懐から煙草を取り出し、口に咥えて、火を点ける。駅前にたどり着いた時はまだ封を開けてもいなかったことを覚えていたが、既に箱の中からは半分近い数が失われていた。残りを全て数えてみると十三本であるから、これが七本目と言うことになる。この事実に気付いて、私は初めて自分がまるきりクラゲのようなものであることを自覚させられた。水面の揺れに全てを委ねて漂うかのように、私という存在は全く漠然としてしまっている。為すこともないままにしばらく宙をさまよう煙の動きを眺める間に、私はそこに自己憐憫に近い感情を見出して、ひどく空虚な気持ちに浸らされた。 私はある男を待っていた。それは私にとっては何を差し置いても必要のあることで、たとえ途方も無い時間を無為に費やすことになったとしても、彼を待たねばならぬと言う必然を私は負っていた。 男を待つために駅前に置かれた灰皿の傍らに立ち始めてから、既に一時間を大きく超える時間が過ぎている。冬というにはまだ早いのかもしれないが、秋と言うにはもう遅い。屋根も壁もない吹きっ晒しの喫煙所が私に与えられた空間であって、そこは時折強く吹く風がひどく身に堪える場所であった。とは言え、他の場所を選んだとしてもそれは同様のことで、つまり煙草を吸っても何も言われないというだけいくらかマシという訳であったが、それでもこの寒さには往生する他ない。そしてこの寒さというものが私の置かれた立場の惨めさをより際立った形にして現前させてもいた。 七本目の煙草を灰皿に放り込むと、私はすぐさま八本目を口に咥えた。チェーンスモーカーというものの習い性である。 煙草に火を点けてから、私は自分を待たせる男のことを思った。今頃彼は私の許へ向かっているところだろうか。あるいは途中で何かしらの事件にでも巻き込まれたせいで遅れているのかもしれない。思考が次第に暗澹とした方向へと落ち込んでいくのを感じて、私は考えることを止めようとしたが、そこでふと妙な事実に思い当たる。なんとなれば、私は男の顔の輪郭を明瞭に記憶していなかった。これは甚だ奇妙な、そして大変不埒な話である。なにしろその男は私というものの運命を左右しかねない存在であった。だというのに、その顔さえまるで思い出すことが出来ない。これは余りにも愚かしい事実ではないか。 しかし、考えてみれば、私の彼との関わりと言うのは大概この通りであったようにも思えてくる。なんとなれば、顔と言う身体の一部に限らず、彼に関わるあらゆる事柄が私の印象の内に残っていない。これは驚嘆を通り越して、何かうすら寒いものさえ感じさせる事実である。 ただ、何を犠牲にしてでも待たねばならぬと言う義務を私が負わされていることだけが、彼について明らかに言えることの唯一であった。 一本二本と消費されていく煙草の数と歩調を合わせるように刻一刻と時間は過ぎていく。それは全く無情な、容赦のないほどに無為な時間であった。ただ呆然と立ち尽くす私の前を滔々と流れる大河のような人の往来が通りすがっていく。それを見送る私に許されるのはただ煙草を吸うことによって停滞した時間をどうにか紛らわすことばかりで、これでは全く阿呆そのものである。  私の目の前を流れ行く人々はみな疑いようもなく自明な目的へ向かって移動しているのだろう。これは全く当然なことであって、このさして広くもない駅前の空間の中で私ばかりがぽっかりと空けられた空虚な点として、あるべき場所も向かうべき目的さえも見失っている。いつ来るとも知れぬ相手をただひたすらに待ち続けることが私に残された唯一の救いであるかのような感覚がいつしか私の思考を支配するようになっていた。しかし、それは全く絶望的な救いであるという疑懼さえも同様に去来する。死刑執行の時を待つ囚人の心境というのは、あるいはこのようなものであるのかもしれない。 広い大海の中を、自らの意志力の及ばぬ水流に一切を委ね、流れのままに浮遊し回遊するクラゲ。それが私であった。私に、私の運命を、私の存在を決定づけるものは何一つ与えられない。静止した時空間の中を乱暴な海流の赴くままに流されるだけだ。 自分がこの世界の一切から見放された存在であるという自覚が既に私の中に出来上がっていた。十本目の煙草の煙を肺に吸い込みながら、再び流れ行く人々のほうへ眼を向ける。その顔は不思議なほどにどれも冷たく無機質で没個性な感じがした。無関係な他人であることをことさら必要以上に強調するような顔である。私はそこに絶対的な他者の姿を見出し、彼我の間に荒涼とした懸隔が横たわっていることを、自分が全く阻害された、孤立した存在であることを認めるに至った。 十本目の煙草を灰皿の中に投じる。中に張られた水に火種が触れ、かすかな音が聞こえるのを確認してから、私は十一本目の煙草を口に咥え、火を点けた。 男は、まだやって来ない。

 

 

<了>

 

-読了後の感想をお伝え下さい-