僕がクロに出会ったのは、二週間前の暑い夏の日だった。

 捨て猫のクロ。みかん箱にしかれたタオルの中で、うずくまっていた。真っ黒な子猫。これから先どうしていいか何もわからない、そんなふうに見えた。

 いつもの通学路。家の近い友人とも別れたあとの裏路地に入ったあたりで、ポイ捨てには少し大きすぎたダンボールを見つけたのだ。温州みかん、と側面に大きく印刷されていた。それを上書きするように、「夏物」と黒マジックで書かれていた。その紙箱の上に、とっくに乾いた誰かの下着が、風で飛ばされたのか、落ちていた。黄色いガムテープで補強されたそれはやたらと目立って、薄暗い中でもはっきりと僕の視線を奪った。すぐ脇のアパートからつきだした、用途の分からない壊れたパイプより、ずっと目立っていた。

 別段猫好きというわけでもない僕は、ダンボールの中身に少しだけがっかりした。何を期待していたわけでもなかったけれど、好奇心はいかなる時も僕の心を引っ掻き回すのだ。そうして見つけてしまったクロを放って置けるはずもなく、いつか見た映画の主人公のように、そのダンボールごと家に持ち帰ったのだ。

 

 

 

「ごめんなあ、クロ」

 僕は友達にもしたことがない土下座で謝った。落ちていたガラス片が膝に当たってやたらと痛かった。

 全く。良心ってやつは見境なく働くくせに、責任までは引き取ってくれないのだ。ただ、偽善とも取れる同情とともに、僕を突き動かし、気がつけば猫嫌いな両親のお怒りをくらい、おまけに父のげんこつ一発を右頬に頂いた。それだけだった。無力な、経済力どころか家に居続ける時間さえも持たないこの僕にできたことといえば、こうして、むくわれない毛並みの真っ黒な子猫に毎日、安い食事を持っていくことくらいなものだった。

「みゃお」

 それでもクロは気持ちのよい声で鳴いた。はじめこそ警戒していたものの、今はすっかり仲良しになった。いつだって、皿の上からはみごとな早さでキャットフーズが失われていった。そんなふうに、がつがつと勢い良くクロの食欲が満たされていくのを見るのが僕のささやかな日課となった。

 妹から言わせれば、まどろっこしいだけという僕の考えを、クロが理解してくれたかはわからないけれど、少なくともその場から逃げ出さずに聞いてくれた。妹よりずっといいやつだ。たとえ、それが僕の自己満足だと誰かがいっても、僕としては一向に構わなかった。

 誰もいない、日差しのない路地裏は、ときたまふく風のせいもあって快適だった。そこは、クロというパーツを含めた僕の隠れ家になっていた。気持ちのよい風は吹いても、突風はめったに吹かない。そんな場所に。

 

 

 

……今日さ、失敗しちゃったよ、クロ。僕、バスケは向いてないのかもしれない」

 クロは不思議そうに首を傾げる。僕の目にはどうしたの、と言外に、鳴き外に、言っってくれているように見えた。僕はすっかり調子に乗って、まるで興味津々な傍聴者に向けて話すように、べらべらと喋った。

「監督がさ、よく言うんだ。『このチームにお前の代わりはいない! だから、頑張れ! そういっただろう、なのに、どうして外すのだ! どうして抜かれるのだ! いいか、これは百パーセントお前のミスだ。俺はしっかりと指導した。自主練習のメニューも渡した。だが、お前はやってないんだろう。そうだろう。でなきゃ、ミスをするはずがない! ないったらない! いいか、今回の敗因はお前だ。帰ったら学校の周り百周だ! いいな!』

ってね、畳み掛けて、みごとに僕は頷いちゃってさ。きっとクロもそうしたんじゃないかな、って、そうだよね、そもそもなに言ってるかわかんないよね」

 みゃお、とクロは鳴く。何かに同情するみたいに、聞こえたし、なんだか、特別な、それも僕専用の言葉を含ませているように、やたらと感情的に見えた。まるで、お腹がペコペコなときに餌をくれっ! っと鳴く時みたいに。

「学校の周り百周ってどのくらいあるんだろうね。考えたくもないけど、考えずに監督の言葉に頷いた結果がこれだからなんとも言えないなあ。とにかく、走り終わった時にその場にへたり込んでそのまま、仰向けに倒れるくらい疲れるには十分な距離さ。たぶん、クロでもきついと思うよ」

 はあ、と。溜息とともについさっきまでの疲れを憂いた。もう、保健室で休んだから平気だけど、本当に死ぬかと思ったな。

「でもさ、案外、極限状態まで行くと、というかその状態を超えてしまうとさ、力が出たりするんだよね。おかしな話だけど。極限状態を超えるなんて、その時点で言葉が矛盾しちゃってるんだけどさ」

 くすり、と笑いが漏れる。自分の話でおかしさに笑うなんて、それこそあんまり褒められたものじゃないおかしな奴なんだけれど。クロが口をおもいっきり開いてあくびをしながらけづくろいしてるのを見ていると、おかしさなんて気にならなかったりした。理屈もなにも合ったものじゃないけれど、猫には色んな物を和らげる力がある。そう、思うのだ。だから、というわけではないけど、すっかり猫派になっている僕だった。もちろん、クロ派である可能性も否めないのだけれど。 猫を意識するようになると、おもしろいもので、日常生活において、猫というやつは結構遭遇率の高い生き物らしいということがわかった。その確率は、僕みたいにそれなりで人並み以下の人付き合いしかしていない、ようするに友達や知りあいの少ない人間を基準にして考えると、町中歩いて見知った顔に会う可能性より、ずっと高い。

「もっとおかしいのがさ、とっくに監督が帰っちゃってるのに、八十周目ぐらいにはもういなかったのに、監督不行き届きだったのに、みごとに疲れきって、それこそ極限状態だったのに、なんでかやめなかったんだよね。まあ、それが負けず嫌いという僕の新たな一面なのか、それともヘタレ根性なのかわかったものじゃないけどさ。でもね、最悪の体験だったし、もうほんとならバスケ部やめてやるくらいの勢いで怒るところなんだけど、なあんか、さこの達成感というのか、走りきってから見上げた時の空の色がやたらと綺麗だったとかこう、全力を出し切った経験がなかった僕にとってはすっごい新しかったんだよね。いつも、どこかで手を抜いていたはずの僕がさ、全くなにやってんだかね」

 僕はまた笑った。でも、割と自虐でもない、ただの自分語り後の照れ隠しかもしれない。なぜかわからないけど、愚痴えんえんと話そうときめてかかるくらいの暗い気分だったのに、話しているうちに、どんどん、余計なことまで話していた。そして、見えなかった部分が、それこそ愚痴に隠されてた光る部分が、いい具合に姿を見せて、言いたいことと事実と理解が咬み合って、結局僕は、落ち込まずに済んでいた。さすがクロ。お前はすごいやつだ。僕は無口な親友に心底感心していた。そんな風にして、毎日、クロと話していた。……いや、実際には一方的に話しかけていただけだったけれど。

 

 

 

 そして、今日、僕は素敵な隠れ家を失った。

 空箱となったみかん箱を見つめ、僕は今日クロに向かって言おうとしたことを頭のなかで反芻してみた。くだらない。親友が無口なのをいいことに、こんな中身の無い話を、二週間もの間並べ立てていたというのか。僕が友人なら、さっさと縁を切っているだろう。そんなことを、思った。ひとりよがり。寂しかったのはクロじゃない。僕が救おうとしたのは寂しい捨て猫じゃなかった。紛れも無い僕自身だったのだ。

 秘密基地としての機能を欠いた路地裏に、やかましい蝉の声と少しばかりの嗚咽がいつまでもこだましていた。

 

 

 

 一ヶ月後

 僕は性懲りもなくクロみたいな子と友だちになった。

 彼女の名前は、分からない。

 学校の帰り道。どうやらその時間は、それから近道であるその裏路地は僕にとって特別な意味を持つものらしい。誰も居ないはずの路地裏で、彼女は静かに泣いていた。クロを失った時の僕とは違う、上品な涙が流れ落ちていた。

 出会った日、彼女は黒い無地のTシャツに、それを引き伸ばしたようなロングスカートを履いていた。とてもおしゃれとは言えなかった。好きできているのでも、ないように見えた。もちろん推測でしかないけれど。また、彼女は何も口にしなかった。僕の存在に気がついても、彼女の小さな唇からは何一つとして言葉という言葉が紡ぎだされることはなかった。

 狭い路地で、無言の通せんぼを食らった僕はひどく戸惑ったけれど、ひとしきり考えたあと、泣き止んだもののなお立ち去る気配のなかった彼女に、そっと飴玉を差し出した。それは帰り道の僕の甘やかなお楽しみだった。わかっている。これは例に漏れず、悪い癖だ。とれもしない責任を感じ、放っておけなかった。もちろん、自分のために。

 彼女は目の前に差し出されたそれを、なんの躊躇もなくうけとった。なぜかはわからないけれど、僕と彼女の距離はとても近づいたように思えた。そして、ありがと、と一言だけを、まるで、代わりにと言わんばかりに残すと、彼女は僕の家と同じ方向にかけ出した。その顔がほんのり赤くなっているのがみえた。顔を腫らすほど泣いていたのか。一体、なにがあったのだろう? 僕は馬鹿なのかもしれない。彼女を見た時すぐに分かっておかしくなかったのに。

 

 

 

 ……彼女にとっても、この路地裏は特別な場所だったのかもしれない。

 それとも、これまで、時間が合わなかったから、会わなかっただけなのかもしれない。クロがいなくなった日から、悩み始めて、僕は部活をやめたから、帰る時間が早くなって、ただでさえ少なかった友人がさらに減ったから。だからか、一ヶ月のブランク後にクロと入れ替わるように現れた彼女と僕は幾度と無く、というより、毎日会うことになった。そうして、帰り道を共にするのが、日課になった。

 彼女は服の色だけでなく、聞き上手という点まで、クロとおんなじだった。だから、とはいえないけれど、僕が彼女を好きになるのに、時間はかからなかった。でも、彼女の名前を聞くことすら、僕にはできなかった。すっかり、臆病になってしまったのだ、と僕は結論づけているけれど、やっぱりもどかしい。彼女のことを知りたい。でも、わがままになれば、クロのように、どこかへいってしまうかもいれない。ぐるぐるとそんな感情が胸の内を巡っていくのを実感しながら、今日もできるだけ面白い話をしようと頭をひねっている。

「ねえ、今日もいい天気だね」

 ……失敗した。確かにいい天気ではあるけれど、そんなのひとりごとと変わらないではないか。僕はで頭を抱えてその場にうずくまりたい気分になった。

……そうね。うふふ」

 なぜか、彼女は笑う。いつものように、喪服のような黒ずくめ。彼女の少し俯き加減な顔に、優しい表情が広がった。素敵な笑顔だった。僕は、彼女に会ってから、やたらと恥ずかしい言葉ばかり思いつく。美しいとか素敵だとか、そんなに好きでもない小説中か、上品な女性の口からしか見たことがないような言葉ばかり。口に出さなくても、恥ずかしいことってあるということをつくづく実感している。全く、クロと似ているだって? だれが言ったんだ、そんなの。

……

 照れ隠しに、頬を掻く。すっかり、癖になってしまっていた。そのうち、皮膚が剥がれて、随分不細工な中学生三年生になってしまうかもしれない。

「ね、ねえ」

 にこにこしながら、期待を込めた目で見つめてくる彼女に、とりあえず、語りかけてみる。

「なにかな」

「うーん、と。こんなに天気が良いんだし、公園でも、行かない」

「いいよ。ここがいい」

「そっか」

 僕は露骨にがっかりしかけて、なんとか踏みとどまり、頷いた。

「そういえばさ、いつから、ここ使うようになったの?」

 唐突な質問に彼女が少し考える。

「うーん、かなり前からかなあ。少なくとも、一年は前だよ。どうして?」

「いや、実は僕もここが気に入っててさ。多分、君よりももっと前からこんな風に近道として使ってたんだ」

「そうなんだ。でも、それならなんであわなかったんだろうね。これまで」

「きっと、僕が部活やってたからだよ。つい最近まで」

 僕は自然に会話がつながったことにホッとした。

「ああ、もう、引退の時期かな。スポーツ部?」

「うん。スポーツ部なのは確かなんだけど、引退とはちょっと違うかな」

「そっか。何部だったの?」

「何部だと思う?」

 僕は少しだけ期待した。これで、サッカー部なんて言われたら、男子として評価が高いということになるのではないか、なんて子供じみた期待。

「バレー部、とか?」

 うーん、と僕は頭を捻る。これはどういう評価か分かりかねるな。む? と答えない僕に彼女が不思議そうな顔をする。

「バスケ部だよー」

 慌てて答えた。

「はああ、確かに、言われると納得だね、背、高いし、なんか運動できそうに見える」

 心のなかで喝采があがるのを、変なことを口走りそうになるのを抑えて、話をすすめる。

「君は、何部だったの」

「私は……

 ここで、彼女は口ごもり、恥ずかしそうに、伏せがちの顔を赤らめた。それから、勇気を振り絞るといった様子で、き、帰宅部……と答えた。消え入りそうな、小鳥のさえずりのような声だった。

 そんな、彼女の一挙手一投足に僕は魅入っていた。溺れていたと言ってもいい。

 長い前髪から時たま覗く彼女の瞳に、吸い込まれそうになる。ここで、ようやく、冗談でもなく、僕は認識することになる。彼女は、クロとは違う。僕は、クロには求められなかったものを求めている、ということに。その日は、二人して、間に流れる空気に身を任せるようにして、特別なことの何もない話をしながら帰った。

 

 

 

 気づいてしまうと展開は早かった。影響も顕著だった。僕はすっかり変わってしまった。焦がされて、なお、こがれていた。灰になってなお、炎に近づいていこうとする。理性はどこへ言ったのか。僕は、彼女と話したくて仕方なかった。そして、彼女の話を聞くのが好きになった。

 だから、僕は聞き上手になることを決意した。失敗しないように、僕から彼女が、クロのごとく離れていかないように。もちろん、クロが語ることなんて聞いてわかるたぐいのものではなかっただろうけれど。

 ある日、彼女言った。たぶん、彼女と会ってから二週間後くらいのことだと思う。その日もみごとに夜をまとったような真っ黒な服装の彼女。

「学校でね、虐めにあったんだ……私」

 さらりと出てきた虐めという言葉の重みに僕は驚いた。

「え……? なんで?」

「なんでもなにも、虐めって理由なんかいらないんだよ。まあ、でも私のは理由があったみたい。聞いたら笑っちゃったよ。服が真っ黒だからだってさ」

 彼女が寂しそうに笑う。何かを諦めた、というより見限ったような、達観したような表情。それがいたく僕の心を傷つけた。いじめた奴らを特定して今すぐここに召喚して懲らしめてやりたい気分にもなった。単純なことに。でも、そんなことを彼女は望まないし、頼まない。僕なんかにきっと頼まない。じゃあ、彼女は何を望んでいる?

「確かに、服の色はいつも黒だけど、ちゃんと似合ってるじゃないか」

 素直な気持ちが口から飛び出す。僕は自分でびっくりして、あわてて口を閉ざすけれど、赤くなった顔はどうしようもなかった。

「ありがと。でも、違うの。別にみんなはなんだっていいんだよ。別に私の服が真っ赤でも真っ黄色でも関係ない。ただ、理由付けしたかっただけなんだよ」

「でも、そんなの……

 あんまりだ。

「うん。違う服きろって話だよね。それで収まるかはわからないけど、そうするのが得策だってわかってた。わかってたけど、それができなかったの」

「できなかった? どうして?」

 僕の頭はこんがらがった。女の子っていくらでも服を持っているイメージがあったのだ。女友達がいなかったゆえの勝手な妄想が。

「初めて会った時、私泣いてたでしょ? 今考えるとすっごく恥ずかしいんだけど」

「うん。僕はあめ玉渡したんだっけ……今考えるとなんでだよって話だけど」

 二人して顔が熱くなるのを感じた。

「で、でね。あの時……さ。お兄ちゃんが死んじゃって、そのお葬式の日だったんだ」

……

 彼女の口からまたもさらりと落ちた言の葉に閉口する。一気に干上がる汗と、すっかり冷める頬の熱。

 何も言えなかった。いや、何も言うべきではないと思った。

「で、あの時から、お兄ちゃんのこと忘れないようにしようと思ってね、ずっと黒い服着てたんだ。喪服みたいに真っ黒の。効果も意味もあるかわかんないけどね」

「そっか。あ、えと……

 僕は言葉を探す。でも、やっぱりいい言葉は、状況にそぐった言葉は見当たらなかった。だから、ありきたりなものを、くちにするしかなかった。

「話してくれてありがと」

「ううん、聞いてくれてありがとう」

 彼女が満足そうに笑った。そして、ゆっくりと歩き出す。僕と方向の被った帰り道へ。どうやら、お話の時間はここまでのようだった。僕もその背を追いかけるようにして歩き出す。

 みじかいおしゃべりだったけれど、嬉しかった。初めて彼女の角の部分に触れられた気がした。でも、その時僕が想像したのは、なぜか、何かの終焉だった。話し終えた彼女の笑顔が、明るすぎたからかもしれない、悪いつきものが落ちたと言わんばかりにすっきりしすぎていたからかもしれない。そして、僕の勘は思いの外鋭かった。

 

 

 

 ちょうど、お兄さんの話を聞いた、聞くことのできた、次の日だった。

 いつものように、彼女と深いところに踏み込まず、二人共決して傷つくことも、結びつくこともない会話が展開されていた。やけどしようのないぬるま湯。でも、その日僕は、熱くなくなっていた。前日のこともあって、彼女と近づけた気がしていて。そして、僕は、一歩間違えた。

「ねえ、ずっと聞いてなかったけど、君の名前は、なんていうの」

 僕は、熱に浮かされるままに、一線を超えた。ずいぶんあっさりと、禁忌をおかした。冷静な判断をするには暑すぎたのだ。今日も地球は暑すぎる。夏は、立ち去ることをやめてしまったようだ。湯だったように熱い頬を痛いくらいに引っ掻きたい気分だったが、汗をかきすぎた。今日は気づくことが多すぎる。僕は汗かきでもあったのか。

 僕のおそらくは懇願するように見える眼差しを受け、彼女は口を開いた。

……

 唐突なトラックのクラクションの音。それは、何かを終わらせる音だった。そんな気がした。いや、実際に終わらせたのだ。彼女の言葉は紡がれたものの、僕の耳に入ることなく終わり、彼女は言い終わると同時に立ち去った。また、僕は名前を知らない彼女と会う機会を、失った。彼女とのつながりは、それきり、終わってしまったのだ。そして、なにより、僕の心が、『おわってしまった』ようだった。

 

 

 

 十年後。

 ろくな恋愛もせず、ろくでもないサラリーマンになり、会社に使われるのが趣味としか言い様がない生活を送る毎日。それは嫌気が差すくらい平凡で、そこには救いがない。

 僕の中で、きっとあの日、何かが壊れてしまった。それからは、ただ、周りが焦るから、ただ、周りが急かすから、いつの間にか出来上がっていたレールに乗っかり、誰かに押された勢いで走っていた。楽しみもなく、特別な悲しみもなく。

 ある日。親の勧めで入った会社の帰り道。その同僚とのつまらない飲み会の帰り道。見つけたのは、というより、否応なく目についたのは、あの路地裏だった。高いビルとアパートとの狭い狭い隙間に出来上がる空間。路地裏は、僕にいろんなことを思い出させてくれる。本人の意志などお構いなしにだ。一匹の捨てられた黒猫と、真っ黒な服で兄を悼んでいた女の子。そのどちらを思い出すときも、僕は一抹の痛みと寂しさをともなう。きっと僕はもう、路地裏にはいかないだろう。そこで僕は、あまりに色んな物を得、また、失い過ぎた。だから、僕は近道をせずに表通りを通って帰る。そう、決めてかかっていたし、実際それが正しいと本気で信じていた。でも、今日は、その指針に従うにはいささか疲れすぎ、酔いすぎていた。酒臭い息をはあはあと吐き出しながら、おぼつかない足取りで、あの路地裏へと、吸い込まれるように入っていった。早く帰って、眠りたい一心だった……いや、本当のところはわからない。酒が入り、本当の欲求の赴くままに、体が動いているのかもしれなかった。

 うだるように、暑い夏の日なのに、入り込んだ路地裏はひんやりとしていた。ところどころに思い出の匂いが染み付いていて、鼻を甘酸っぱくくすぐった。僕は深い森の中で先駆者のつけた目印を見つけた旅人のように、思い出の中を、歩いて行った。

……やっと来てくれたね。遅いよ。私はずっと待ってたのに」

 前方に、女が見えた。クスクスと笑いながら立っていた。アルコールでぼやける視界の中で女の顔だけがくっきりとその輪郭を保っていた。思い出、なのか? 君の……

……君の、名前は?」

 僕は、ただ、熱に浮かされるように、無意識に、あの十年前と同じように、訊いた。訊いてしまった。ゆでダコのように、体も頭も、何より心まで、ゆだっていた。茹だっていた。すっかり大人になった彼女は答える。柔らかそうに整った唇が、禁忌の先を紡ぎ出そうとしていた。

……

 僕のぼやけた意識は、示し合わせたように途切れた。きっとまた、何かが『おわってしまった』のだ。そう、そんな確信だけがあった。なくなりかけた意識の中で。僕は……

 

 

 

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