、男の中には一つの悟りが萌芽しつつあった。彼から見れば世界は完全に平等で、平等に彼より上にあった。底からでしか手に入らない真理が、男の手に滑り落ちつつあった。狭苦しい作業部屋に押し込まれ、社会に踏み付けられた人間。禁忌に足を踏み入れた人間によって作られた、生命を持つ機械。作業員は顔を上げてパイプと向き合い、そして気付いた。

 生体排気管が、膨らんで傾き、「うだって」いた。

「あ」

 真っ白になった視界に、真っ赤を指し示す複数の計器が飛び込んだ。幾本もの生きたパイプが膨らんで血管を広げ、苦しさに悶えるかのように振動している。意識から抜け落ちていた装置達が、死の悪寒を連れて唐突に現実を殴り付けた。

「れ、れ、レバー」

 手足が震え、舌がもつれた。手に入りつつあった真理は零れて溶けて見る影も無い。ただ、男は生存のために慌ててレバーに手を伸ばし、僅かに逡巡した。

「でも給料」

 ほんの一瞬躊躇った男の視界で、「うだる」パイプがどこまでも膨らんで行った。

 そして、発電所は爆発した。

 

 

 

 オフィスはうだるような暑さだった。停電のせいで冷房が止まったオフィスは、前時代的なロウソクの灯りに照明を委ねて影に沈む。

「くそったれ! あのクズ労働者め!」

 デスクで管を巻く一人の男の姿があった。電力会社の重役である彼は、生体水素発電所の責任者に任命されたばかりだった。臨時視察レポートをまとめている最中に停電に巻き込まれた彼は、執務室に往生して報告書をめくっている。帰宅はもう諦めている。妻に電話したが、労いの言葉すらなくただ了解するだけだった。窓は大雨に打たれ、そこかしこで雷が鳴っていた。

 数時間前まで視察していた発電施設で、ちょうど見かけたあの作業員が事故を引き起こした。薄ら寒いものを感じるべきか、幸運を噛み締めるべきか、ワイシャツをはだけたデスクワーカーは二箱目の煙草に手を付けた。

「これだからクソの役にも立たない視察なんてごめんなんだ。どいつもこいつも地獄に落ちりゃいい」

 この執務室は彼のために用意された彼の城だ。人気の絶えた暗闇の職場は、日頃抑制された粗暴さを解放するには十分だった。ここでは陽気な笑顔のエリートの仮面を被る必要は無い。汗で乱れた髪をくしゃくしゃとかき乱すと、男は胸で弄んでいた殺意をもう一度こね始める。

 またしても発電所で爆発事故が起きた。被害は配管部屋三室の破損と数名の死傷者だ。幸い、優秀な新発明である生体水素発電に環境への悪影響はほぼ無い。空気中に発散される膨大な水素を危険視している学者も居るが、新技術にお株を奪われた負け犬科学者達の遠吠えに過ぎなかった。史上最もクリーンなエネルギー、生体水素発電プラントに穴は無い。

 問題は直接的な損害と被害、そして生命倫理の観点から人工生命機械技術に反対する抗議団体の野次だった。数多の生命を屠殺していながら、食べもしない生命を作り出すことには抵抗を覚える。人間と言うのはいかんせん迷信深い。

「そんなに神様が大事なら、今まで通りのやり方で発電してろってんだ。クリーンなエネルギーは欲しい、でも人としての一線は越えたくないだあ? 無いものねだりの老害どもが」

 生物実験で生み出した、生存の代謝過程で電力を生み出す人工生命。それを利用した生体水素発電技術の普及は目覚しく、既に世界中の電力の二十%を担うまでに至っていた。クリーンな発電方法に、安いランニングコスト。主にアジアで導入されているこの技術が最大のシェアを握る日も近いだろう。化石資源はやがて枯渇する。地球はみるみる汚染される。どの道、人類が文明を手放さずに環境を配慮するためには、水素発電を選ぶしかないのだ。例えそれが命を弄ぶ禁忌だとしても。

 だが、男にとっては生命倫理の是非や環境への影響などどうでもいいことだった。それは商品の付加価値に過ぎない。大切なのは、その価値を認めさせて売り込むことだ。エネルギーはいつの時代も多大な利益と利権を生む。

 不意に携帯電話が鳴った。男は表示された電話先を確認すると、椅子から飛び起きて背筋を伸ばす。

「ああ、私だ……今回の件はお気の毒に。なんだね、また残念なことになったじゃないか」

 探るような老獪な声はとある政治家のものだ。誰も居ないオフィスで、男は電話の向こうの相手に頭を下げ続けた。人工生命技術の肯定派閥に立つ政治家は、社としても最大のお得意先であり、共犯者だった。

「事故確率は一パーセントに満たないと豪語していなかったかね? いや、私もこの新技術に大いに期待はしているが、何しろ人命ほど尊いものはないからね……」

 上辺の言葉があり、その裏の意味があり、そして真意は誰にも読ませない。政治という伏魔殿から顔を覗かせる悪魔の囁きに、男は必死に頭を働かせる。人の命などなんとも思っていない政治屋からの要望は、人の命を失わせないことだ。

 クリーンなエネルギーという商品を最も利用したがっているのは、彼らパトロンの政治家達だ。発電所の敷設と、エネルギー供給の増加。それは彼らが喉を鳴らして欲しがる実績であり、権力地盤を固めるための武器である。安い電気代という飴をちらつかせれば、反対意見もその内に黙るだろう。後々の結果など彼らの知るところではない。目前の選挙を有利にする公約さえ手に入れば政治家には十分だ。

「進歩のために犠牲が必要だということは解っているが、我々は既にたっぷり満たされている。焦ることは無いじゃないか、ゆっくり慎重にやりたまえ」

 政治家が恐れているのは、発電所の安全性が疑われ、彼の実績が威力を無くすことだった。わざわざ大金を出して後押しした電力会社が、爆発事故で信用を落とすのは最悪の損失に他ならない。社としても彼ら政治家は最大のパトロンだ。裏切って資金援助を打ち切られるわけにはいかない。

「我々は持ちつ持たれつじゃあないか。あまり恩着せがましいことを言いたくは無いが……わかるだろう? では、奥方と仲良くな」

 そして電話は切られた。かかって来た時と同じように一方的に。男はしばらく携帯電話を片手に震えていたが、やがてそれを地面に放り投げて叩き付けた。顔に浮かぶのは抑えようも無い怒りだ。男の城であるこの執務室で、他者に対して必死で頭を下げた屈辱への耐え難い怒りだ。

「狸め! 金を儲けて何が悪い、お前らが率先してやってることだろうが!」

 安全性を高めることは簡単だ。設備を強化し、作業員を増やし、訓練期間を伸ばし、給料を上げればいい。それだけで人員の質は増え、事故率は格段に減るだろう。だが、完全に根絶出来るミスなどはない。遅かれ早かれ事故は発生し、多大なコストを投じるほどに、一度の失敗で失われる額は大きくなる。試算によれば、それだけの維持費を投じて事故の頻度を下げるよりも、現在の安上がりで危険なシステムの方が利益率は遥かに高い。ただ、少々の人命が犠牲になるだけだ。

「クズどもを使い捨てて何が悪い。クズになったのは自分たちの責任だろうが、落ちこぼれどもめ。生体水素発電は夢の技術だ。クソの役にも立たない低学歴の血を吸ってエネルギーにする循環機構だ。こいつは理想的じゃないか!」

 いくらでも代えがいる無能な労働者ならば、給料も安い、教育費も安い、遺族への賠償も雀の涙で済む。働かせれば働かせただけ利益が出るのだ。効率と利益は安全に優る。地球に優しい分、人類に優しくないだけだ。釣り合いは取れている。安全を考えるのは、電力シェアの覇権を手に入れ、好きなだけ値を吊り上げられるようになってからでいい。

 使い捨てられたくないのなら、使い捨てる側に回ればいいだけのことだ。その最低限の努力すらしてこなかった作業員たちが、男の輝かしいキャリアに傷を付けようとしている。男にはそれが我慢ならなかった。クズは自分一人で生きることすら出来ず、他者に迷惑をかけて死ぬ。

 熱のこもったオフィスで、頭に血が上った男はうだるような暑さを感じた。下もクズならば、上も上だ。政治家のご機嫌取りのために利益率を下げている場合ではない。損害を取り戻すためにも、より殺人的な効率でエンジンを回す必要がある。電力さえ供給されれば民間のバッシングも消える。文明社会とはそういうものだ。如何に非人間的な方法で生まれようが、例え環境に悪影響を与えようが、エネルギーに罪は無い。人々はエネルギーを享受する。人類は罪深い。

「電力を作っても抗議され、失敗すれば吊るし上げ。まったく損な商売だよ。我が社が仕事をしなければ、電子レンジ一つ動かないっていうのに」

 全てのものを見下すことで、男は精神の安寧を得た。労働者も、政治家も、上司も、上司の娘である妻も、男にとっては平等に価値が無かった。全てはビジネスで、全ての人間は金の行き来に関わる装置でしかない。何もかもは貧乏人のさえずりに過ぎない。男の電力会社は、何よりも価値があるエネルギーという権力を商っているのだから。

 男は平静を取り戻し、汗ばんだ体を癒すため書類をうちわにして風を作った。だが、一向に涼しくはならない。

 いやな暑苦しさが執務室を支配していた。雨露に濡れる窓から、うだるような夜が忍び寄って来ていた。

 

 

 

 ようやく電気の戻った職場に冷房が動き出し、うだるような熱気が冷やされていく。男は人心地を付くとスニッカーズの袋を開いた。溶けている。

「くそったれ、停電の日に残業なんてよ」

 停電だからこその残業だったが、男の不平不満に整合性は必要ない。不快だという意思を発信出来ればそれで十分だった。誰も聞いていなくても。

 自分だけが残された広いオフィスで、贅沢にも部屋中に電灯と冷房が行き届く。居残り者のさもしい特権を味わうと、男は仕事に向かった。外は依然土砂降りの豪雨だ。近頃はやけに雨が多い。

 男の仕事は破損したデータの復旧だった。普段なら残業の必要も無い閑職だが、この日に限って緊急でやらされる羽目になり、停電が復旧するまで職場に待機させられた。携帯電話が着信したが、仕事に集中した男はそれを無視した。どうせ、付き合っている人妻からだ。「今夜は主人が停電で帰らないから抱いて欲しい」。

「俺だって帰れないんだってえの。迷惑な学者先生が自殺してくれたお陰でよ」

 緊急の仕事の内容は、自殺した科学者のパソコンの復旧だった。ちょうど発電所の爆発事故の直前に自殺したこの科学者は、自分の研究室でパソコンを立ち上げたまま死んだらしい。現場には遺体と、拳銃と、停電でクラッシュしたコンピュータだけが見つかった。

 科学者は反人口生命機械技術活動の過激派であり、生体水素発電の危険性を独自に研究していたという。生前から敵の多かった人物であり、研究が研究だけに他殺の可能性も捨て切れない。自殺ならば遺言を、他殺ならばその理由をデータに残して死んだ可能性は高い。死んだ原因を知るためにも、早急にデータを復元することが求められた。

「死んだか殺されたか知らないけどよ、惜しいことしたな。この世は意外と楽しいぜ」

 倦怠感を隠さず仕事に臨んだ男だが、キーボードを叩く内に機嫌が上向いて来た。就労環境は悪いが、得意な技術を活かして金がもらえるのは悪くない。休みも残業も不定期な職場だが、ちょっと機転を利かせれば人妻とデートも出来る。男は自分の仕事を十分に楽しんでいた。

 男にはある種の達観があった。所詮、この世界に組み込まれている時点で、多かれ少なかれ人生はくそったれだ。無理していい目を見るでもなく、底辺に落とされることもなく、ほどほどのところで生きていければそれでいい。文明という娯楽に身を委ねていれば、人生なんてあっという間に使い終わる。

「ガッチャ。リカバリー完了……誰かに消されたってわけじゃなさそうだな、単純に強制終了でクラッシュしてただけだ」

 男は手際良く修復を完了した。フィクションの電脳ハッカー気分で、科学者が死ぬ前に立ち上げていたデータを探し出す。

「録音ファイルか? バカに長いな」

 男は好奇心に耐えられず、録音を再生した。溶けたスニッカーズを肴に、科学者の謎の鑑賞会が始まった。長い長い独白だった。

「ああ……ちゃんと録れているかな? よし、大丈夫そうだな。

 この録音を聞いているのが誰かは知らないが、誰にでもわかるようにかいつまんで話そう。私がこの世から逃げることを決意した理由を。もしも私が自殺に失敗し、生き長らえたり植物人間と化していたら、どうかそのまま死なせて欲しい。強いて言うならそれが遺言だ。私はもう生きるのが嫌になった。これから話すことを聞けば、きっと君もそうなる。やめるなら今の内だ。誰か他の人や警察に預けた方がいい。もっとも、君が警察官かも知れないが……。とにかく、この録音を聞くなら覚悟して欲しい。何せこれは、死んで行く私の最後の嫌がらせに近いものだ。私が抱えきれなくなった不安を、君に押し付けるためのものだ。

 前置きはもうこれぐらいにしようか。私の人生の最後だ、余計な言葉で汚したくは無い。

 私は科学者だ。人生を実験と研究に捧げ、人類の進歩のためにひたすらに努力して来た。私は歴史に名を残したわけでもないし、役立つ何かを発見したわけでもない。常にそうした功名からは一歩退いて、既存の技術の安全と是非を確かめることに心血を注いで来た。科学は翼だ。人はその力でどこまでも飛んでしまう。だが、その飛翔を制御する綱が無ければ、いずれイカロスは太陽に焼かれて落ちるだろう。私はその綱になりたかった。空を見るのではなく、大地とちゃんと繋がっているかを確かめるものになりたかった。

 私が最も危惧したのは、人工生命機械技術に関してだ。人類最大の発見は革命的な進歩を実現させたが、それは実験事故による偶発的な結果に過ぎない。生体科学は一から十まで人間が組み立てて作り上げたものではない。ほとんどが偶然によるもので、人はそれに指向性を与えたに過ぎないのだ。生体水素発電プラントはどうだ。あれだけのエネルギー源でありながら、歪な機械と人の手を何重にも介さなければ動かせない。個で生命として成立していないものを無理矢理利用するような技術を、人は扱えていると言えるだろうか。人は奇跡のおこぼれを預かっているに過ぎない。着実な地歩をおろそかにした奇跡に頼れば、いつか必ず破滅が訪れる。私は生命の倫理を問おうとしているのではない。この地球のサイクルから外れた命を操ろうとして、綿密に絡み合ったこの星のバランスを崩してしまうことを恐れているのだ。私は生命賛美者でも地球主義者でもない。ただ冷静な科学者として、この技術の危険性を憂慮している。

 生体水素発電は人類の手を超えている技術だ。私はその危険性を確かめるため研究を開始した。反発活動家のレッテルを貼られ、職と信用を失ったがそれでも続けた。誰もが目を背けている暗部に、本当の危険が眠っていると確信したからだ。

 私は頻発する爆発事故に着目した。事故原因や人的損失はこの際問題から除外した。問われるべきは、本当にこの爆発が環境に悪影響を及ぼさないかどうかだ。生体水素発電プラントは、爆発の際に膨大な量の水素を撒き散らす。確かに、旧来の発電方式に比べれば汚染が皆無に等しいのは疑いようも無い。水素は基本的に人体には無害だ。だが、爆発の度にこれだけ大量の水素が地表に溢れ、環境に影響が出ないわけがあるだろうか?

 研究を重ねて、私の疑問は確信へと代わった。地表にどれだけの水素が発散されれば環境に変化を及ぼすかをシミュレートした私は、恐るべき事実を目の当たりにした。飽和した水素は片端から酸素と結び付き、雨となる。連日の大雨は全てこの水素が原因だと思われる。大気中の酸素量が急激に減少すれば、バランスを崩した世界は次第に天候を崩し、気温は上昇の一途を辿る。前時代的な根拠の無い温暖化説とは違う。精密時計のように正確な地球の均衡は、一度崩れれば雪だるま式に崩壊を続け、二度と戻ることは無いのだ。気温の上昇に伴う環境の変化が、悪循環的に更に温度を上げていく。歯車が悪い方に噛み合い、終末の時計が進む。地球は砂漠だけの星になり、やがて海すらも枯れるだろう。

 私は急いで試算した。今までに何棟の発電プラントが爆発し、そして後何回爆発すれば、地球の水素量はデッドラインを迎えるのか。一度の爆発で生まれる水素量が幾度重なれば、この地球が壊れるのか。私は答えを知り、そして絶望した。

 四十二だ。四十二回の生体水素発電プラントの爆発をもって、この星は破滅に向かう。そして、現在までに実験段階を含め四十一回の爆発事故が起きている。次の事故で、地球は終わる。そして、それを止めるのはもう間に合わないだろう。

 私は絶望した。何もかも遅すぎたのだ。人類は、危険だとわかっていながらも生体水素発電を選んでしまった。事故死する人間が居ると知っていながらも、プラントが生み出す電力を利用していた。我々は自分で自分の首を絞めたのだ。お互いの足を引っ張り合い、この星を壊してしまった。この星のほぼ全ての生命の預かり知らぬところで、この星の運命は決まってしまった。私にはもう、この事実を抱えて生きていくことは出来ない。一足先にこの世を去ることにするよ。私は君にこの記録を押し付けて死んで行く。人が引き受けるにはあまりに重い荷物だが、すまない。結局、人間に星を背負うことなど土台無理があったのだ。

 やがて、地球はうだるような暑さに覆われるだろう。いや、地球がうだる日が来るのだ。人はそこにへばり付いて、干上がっていくことしか出来ない。

 人はこの先どうするのだろう。破滅の見えた繁栄を享受するか、少しでも生き長らえるため文明を犠牲にするか。それとも、滅びに向かった星を救うための研究を始めるだろうか? それもいいかも知れない。人の手で壊した星だ、人の手で治せないことも無い。それが、科学というものだ。

 では、私はこの辺りで失礼するとしよう。しばらくぶりに長く喋っていささか疲れた。休ませてもらうよ。ああ、最後に一つ質問させてくれたまえ。

 この録音を聞いている君よ。四十二回目の爆発事故はもう起きただろうか」

 銃声。雑音。そして、録音は終わった。

 男の手の中で、溶けたスニッカーズが握り潰されて床に落ちた。冷房を入れているはずなのに、男はうだるような暑さに包まれていた。

 

 

 
<了>
 
 

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