――事件開始、三分後――

 

 あの悪漢どもが王女をかどわかしてから、時間にしてせいぜい三分が過ぎたくらいであろう。たったそれだけの時間で、事態は急転直下を迎えた。王女がさらわれ、人が死に、二人の騎士はひたすらに大通りを走っていた。

「エルネルド! 早くしろ!」

 騎士ウィンザック・バルツァーは常のように簡潔に同僚を呼び付けた。時代遅れの重厚極まる甲冑で全身を覆っているにも関わらず、その追走はつむじ風の如く速い。踏み出す度に鎧が耳障りな金属音で啼き、まるで一つの破城戦車が行くが如く。鋼鉄の質量と轟音が、大通りの賑わいを割って突き抜けていった。

 その背中に追いつこうと懸命に走る騎士エルネルド・ブラウンフォウドだったが、がんがんと痛み出す靴擦れの傷が顔を顰めさせた。つま先の高い装飾用の伊達靴だ。歩くことにすら気を使うような代物で、普段通りの走りなど望むべくも無い。酸素の不足を訴えて脳が痛む。視界が歪み、歩き慣れた街並みが冷たい顔を見せて哂う。命令を聞かない体を、エルネルドはもどかしく震わせた。

「置いて行く!」

 置いて行くぞ、という確認すらなく断定する。走り去るウィンザックの右手甲から滴っているのは、先ほど顔面を陥没させられた誘拐魔の、血と脳漿の混じった薄赤色の体液だ。エルネルドは石畳に途切れ途切れに続く血痕の一つに倒れ込んだ。初めて殺人を間近で見た。胸の震えに脳と胃が揺さぶられた。

 人が死んだ。殺したのは同僚のウィンザックで、殺されたのは王女殿下を拉致したならず者のその一人だ。エルネルドはたまらず嘔吐した。

 数歩下がった路地裏にはまだあの男の死体がある。数十歩走った先には見えなくなりつつあるウィンザックが走る。そして更にその先には、守るべき主をさらって逃走する敵達が居る。しかしエルネルドは動くことすら出来ず、自分の吐いた吐瀉物の上にうずくまっていた。

「くそったれめ!」

 熱い胃液で爛れた喉で、エルネルドは呪詛を叫ぶ。太陽はまさに雲で覆われ、陰鬱な白い闇が王都の町並みを覆いつつあった。

 

 

――事件開始、十時間前――

 

 騎士、エルネルド・ブラウンフォウドはまこと今風のすくたれ騎士であった。

 格好は爪先から帽子の鍔まで洒脱で過剰。曲がって上を向いているブーツの踵には星型の滑車。黄色地を基調とした衣服はとても戦士のものとは思えない、極彩色の鳥か虫の如くだ。あえて荒々しく巻き付けた大振りのベルトで野性味を演出しつつ、当世大流行の首に巻いたカーチーフで気品を絶やすことはない。通例羽飾りを付ける鍔広帽は、翼模様の意匠をあしらっただけで飾りを付けていないシンプルな逸品となっている。長手袋は金糸の刺繍、申し訳程度に佩いた突剣は、竜が描かれた見事な鞘に収まっている。

 湿ったベッドに寝転んで、エルネルドはぼんやりと自分の豪奢な外着を見ていた。狭く汚いこの暗がりでも、彼の商売道具はうっとりするほど美しい。

 今日も違う女の部屋で朝を迎えたエルネルドは、まだ眠っている相手を残してベッドを後にした。ドアの軋みで女を起こさないよう気を配りながら。

 腐って傾いだ階段を降り、片目の白濁した大家の睨みを軽くいなして外に出る。リューガル王国王都アレスティア、三番街裏スラム。ごみごみと積もった共同住宅街の戸外、陽の光すら届かない深みで、エルネルドは大きな欠伸を一つした。鼻に吸い込む朝の空気は、相変わらず篭った不潔のすえた匂いだ。

「くそったれ、今日もいい朝だ」

 エルネルドは誰にともなくそう言った。凍える浮浪者が鬱陶しげな視線をよこしたが、エルネルドは委細気にせず歩き出した。

 色彩の無い夜明けのスラムに、派手な黄色のシルエットが踊る。エルネルドは頭上と足元に気を付けながら、狭くくねったスラムの街路を進んでいく。足元の汚物に、寄ってくる掏摸や強盗に、上の窓から落とされるレンガ。この餓えた鼠の穴ぐらでは何に襲われても不思議ではない。跳び、またぎ、角度を窺う、その様子はちょうど気の利いたステップを踏んでいるようで、エルネルドの洒脱な服装と合わせて、この薄汚い路地裏にはどこまでも馴染まない。灰色の街並みを黄色の道化がすり抜けていく。死んだ目をした素寒貧とうずくまる痩せぎすの子供だけが観客であった。

「ヒマワリの旦那ぁ、景気はどうだい」

 とんがった帽子の浮浪者がエルネルドに呼びかけた。誰も耳を貸さないであろうしわがれ声に、エルネルドは足を止めて返事をする。

「上々だ。若くて締まってて病気も無かった。金も少なかったが、始めて間もないんだろうな」

 黄色い騎士殿は上機嫌で巾着袋を取り出してみせる。昨日抱いた娼婦からくすね取った財布だ。そこからコインを一枚出して、親指で弾いて浮浪者に飛ばす。住む世界の異なる相手だというのに、エルネルドと浮浪者は旧友のように親しく、油断なく、言葉を交わす。

「ヒヒ……相変わらずひどい騎士様もあったもんだ」

「現実を教えてやったのさ。こんな伊達男と一晩過ごせたんだ、安いぐらいさ」

「その調子でプリンセスもこましちまおうってかい?」

 エルネルドは肩を震わせて笑った。その目は野心にぎらついている。汚らしい男は乾いた笑いを上げて許しを乞う。

「そうな……最近は便利屋イシュタルの噂が流れてる。もうこの街に入ってるらしいな」

 とんがり帽子がコインを咥えると、その虚ろな眼に知性の光が宿る。浮浪者はもごもごと喋り出した。口説いた娼婦から体と金だけいただいて、彼ら情報屋から噂を集めるのがエルネルドの朝の日課だ。今時の騎士が武器にするのは、コネと金と情報だけだ。騎士道と正義と誇りはとっくに犬に食わせてしまった。

「便利屋? イシュタル?」

「南のボルニアで鳴らしてる腕利きのならず者さ。腕っ節は強かないが、どんな仕事でも必ずやってのける。そして死なない」

「そいつが何だって?」

「さあね。どうも船の用意をしているらしい。無駄なことはしないヤツだ、きっと何か始める気だね……」

 エルネルドは顔をしかめた。今日のニュースは役立たずだった。彼が求めているのは貴族の痴話や実力者の弱味、社交の場で使えそうなカードなのだ。たかがごろつきの動向など、栄誉ある騎士たるエルネルドには何の関係も無いことだ。

「おや、ご不満かい。そいつは悪うござんした、何しろ俺たちゃドブネズミ、太陽を守る騎士様方には世界が違うお話ばかりで……」

 鼻を鳴らし、肩をすくめ、エルネルドは再びスキップを踊る。その所作のいちいちが、鼻につく気障ったらしさを隠しもしない。騎士エルネルド・ブラウンフォウドは、慣れた調子でこの街の底で息をする。

 

 

――事件開始、五分後――

 

 ウィンザックは猛追を続けていた。この自体錯誤の騎士甲冑が疾走を始めて早五分に至ろうとしていた。落伍したエルネルドの姿は見えない。ウィンザックはもう振り返らない。

 ウィンザックの家に伝わる鎧甲冑は家訓の如く質実剛健であり、父祖が戦場にて百里を走り、功を上げた由緒正しきものだという。そうと思えば、軋む鎧の重みも苦にはならなかった。ウィンザック・バルツァーはそうした人間だ。石畳を削るように突き進む鋼鉄の塊に、群衆は慌てて道を開けるばかりだ。

「王女……!」

 絶え間ない金属質の足音に、時折主を呼ぶ呟きが混じった。格子状の面頬を下して顔を覆った兜の先は、常に左前方に向けられていた。通りを駆け抜けるウィンザックの上、街路に沿って立ち並ぶ家々の屋根に、時折その姿が現れては隠れる。ウィンザックが追う、王女とその誘拐犯達は、建物の屋根を伝って逃走を続けている。

「チィッ、仕事熱心な騎士様だ」

 騎士の追走を見下ろす屋根の上、誘拐犯、便利屋イシュタルは忌々しげに舌打ちした。さらった王女をその肩に担ぎつつ、ましらの如く身軽な足取りで屋根から屋根へと飛び伝い、後続の部下達に飛び方を指示する。そしてその目は追い縋るウィンザックの姿も見失わない。二つ名の通りに器用で熟練した荒事屋は、二人の仲間を後ろに従えて空を闊歩する。誘拐魔達はウィンザックを意識しつつも、ひた逃走に専念している。

 平和な王都の昼下がりで、密やかな大立ち回りは続いていた。大胆なる王女ソアラの誘拐計画は、まだたった二人の騎士にしか発覚していないのだ。

「逃がさん!」

 ウィンザックは己を鼓舞して走り続ける。ならず者の目的は何か、王女がさらわれた理由は何か、そんなことは彼の考えの埒外だ。仕えるべき主を全力でお守りする。それだけが心の炎となった。

 

 

――事件開始、四時間前――

 

「オッ、あいつさん、またぞろやってやがる」

 禿頭の床屋が下卑た関心の声を上げた。にやけて歪んだ赤ら顔は侮辱と嘲笑を隠しもしない。軋む椅子に身を預けて髭をあたらせていたエルネルドが少し首を動かすと、窓の向こうの広間にあの男の姿が見えた。

 胴体を包む白銀の板金鎧。格子状の面頬を下ろした兜。きちんと留められた重厚な篭手と具足。鞘に納まるは肉厚で太く長い剣。百年程時間を間違えたか、三文芝居か古臭い騎士道本から抜け出てきたかのような、時代錯誤な甲冑男がそこに居た。ぴんしゃんと歩いては周囲に目を見張り、時折駆け足をしたり体操を始めたりして顰蹙の視線を浴びている。

「あのばかやろう、いつもあの調子なんですぜ。暑苦しいよろいにだんびら提げて走り回って、誰彼構わずぶん殴りやがる。あれで正義の騎士様のつもりなんすかね」

 騎士ウィンザック・バルツァーは王都でも有名な変人だった。今時絶えて久しい本物の堅物騎士。この国が、リューガルが野放図に戦争し、勝利していた時代に作られた騎士道という幻想を信じ切ってしまった大馬鹿者。家宝の全身鎧をまとって街を闊歩し、己の正義を信じて疑わない世間知らずの狂人だ。

「俺っちのダチもあいつにカタワにされちまったんすよ。アガリは納めてたってのに、むっちゃくちゃやりやがる」

 床屋が少ない歯を軋らせて唸った。チンピラやポン引き、掏摸、乞食、娼婦のような連中にもルールがあり、それらは上納と不干渉という厳密な取り決めで成っている。彼らはその縄張りを牛耳る騎士や貴族に、取り締まりを緩めてもらう代わりに上納金を納める。犯罪は見逃され、悪徳騎士達は潤う。そして、縄張りを越える仕事には決して手を出さないよう騎士達が紳士協定を締結する。より弱き者達が虐げられ、悪い奴ほどよく笑う。何ということは無い、どんな世界でも行われている弱肉強食の摂理を、この国では騎士達が手ずから運営しているだけのことだ。

 だが、そんな暗黙の了解にウィンザックは頓着しない。ただ、己の基準と騎士道の天秤をもって善悪を判断し、正義の名の下に暴力を行使する。当然報復や制裁がなされるが、ならず者などはけしかけたところで返り討ちにされ、あの鎧姿の筋肉達磨と決闘などやりたがる者も居らず、ほとんど嵐か何かの災害だという諦めで放置されているのが現状であった。誰からも腫れ物扱いされるウィンザックは、しかしある意味ではこの腐敗したリューガルでただ一人の本物の騎士なのかもしれなかった。

「ったく、くそったれのヒマワリどもめ。売女のご機嫌取りに夢中で何の役にも立ちゃしねえ。まずは身内のイカレ野郎を取り締まりやがれってんだ」

 ヒマワリ。床屋は強調するように言う。王女直属の親衛騎士団、向日葵の黄色。ウィンザックも所属するその誉れ高き部隊は、王位継承権一位のアレアス王子誕生の瞬間、完膚なきまでに形骸化した元エリート騎士団だ。未来の王位を奪われたソアラ王女の太鼓持ち達はこぞって皆鞍替えし、当時わずか八歳の王女は一切の権威を失った。向日葵の黄色はその団員をごっそりと減らし、王都仕えの騎士の間でヒマワリは閑職の代名詞となった。王権に近しい一握りの諸侯や旧来の名家でもない限り、騎士という職業はいいところごろつきも同然だ。餌をくれる主ならば誰にでも尻尾を振る。沈む船に乗り続ける鼠は居ない。

 かくして、ヒマワリと揶揄される向日葵騎士団に与えられる仕事は、形だけの警邏活動に治安維持、さもなければ荒んで放蕩するソアラ王女の暇つぶしのお相手ぐらいのものだ。ウィンザックのような変わり者の功績もあって、その悪名と昼行灯の称号は不動のものとなっていた。

「そもそもに、女のくせに王位を継ごうって根性が気に食わねえ。アレアス王子がお生まれ下すって良かった、あんな淫売が国を取ったらもうお終いだ、イカレ騎士どもが幅を利かせるこの世の地獄の出来上がりってね」

 エルネルドは興味深そうに頷いた。なるほど、これが素朴な民衆の意見というわけだ。そして、ふとこの汚くて粗野な床屋をひねり潰してやりたい衝動にかられた。

「あの鎧男はウィンザック・バルツァー、俺の同僚だよ。そしてその淫売とやらが俺のお仕えするソアラ第一王女だ。実は、俺もくそったれのヒマワリの一員なのさ」

 欠けた歯を見せて機嫌良く笑っていた床屋が怯んだ。エルネルドは意地悪く微笑んでやり込める。メルザックの奇行と王女の自暴自棄については概ね同意見ではあったが、こんな平民に馬鹿にさせておくのも筋違いに思えた。愚者に愚弄の権利は無い。

「や、旦那、これぁその、冗談みてえなもんでして」

「無礼打ちにしてやろうか? ああ、誰もお前の命なんか欲しかないから安心しろ、指をへし折って仕事を出来なくするだけだ。それとも、残った歯を全部もぎ取ってやろうか」

「し、失礼いたしやした! お代は結構です、どうぞ、どうぞ平にお許し下せえ」

 軽く言い放つエルネルドの口調が、なおさら床屋を恐怖させたらしい。エルネルドは満更でもない顔で立ち上がると、桶の水で顔を打ち、椅子を乱暴に蹴飛ばして店を後にした。床屋の歯軋りに騎士の哄笑が浴びせられた。

 気分良く広間に出たエルネルドを、中天の太陽が出迎えた。甲冑に身を包んだ男の兜がこちらに向けられている。

「よう、騎士殿。今日の散歩相手は俺とお前だぜ」

 エルネルドは鷹揚な態度を隠さずに声をかけた。

「騒ぎがあったようだが」

 日光を反射して銀色に輝く鎧兜の奥から、水分の無い声が響いた。騎士道物語の鎧甲冑が、ウィンザック・バルツァーが、人間の言葉を喋った。

「何もない」

「そうか」

「行こうか」

「そうだな」

 エルネルド・ブラウンフォウドとウィンザック・バルツァー。外見も性格も正反対の、ヒマワリの騎士二人が並んで歩き出した。

 今日から二人に命じられた任は、ソアラ王女のご遊興の護衛だ。平たく言えば、退屈と鬱屈の憂さ晴らしを求める少女の捌け口。哀れな王女を楽しませる道化役だった。

 

 

 

《前へ》 《次へ》