その、いつも話に出てくるユーサちゃん、その人はどんな人なの。サトが穏やかな瞳をこちらへ向けた。私は髪をすかれながら、そっと瞼を閉じる。
 そうね、ユーサは私にとって大学生活を象徴する人物よ。
 思っていたよりもリラックスした声が出てきて、私は少し驚いた。そして安心する。ブルックナーがいつもよりも、スローに感じられた。
 もしかしたら愛していたのかもしれない。どうなのだろう、実際のところは。今でもはっきりとはわからない。はっきり考えたことすら、ないのだと思う。しかし少なくとも彼女には男がいたし、それはほとんど絶え間のないものだった。私もちらほらと恋愛をかじってみては、顔をしかめて吐き出していた。
 あの頃は、私は大学生だったのよ? 私が自嘲気味なポーズをとるとサトは「そうだろうねえ」と受け流した。
「彼女ね、とんでもないヘビースモーカーだったのよ」
 ユーサを私が知ったのも、喫煙所でだった。知ったとは言っても、一方的なものである。彼女が無表情で煙草をくわえている姿が思い出される。
「でも君、煙草は嫌いだろう? 喫煙所なんか行くのかい」
「そうよ――だから言ったじゃない、一方的にって。私は二階の教室から、彼女を見下ろしていただけよ。しばらくして私から声をかけてみたの。あの子、私の前では一度も煙草を吸わなかったわ」
 そう、彼女は私が近づくと必ず煙草を投げ捨てた。マナーの悪いことだとは知っていたけれど、私に気を使っているのだという喜びの方が大きく感じられたものだ。ぽんと地面に落とすだけなので、煙自体はゆらゆらと立ち上ったままだった。
 どんな容姿なの、と彼は尋ねる。「あれ、知らないの?」と私が顔を向けると「写真でも見せてよ」と微笑まれる。言われてみると、彼女にレンズを向けた記憶もない。撮らなかった、という記憶もないのだけれど。
「そうねえ」
 私はまた彼に背を預け直して、ゆったりと息を吸った。
 そうね、彼女は何の前触れもなくとんでもない大きさの眼鏡をかけてきたことがあった。それまでは裸眼だと思っていたから私は驚いたし、周囲も好奇の目を向けていた。それほどに、大きかった。私の こぶしが丸々入ってしまいそうな、真ん丸めがね。私もユーサも特別に目立つようなタイプではなかったし、彼女の普段の突飛な行動を知らない人たちにはさぞかし面白く映ったことだろう。
 トイレに入って私が尋ねる前に、ユーサはいたずらっぽく「イイでしょ、これ」と笑った。「レンズ無しだよォ」と指を三本、瞼にあてる。
「みんな、すごい顔してた」
 私が不満そうに言うと「知るかよォ。まっ、勝手に見せときゃいいさ」とケラケラ笑い声をあげた。私が「どうしてまた」とわざわざ口にすると「ン、そりゃあ男の気を引くためだよォ」と真面目風に頷く。そんなもので気が引けてしまうものなのか、と思うのだが、きっと彼女が言うからにはとも思う。
 チャイムが鳴って走るなか、私は 「ああこれが大学生活だ」なんて、しみじみ感じていた。
 焦げ茶色に輝く光が差し込んで。
 トイレのタイルには数滴の水が煌めいて。
 廊下の天井は剥き出しの蛍光灯。ドアにはいつ貼られたのかわからないようなポスター。始業のベルに焦る様子のない学生グループ。うまいかどうか判断のつかないギターの音と、教室から漏れる遠慮のない雑談。
 そしてリズムの狂った、ユーサの走る音。
 ああこれが大学生活だ、それは就職した今でも変わらない記憶だ。彼女のハスキーな声とともに、甦る。
 ユーサの話は、サトとの間でも何度出たことかわからない。どんな子なの、と聞かれてもエピソードを並び立てるしかない。
 それでも、顔は? と重ねるサトには「そうだな、むかーしの アメリカにいるちっちゃい女の子って感じかな。ソバカスとかあって、ソフトクリームとか持ってるような」と答える。「それってベイブルース前後くらいかな?」とサト。「ベイブルース?」。「うん?ベイブルース」。
「……あ、野球の人ね。うーんと昔の。有名だと思うけどなあ、ライト兄弟くらい」
「何それ、意味わからない」
 と答えつつ、それもなかなか、と思う。野球帽にキャンディーと、もっさり大きなハウンド犬を抱えた男の子が横にいる想像は、悪くない。
 クラス男子たちは「猫背」「小さい鼻」「ばさばさのおかっぱ」という風貌に魅力を感じていないようで、当時の私は彼らをガキっぽく感じたものだ。今では、あの頃の自分がいかに子供だったかがわかるくらいには成長した 。色々なことを考えて馬鹿にし合ったけれども、みんながみんな大学生だった。
 同級生が彼女を評価しないのと同じかそれ以上に、彼女は彼らを気にも留めなかった。そして当然のように彼女は学校の外側に男を作るのだ。ほとんどの男は私たちよりもかなり年上で、今考えるとその要素すらも私の胸を打ったのかもしれない。そうだとしたらウブ過ぎる。女子高生でもあるまいし。しかし私には、彼女の恋愛は良かった。彼女には悪いけれど、彼女が捨てられた側に立った時の方がより、私は盛り上がった。滅多にそちらサイドに立たされることがないためか、いざ陥ると、彼女は荒れた。酒は飲むし、吐くし、バーで知らない男とトイレになだれ込んだり。その世話をする自分に酔わないよう、細心の注意を 払いながら、私は「大学生」を続けた。私と彼女がちぐはぐであることを理解しながら。しかし今思うと、なかなかのお似合いだったのだと感じさせられる。
 そうだ、ユーサの男たちの何割と、私は面識があるのだろう。
 サトはそこまで話が進むと、すっと立ち上がった。冷蔵庫の前に行き「ビールでいい?」と言う。「ありがと」と私は手を延ばして発泡酒を受け取る。サトはレモン味の酎ハイばかり飲む。だからなのか、彼は発泡酒をビールと呼ぶ。
 口に苦みを感じながら、もう一度考える――ユーサの男についてどれだけ把握しているのか。どうだろう、半分はいってるものなのか。知っているだけで十二人か、そのくらいだと思う。
 劇団員、大手家電メーカー社員、コンビニ店員。カメラ マンもいた。どこで知り合うのだろうと気になることもあったけれど、その疑問を口にしたことはなかった。彼らに共通点は少な過ぎて、私はその中から何かを見出だそうとするのをすぐにやめた。
 一番私を盛り上げたのは「茶色のスーツの彼」だ。何よりもまず、彼はハンサムだった。イケメンとか整っているとかではなく、ハンサムだ。白髪混じりの髪をしっかりと固めて、背筋よく椅子に座る。目の下には僅かばかりの疲れが纏わり付き、長い手足はそれを優雅に隠した。話せば知的、動物好き、車はアルファロメオとジャガーを交互に。ユーサに私の好きな飴を聞いてからは、会う度に必ず一粒くれた。一時期は「あのコの口からオメーの匂いがするんだよォ、てめーら浮気してんなあ?」という冗談が 、彼女の中で流行った。
 あの当時、私の恋人は部活の先輩で、今だに高校時代の部活ジャージを家着にしているような奴だった。どうしてこうも差があるの、とため息を何度もついたものだ。いや、先輩はきっと善戦していた。そのあとに私が付き合った映画オタクの同級生よりは遥かにセンスを感じるデートプランだった。そしてそのデートの帰り道に偶然「茶色のスーツの彼」とユーサが会ってるところを目撃したのである。
 あの日は土砂降りだった。彼が選んだ店は、今となっては場所も店名も思い出せないが、確か悪くなかった。無駄に濃厚なカルボナーラを食べた気がする。違う日かもしれない。大切なのは、なかなかの店でそこそこの料理を食べたこと。その帰り道に、当然車も無い私たちは 傘をさしながら雨宿り出来る場所を探していた。「ウチに来いよ」などと言われても困るので適当なカフェで、と半ば投げやりにドトールに入ろうとしたところ、彼女達はいた。
 サトが「え、君ってドトール嫌いじゃない」と笑う。私は「そうねえ、どこでも良かったのよ」と笑う。気持ちが穏やかだった。適当に決めて買ったカーテンのクリーム色さえも、とても優しく目に映った。
 ドトールで、ユーサは大きく笑いながら煙草を吸い、彼はその向かいで楽しそうに話に聞き入っていた。前屈みに座る長身の彼と、背もたれに反り返る小柄なユーサのコントラストに、目を奪われた。
「あれ? あそこにいるのお前の友達じゃね?」
 後ろにいた恋人の存在をすっかり忘れていた私は、飛び上がって しまった。そして早口で「邪魔しちゃ悪いから帰ろ」と、店の外に逃げ出した。流れている音楽が違った。私と彼女では。
 あれは映画のワンシーンだったのよね、とほろ酔いになった私はしみじみと呟いた。脳内で美化しただけかも、とサトは言う。だって君だって素敵だもの、と。真面目に私を褒めるのが、微かにユーサと重なった。
 ある夜、私の鞄を引っ掴んで「シャレてんなァ」と繰り返したことがある。よく通っていたバーでのことだ。私は真に受けるのもお世辞と流すのも、どちらも照れ臭く感じてしまって、結局グラスに手をやるばかりだった。
 そうだ、あの日は恋人と些細な喧嘩をしている時期だったのだ。理由は思い出せないし、誰とだったかも定かではない。半地下の店内にも関わ らず電波が届き、何度も着信があったのを覚えている。本当に、ロクな恋ではなかった。
 溜め息まじりに語る私の肩をマッサージしながら「君も途切れてなかったみたいだね」とサトは苦笑した。「でも濃度が違うのよ」と答えると「あ、認めたね」などと妬いたふりをする。
 褒められた鞄は、何故か捨てられなくなるだろうという予感に襲われて、捨ててしまった。まだ使えたと、今になって口惜しくなる。誰からプレゼントされたでもなく、自分で気に入って買ったものだったのに。
 ドトールで一方的にユーサと出くわした日から三日のあいだで、色々な事があった。ドトールから飛び出て駅まで滑り込んだ私の腕を掴み、恋人は「俺ん家で髪乾かして行けよ」とめらめら静かに揺れる眼差しを向 けた。彼なりにも思う部分はあったのかもしれないが、さすがに相手が悪かった。「茶色のスーツの彼」を見た直後なのだ。丁重にお断りした私はついでとばかりにお付き合いもやめさせて頂くことにした。彼は数時間粘ったが、最終的には怒りを隠さず帰路についた。ユーサと「彼」は私たちに気がついていたはずもなく、翌日私から告げた。ユーサは「声かけろよォ、ヨシイくんの若さをさ、奴に分けてあげりゃーよかったのに!」とふざけていて、その七時間後に「茶色のスーツの彼」の死体が発見された。連絡が来たのは電話で、私と彼女がファミレスでレポートを書いている時だった。私は「ああ、へえ……そう」とかいうなんでもないようなやり取りを気にも留めていなかったが、通話終了後に少し間を おいて「奴、死んだってさ」という台詞で一気に地獄に落とされた。
「え?」
「まあ、そういう職業だからねえ」
 ユーサはさらりとした表情で、煙草に火を点けた。
「覚悟はしてたし、それも込みの付き合いだったんだ」
 静かにそう呟くと「さ! 資料貸してよォ!」と私の本を取り上げたのだった。私は展開の早さについていけず、実際にニュースにもならず、実感は沸かなかった。葬式も呼ばれる事なく、死体の写真などもない。血まみれだったらしい、としかユーサは言わない。あまりにも平然としている彼女を見ていると、私自身も何となく普段通りに生活できた。みぞおちの辺りは軽く震えたし、指先は冷たかったけれど、どこか「私も覚悟していたのだ」という錯覚に陥ることが出来 ていた。
 そして三日目、私の元恋人がクラスの仲間に「あいつヤクザと付き合ってるんだぞ」とふれ回っていた事もお構いなく、ユーサは新しい男を作った。小肥りの妻帯者だった。
 私はその男の写真を見せられて、初めて激昂した。血の気がひいて、立ち上がり、一睨みして、彼女を置いて立ち去った。新しい男を見て彼の死を実感するなんて、私もかなり間の抜けた人間だ。
 彼女が落ち込む様子を見せなかったことが、妙に私を傷つけた。今まで散々荒れてきたくせに、と。翌週の授業で、彼女はとても立派な発表をしたし、男の趣味に合わせて髪を染め直していた。
「あの頃から、少しずつ疎遠になったのよ」と私はため息をつく。「就職活動が始まったのもあるけれど、それ以上に彼女に怒 りを感じていたのよ」
 だからもう、就職と同時に上京してからは、稀にメールのやり取りをするくらいの仲になってしまった。
「理解を越えているような彼女が好きになったくせに、どうしてだか一番理解の出来ないポイントで冷めてしまったの。本当に、どうしてかしらね」
 私が少し切なくなっていると、サトは優しく私の頭を撫でた。
「それはね、きっと君が理解する努力を諦めたんじゃないかと思うよ」
「そんな言い方はひどいんじゃない? 私に、あの淡泊さを受け入れるのは無理だったのよ」
――淡泊じゃないさ、とサトはそっと呟く。口からは、レモンの香りが仄かに漂ってきた。
「だってほら、彼女、知らせを受けて煙草を吸ったんだろう?」
 酔った私の頭のなかで、か ちゃかちゃと、ピースが組み上がりゆく。空いた缶を床に置いて、サトは私を抱き寄せる。
 
<了>