子宮泥棒(ウーム・スナッチャー

 ジョージ・レストレイドは、遺体を前にして溜息を吐いた。溜息は宵闇の濃霧に紛れた。

 彼個人として特定の信仰は持たないが、形だけでも十字を切った。神の加護からは縁遠いこの掃き溜めで、いかほどの効果が期待できるかは定かではなかったが、せめてもの気休めである。こんな場末の娼婦でも、浮かばれることを祈った。

 イーストエンド・ホワイトチャペル地区、バーナーストリート。大帝都ロンドンにおよそ相応しくない貧民窟の一角で、四十四歳の淫売婦、エリザベス・ストライド――通称ロング・リズは喉を切られて絶命していた。目撃という邪魔が入ったおかげで、少しの服の乱れで済んでいるところが不幸中の幸いであった。

 澱んだ雨に混じる彼女の血液は、未だ喉元から垂れ続けている。羽虫が群がる傷口から、レストレイドは思わず眼をそらす。しかし、他の三件に比べたら、ずっと慈悲のある状態だった。

「レストレイド警部」

 声のした方を振り返る。ウェスト巡査部長だった。まだ若く、加えて下戸だが、見込みのある青年だ。小雨だったが、彼の制服は多汗もあってかびっしょりと濡れていた。それは彼、ひいてはロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)全員の気苦労を象徴しているかのようだった。

「ウェスト君か。御苦労、どうだね、目撃証言は取れたのか?」

「ええ、近くの酒場でこの時間まで粘っていた男から」

「何だって?」

「身長は約五フィート(180cm)あまり。黒っぽいフェルト帽を被り、コートを羽織っていたと。まだ彼の証言した犯行時刻から半刻と経っていません。早急に犬は走らせましたが――

 レストレイドは、返事とも相槌とも取れぬ(うめ)きを漏らした。大量に返り血を浴びているはずの前回、前々回において、犯人の口髭一本もくわえて来なかったのだ。今回も望みは薄いか、とまで言葉を継ぐつもりはなかった。

 気まずい沈黙をウェストが埋めようとする。

「前の二件と共通するのは、イーストエンド内である点、鋭利な刃物で喉を切られている点です。一見したところ、他に目立った外傷はありませんね」

「……よし、検死に回そう。お前はもう少し証言を洗うんだ」

「了解」

 立ち去るウェストの背中を眼で追いながら、レストレイドは帽子を取り、禿げてきた後頭部をいささか掻いた。以前からの悪い癖だ。しかし、これが本当に少し過去の話であったなら、現場は若いのに任せて、今すぐにでも馬車をベイカー・ストリートに走らせるというのに。今はそれが叶わないということを如実に想い出し、レストレイドは強く歯噛みした。

 大量の警官でごった返している現場は、深夜だというのに(かまびす)しかった。何事かとアパートの窓から顔を出す者がいたかと思えば、ひとときの安眠を妨害する我々に階上から汚物を放り投げてきた。連日の報道に眼を通してきたレストレイドにとって、その行為に対して怒りよりも謝罪の気持ちのほうが勝っていた。それは他の警官も同じだった。

 初動捜査は上手く行っているはずだ。それが何故、我々はここまで敗戦色を帯びなければならないのか。

 ぼうっとしていた彼のすぐ横に、早馬が乗り付けた。あまりの臭気に、馬が鳴いて文句を垂れる。

 中から飛び出してきた警官が、血相を変えて彼を呼んだ。

「レストレイド警部! 今度はマイター・スクエアで、また娼婦の死体が!」

「な、何だと!? 向かおう!」

 レストレイドは馬車に乗り込み、道中で事件の概要を聞く。顔に切り傷、腹部を切開、内蔵、恐らく子宮を切除……おどろおどろしい文言に御者が肩を震わせた。

 まさか、一晩で二人も殺されるとは――いや、どこかで予期していたきらいはあった。ヤツならやりかねない、と。

 ――新聞社にふざけた手紙を送りつけ、月明かりに反射する銀のナイフをかざし、今夜もどこかで高らかに嘲笑(わら)っている。

 そう思うと、レストレイドは怒りで全身が震えてならなかった。

「切り裂きジャックめ……」

 

 数日後。激務の合間を縫って、レストレイドは郊外の霊園に出向いた。一八八八年十月初旬。稲光でも落ちてきそうな、どんより曇った初秋の時分であった。暇そうに新聞を眺めていた墓守から花を買い、中に入る。彼もまた、切り裂きジャックの記事に釘付けであった。

 切り裂きジャック――ジャック・ザ・リッパーが初めて現れたのは、今年の八月末日午前三時のことである。イーストエンド・バックス・ロウ地区での娼婦メアリ・アン・ニコルズの殺害からだ。喉は裂かれ、腹部は切開されて体外に腸が飛び出し、性器にまで傷跡が付いていた。警察は躍起になって事実関係を洗ったが、物取りも怨恨の線も消えた。つまりは、まったき異常犯罪であり、その一件だけでも付近の住民を震撼させるには事足りた。

 しかしながら、事件は続いた。

 九月八日、アニー・チャップマン殺害。連続性もさることながら、壮絶な現場の状況が、恐怖心をより強く煽り立てた。

 やはり喉を切り裂かれ、腸が肩まで引きずり出されていた。加えて、子宮と性器、膀胱まで切り取られていた。だが、陵辱の跡はなかった。前回の件もあわせて、性犯罪と言えるかは難しいところであった。

 この頃になると世間も注目し始める。何やら恐ろしい殺人鬼がロンドンのスラム街をうろつき回っているらしい。市民に不安の種と格好の話題を提供してしまった警察は、ようやっと本腰を入れて事件を追いかけることにした。

 特に検視官は、アニー・チャップマン殺害に際して、犯人が子宮を持ち出している点に着目した。凡夫であれば、刃物一本で正確に腹部を切開すること自体不可能であるし、切り裂いたところで子宮の位置はわからない。医師か、医学生か、何にせよ一廉(ひとかど)の人物であることは間違いないという見解が主であった。

 ここ数ヶ月の間の似たような殺人事件をまとめ上げると、前述した二件を合わせて九件ほど起きている。しかし、昨夜ほぼ同時刻に起きた直近の二件とメアリ・アン・ニコルズ、及びアニー・チャップマン殺害の四件を合わせて切り裂きジャックの犯行とする意見が根強い。娼婦、喉を裂かれて絶命、イーストエンドでの犯行、これらのファクターでくくるとまずこの四人が浮かんでくるからである――

 

 レストレイドは旧友の墓前で足を止め、「偉大なる……」から始まる墓碑を読んだ。刻まれているのは紋切型の常套句だが、ここに連なる墓の中でも唯一、それに十二分に相応しい功績を残した男が眠っていた。彼は時代の寵児、まさしく天才であった。彼との些細な対立や不審感も、今となっては温かみのある思い出に美化されている。

 レストレイドは、彼が生前愛していたクレーパイプで煙草を呑んだ。深みと苦みの混じる奥深い味わいも、今ではいたずらに郷愁を誘うばかりだった。腹立たしいほどに警察を出し抜き、見るも鮮やかに犯人を追い詰め、常に法と正義とロンドン市民のためにその身を粉にして働いた、名探偵シャーロック・ホームズの墓を前にして、煙をゆっくりと吐いた。

 生前は、没したら海に骨を撒いてくれと公言していたホームズだが、いま彼の骨は滝壺に散らばっている。せめて、河を下り、大海へ流れ出ていることを祈ろう。

「いらしてたんですか」

 回想の中にいたレストレイドは、瀟洒(しょうしゃ)な傘を携えてやってきた婦人に気付かなかった。

「ハドスン夫人……ええ。葬式も出られなかったものですから」

「まあ、そんなこと。気にもとめませんわ、あの変人なら」

 そうくすくす笑うも、どこか寂しげに映る。

 ハドスン夫人は、ベイカー・ストリートにあるホームズの下宿の管理人で、現在はホームズの旧い友人などを招き、名探偵の遺産を整理しているという。いつも愛嬌のある笑顔を絶やさず、太い胴回りをゆさゆさと揺らして、吸血鬼の生活を送る奇人の世話をしていた彼女が、葬式では人目もはばからず号泣したそうだ。レストレイドはその話を又聞きしただけで目頭が熱くなった。

「お仕事のほうは? 今日は非番でしょうか?」

「いえ、失礼ながらこのままとんぼ返りしようかと。目下、課題が山積みでして」

「そうですか。どうか、お身体に気を付けて」

「ありがとうございます。留意します」

 ハドスン夫人は少しためらってから墓に手を当て、やはり切り裂きジャックの話題に触れる。

「ホームズさんが生きていたら、きっと今頃お縄に付いていますでしょうね」

「そしたら貴方も仕事にかまけず葬式にだって参列できましたのに」とでも言われるかと、一瞬だけ身構えてしまったレストレイドは、「それでは因果関係が破綻するでしょう」と胸中で無意味に反論、いや、弁解をする。

「ええ。間違いなく、朝飯前でしょうな。相手がどんな卑劣漢であろうとも、得意のバリツで――」

 

 数ヶ月前。

 あのホームズをして犯罪界のナポレオンと言わしめた長年の宿敵、ジェームズ・モリアーティ教授と、スイスはライヘンバッハの滝で一騎打ちになり、ふたりとも滝壺に落ちた。必死の捜索の甲斐も虚しく、ふたりの水死体は上がらず、稀代の名探偵は行方不明者として長らくリストに載っていたが、然るべき期限が来た後、遺骨のない葬儀をしめやかに執り行った。英雄シャーロック・ホームズ最後の事件としては、あまりに悲痛すぎる顛末だった。

 あの後、彼の物語を最も身近で聴き、綴り、世間に送り出していた伝記作家で医者のジョン・ワトスン氏も、妻を亡くしてベイカー街から姿を消した。役目を終えた登場人物の退場という、ドラマにしても出来過ぎている隠遁。その心中を察する。

 ――あのゴミか宝かもわからない物で溢れ返った221Bの下宿に、何人もの大の大人が集まって、泣いて懇願する依頼人に朝食のメニューと靴のサイズを尋ねる彼の後ろ姿を、永遠に見ることができないとは――

 いまはただ、あの日々がひたすらに懐かしかった。

「……失礼。ハドスン夫人、私はこれで」

 気まずくなる一方の場から一刻も早く抜けだそうと、一礼して歩き始めようとしたレストレイドを、夫人が引き止めた。

「すみません。大変申しあげにくいのですが、遺品整理を手伝って頂けませんでしょうか?」

「――それはご婦人にすべて任せるのはあまりに無慈悲でしょうから、いずれ手伝いに参ろうかと思っていましたが、生憎ですが御存知の通り、立て込んでましてな」

「いえいえ、何も家具や調度品を現職の警官の方に引き取って欲しいというのではありませんわ。そういったものは粗方、業者に頼んでやらせましたし、先日もホームズさんの旧い友人がいらっしゃいまして、お手伝いをしていただきました。問題はホームズさんが、生前集めていた資料やメモといった類のものでして……」

 みなまで言わずともレストレイドにはわかった。ありとあらゆる学問に精通し、何よりも警察以上に警察の真似が出来る男だったのだ。古今東西の犯罪にまつわる膨大なファイルが、薄暗い下宿にはまだまだたんと眠っていることだろう。懇意にしていた警官という正義の光のもとへ、ホームズの形見は渡るべきだと夫人は考えた。

 それなら協力しない手はない。どうせ、次はいつベイカーに寄れるかわかったものではないし、そう何度も足を運びたくなる場所ではなくなってしまったのだから。

「わかりました。向かいましょう」

 

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