これは夢だと思った。

 まず最初に僕がそう思い至ったことは、幸福なことだろう。ゴッホの夜空が広がっている。どこかの駅前の、タクシー乗り場。人はいないわけじゃない。遠くで影のような人がもぞもぞと動く。 これは幸福なんだ。ラッキーだ。僕は思う。

「星降る夜、アルル」

 僕の横にいた梶原が、そう呟いた。アルル。それは僕の名前じゃない。じゃあ何? 作品名だ。「星降る夜、アルル」で一つの名前。そう、僕はそれを知っている。

 藍色が混ざりゆくさまを、僕らは見上げていた。本当にそこだけが絵で。しかしこの世界で見覚えがあるのもそこだけだった。

「いい眺めだ」梶原が静かに言った。すっかりと目を奪われて、熱心に一筆ひとふでを堪能している。僕は口をつぐんだまま、梶原の横顔から夜空を眺めた。

 街は静寂、ではなかった。

 風の通り抜ける音だけがする。まるで大きな洞窟の中にいるみたいだ。包まれているんだ。入り口へと向かって緩やかに流れ出ていく風の音を、僕は感じの良いものだと思った。洞窟の中に、夜空とタクシー乗り場。いいじゃないか。ああ、なかなかに良い。

 だってこれは夢なんだ。

 もともと僕は、プレートの表面にしがみついている生活が不安定で仕方が無かった。

「印象派の時代は、日光が全てだった。太陽光をどう表現するかが彼らの興味のあるところだった」

 それも僕は知っている。次の台詞も。言ってしまおうかとも思ったけれど、梶原の声を聞きたかった。風が、ごうと吹き抜ける。温かい風だった。コートを着ている僕たちが、汗をかかない程度に温もらせる。

「だから、この絵は珍しい。夜空なんてね、描くものじゃなかったんだ。いやもちろん、僕が全てを知っているわけでもないのだけれどね」

 梶原はそう言い切ると、ようやく僕を振り向いた。

「久しぶり、向井」

 笑顔――そう笑顔で。僕はそれだけで、目頭が熱くなるのを感じた。

「梶原」

「なあに、向井」

「……いや、何でもない」

「どうしたんだい、おかしな子だねえ」

 そう言って僕の頭を撫でた梶原の手は、大きくてごつごつとしていた。どうしてごつごつしているか、それは中学時代にバスケ部だったからだ。この夢はすごいな。全部表現されている――僕の記憶通りに。僕より十センチも高い身長も、微かにウェーブした前髪も、瞼のよこにあるほくろ。そして、気取っているくせに、少し舌足らずな口調まで。

 全部。

 全部が全部なんだ。

 最後が近い頃の梶原の、そのままの姿だった。

 違うのは、怪我をしていないことだけだ。よくぞ完璧な姿のままで、君は僕に、会いに来てくれた。だって、僕が目にした最後の梶原は。――なんと夢の美しいことだろうか。

「いつまでも突っ立っていないで、どうだい、ちょっと歩かないかい」

 梶原は僕の背中をそっと押した。

「梶原――梶原は、元気だったか?」

 歩き始めてから少しして、僕は沈黙を破った。梶原は長い人差し指を唇に当てて考え込んでから、ふと微笑んだ。

「なあ向井、そういう話は今度にしよう」

「なんで――」いや、そうだよな。そうなんだ。夢でまで、僕は梶原にたしなめられる。

 夜空に見下ろされながら、僕たちはゆっくりと歩く。

 どこにでもありそうなエスカレーターが、歩道の真ん中にそびえていた。二階なんてないのに。どこにもたどり着かないエスカレーターに乗る人はいなく、それでも、それは流れつづけた。空気を昇らせ続けた。

 空の自販機が、光って叫んでいる。

 コンビニエンスストアの看板が、音をたてて点滅する。

 僕たちが立っていたタクシー乗り場を振り返ってみると、そこには車がいなかった。

 僕の夢に、干渉してくるような物はなかった。ただ、静かな賑わいを、道端に。そうだ。ここは寂れたゲームセンターのようだ。広い洞窟に入れられた遊び場だ。

 梶原が八百屋の林檎をくすねた。ぽおん、と宙に投げてはまたキャッチすることを繰り返す。僕も何か、と八百屋を見てみたが、林檎と影しか並べられていなかった。

 ゴッホの星空の筆の流れが、ぐにょぐにょと動く。まるで紫の芋虫だ――。

 駅前を離れて僕たちは、小綺麗な商店街に入り込んでいた。どうしてだかこの道がずっと続く気がする。決して立派だというわけでもないのに。

 布屋の前でマネキンがミシンを動かし続けている。表情はもちろん動かない。

 商店街の街灯に照らされるのは、小学生の折った千羽鶴。

 古そうな本屋の店頭に並ぶのは、とても古そうな辞典ばかりだった。

 影たちは、僕らには目もくれずぬらぬらと動めいて。

 どこかから音楽も、流れてきた。古いサーカスのような音――アコーディオン。

「探そうか」と提案したのは梶原だった。

 僕も黙って頷いた。梶原は、よく似合う灰色のコートをはためかせて左右を確認する。そして「多分右側、だよね」とわくわくした顔を向けた。

 僕が梶原の背中を追ううちに、アコーディオンの音は確かに大きくなってきた。それはドビュッシーの調べであり、ベートーベンのピアノソナタでもあった。そしてそれはジャズで。ポップな。クラシック。

 三つ目の角を曲がると、音よりも先に光が目に入った。

 幼い子供くらいはある大きな電球が、一つ、地面から生えていた。その黄色い光の奥でアコーディオンを演奏しているのは、ピエロだった。ピエロが、楽しそうでも苦しそうでもなく、淡々と音楽を奏でている。練習? いや違う。無関心なだけだ。

「僕は音楽に詳しくないのだけれど」と梶原が僕に耳打ちをしてきた――「随分と事もなげに弾くものだね」と。

「聴いている分には楽しいけど」

「けど、何だい?」

「つまらないな」

「音楽は楽しいだろう? 彼がピエロの格好をしているからといって、全てを要求してはあんまりさ」

 メロディは、確かに美しい。美しかったけれど、僕はピエロを直視出来そうになかった。

「寒いしさ、そろそろ店のなかに入らない?」

 僕の逃げの口実に、梶原は素直に頷いた。彼らしくもない、随分簡単な――いいや、違う。そうか、これは僕の夢なんだ。

 夢なんだ。

 ふと、悲しい気持ちが過ぎった。

 幸運なのに? そうさ、ラッキーのなかにもあるんだ、こんな気持ちは。

 手近にあったドアを押して屋内に入ってしまえば、音楽はまた素晴らしいものかのように響いていた。僕はふいに口惜しいような気になったが、そのまま暗い部屋の照明をつけた。

 部屋にあるのは、数え切れないほどの車椅子だった。赤黒黄色。

 さあ、ここで一旦、僕は目を覚ました。



 自分が目覚めた瞬間、まず最初に何を見たか覚えている人はどれほどいるだろうか。僕は普段そんなことは意識しない。ただ何となく目覚めて、重い身体をなだめすかし――今の時期ならば温かい布団を無理矢理ひっぺがしたりもする――ようやく目を開くかどうか、だ。

 でも違った。

 何事にも例外はある、僕は汗をかいた右手を眺めながら、そう思った。

 時計を見れば、まだ起きるような時間じゃない。

「なんだよ」

 天井に呟いた。

 ――向き合えるか?

 答えも出ないまま、僕は再び目を閉じた。


 意図的に見る夢なんて、たかが知れているさ。だって、そうだろう? こんなの妄想の延長上さ。僕は自嘲気味に笑った。

 僕の目の前に立つ朧げなる梶原は、頭からの出血を気にも留めず夜空を観ていた。

 悪くない。大体はこんな感じだ。

「僕は元気さ」

 血だらけの彼は天から目を離さずそう言った。

「僕は向井を恨んじゃいない」

 都合の良い台詞を吐いて、梶原は林檎を弄びはじめる。思い切りよく地面に叩き付けられた林檎は、スーパーボールのように跳ね上がり、実はそれはバスケットボールだった。手の平サイズの、林檎の味をした、バスケットボール。それを何度かバウンドさせたあと、梶原はビルの壁からはえているゴールリングに向かってシュートした。何とも美しいフォームで、僕はそれに見とれる。

「やあ、君。戻ってきたねえ」

 タオルで顔を拭きながら、梶原は顔を綻ばせた。

 空をみると、ぐらぐらと揺れるようにして星空が漂っていた。星降る夜、アルル。

「しかしね、せっかくだけどここは夢の中なんだ」

 そう。僕は夢の中でも梶原に諭される。

 サイレンが、梶原の住む街に鳴り響く。

 僕と梶原は、親友だった。

 ハンドルを切り間違えたのは、信号無視をした小学生のせいで。追突されたのは後続の車が車間距離を誤っていたせいで。

 しかし怪我をしたのは、ドライブに誘った僕ではなく、助手席で寝ていた梶原だった。

「別に死んだわけじゃない」

 僕か梶原か、どちらが言ったかはわからない。

「それに傷も残らない」

 血まみれのまま、梶原が笑った。

 あの事故以来、三年近く僕は彼に連絡をとっていない。

 一匹の野良猫が、梶原の持つボールを物欲しそうに眺めていた。ビルの上に掲げられた煙草の看板を照らす、一つの電球が、ぱりんと音を立てて割れた。

 僕は立ち尽くして、梶原の額から血が吹出し続けるのを眺めていた。

 ねえ、僕は何も出来ない。

 ビルの三階に明かりが燈っていて、そこにいる影がこちらを見下ろしていた。梶原が流血を止めようとしないので、コートがいつしか真っ赤に染まっていた。真っ赤なコートを着て、梶原は一人、夜空を眺めた。

 僕はそれを、眺めて。



 時計を見ると、二度寝したとは思えないほど早い時間だった。夢の中の梶原は、三年間も血を流し続けていたのかもしれない。寝ぼけた頭で、僕は色々考える。

 本当の梶原は、今、どこで何を? 僕は勉強机に手を伸ばし、携帯電話をにぎりしめた。

 そして僕は。

 

 

<了>

 

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