僕は死んだ。

 何故そう思ったかといえば理由は簡潔で、まず僕には身体がない。幽霊みたいなのだ。僕らしいものがふわふわと、明瞭な境界線もなく、そこに存在している、そんな感じだ。目も耳もないのだから当然だが、見ることも聞くことも出来ない。なのに、なんとなくもやもやと、あたりの状況が分かるのである。五感あるいは第六感まで含めたありとあらゆる感覚が、ミキサーに詰め込まれて混ぜ合わされた後に、それを水で薄められて、さらには火に掛けられて全部蒸発して、それが延々と空気中に広がり続けているような―― 。駄目だ、上手い言葉が出てこない。実際にこうならねば、分からないだろう。生きている人間に、想像できるものとは思えない。
 どうやらここは住宅街のようで、さっきからずっと雨が降っているようで、今、傘を差した人が通りがかったようである。そんな気がするのだが、いまいち確証が持てない。幽霊というのは、みなこんな風に感じているのだろうか?
 はてさて。僕は腕組みするような気持ちになって考える。
 僕は幽霊のようだから、たぶん死んでしまったんだろうが……悲しくはない。この現状に関しては、割とすんなりと受け入れている。何しろ、僕は――仮に「生前」としておくが――生前のことを全く覚えていないからだ。生きていたんだろうな、という感覚が残っているだけであ る。その感覚もだんだんと、曖昧になっていくが。
 僕の声は誰にも届かない。触れることも出来ないし、周りで何が起こっていても、大した感慨が湧かない。ずっと夢を見ているような感じだ。
 そうして数十分か、数時間か、数日が過ぎた頃。
「やあ」
 不意に、声を掛けられた。
 慌てて、そちらに意識を向ける。
「……珍しい。もともとの肉体の感覚や思考を覚えているのか。まあ、次第に薄れていくだろうから、問題は無いけれど」
 痩躯の男……だと思う。
「えっと……あなたは?」と僕は言ったつもりになる。
 ちゃんと伝わったらしく、彼はこう返答した。
「私かい? 私はね――死神、が近いのかな」
「し、死神……?」
 そういえば、彼の話す言葉はしっかり 聞こえる。意識に直接語りかける、ってこんな感じだろうか。気持ち悪い。僕が考えているのか、こいつが喋っているのか、分からなくなりそうだ。
「あ、君のその状態と関係はしてないから、怖がらなくていい」
「……教えて下さい。じゃあ僕は、死んだんですか?」
「死んだとも言えるし、そうじゃないとも言える、かな」
「どういうことですか」回りくどい。もう少し分かりやすく言えないのだろうか。
「ええとね。君は、魂とか心とかいった状態になってる。だけど、君だった人間は、今も普通に生活してる」
「えっ……」僕だった、人間?「魂が、心がないのに、普通に生活してるんですか?」
「生き物全てに心があるって、誰が知ってるって言うんだい。そんなものなくても、人間と いうシステムは、正常に動作するんだ」淡々と告げる死神。
「冥土の土産じゃないけれど、聞かせてあげるよ。……増え続ける人口に対して、魂の数が全然足りていないんだ。だから、足りない分は〈ダミー〉になるしかない。心があるように思えても、そうじゃないんだ。プログラムされたままに動く、自我のない生き物」
「それって……まさか」僕に身体があったら、唾を飲み込んでいたことだろう。
「そうだよ。君には……君だった人間には、〈ダミー〉になって貰ったんだ」
「どうして」
「大した成果も上げられそうになかったからね。魂ってものの正体は私も良く知らない。上の命令に従うだけさ。けれどどうやら、一定の成功を収めている人間の中に、〈ダミー〉はいないみたいでね。本 物には適わない、ってことなのかな」そこで一呼吸置いて、続ける。「だから……成功が見込めないようなら、次の肉体へ移ってもらうのが効率的ってこと」

「私は、こんなふうに零れた魂を、連れて帰る係なんだ。さあ、おいで」

 魂の重さは21グラムだという、有名なオカルト話がある。ならば僕の21グラムの価値は? 「僕」不在の肉体は、そんなことはお構いなしに、今までと変わりなく生き続けるのだ。

 僕は、次の身体ではもうちょっと頑張らないとなあ、と漠然と考えながら、少しずつ薄れていく意識を、どこか遠くから見ていた。