三国志の時代が終わろうとしている、その前夜の永安三年(260年)のことである。
彼は何処からともなく現れ、私達、建業の都に住む子供達の輪の中に入ってきた。
「自分は螢惑(火星)から来たんだ」
遠巻きから、遊んでいる私達を眺めていた彼は、突如としてそんな事を嘯いた。
私を始め、周囲の子供達は彼が嘘を吐いているのを承知でその愉快そうな内容をからかいながら、共に遊ぶようになっていった。
「お前は何処の子だよ、本当の事を言えよ」
最初は嘘を楽しんでいても、やはり彼の正体が気になるのか何人かはこういった事を、彼に対して質問していた。それでも彼は構わず、決まって「螢惑から来たんだ」とだけ返した。嘘を突き通す彼に、私達は辟易しながらも、逆にその正体を確かめてやろう嘘のボロを見つけ出してやろうと躍起になっていた。
「螢惑は戦争を司るんだろ、じゃあこの国に戦争がいつ起きるか解るのか」
誰とも無く、いつも彼の嘘を楽しむ為にこうしたからかい文句を言う。
「起きるよ、近いうちに必ず起きる」
すると彼は必ずこう言う。
しかし結局、その近いうちが、数ヶ月経っても来ないので私の周りの少年達は、彼の嘘をからかうのも飽きてしまっていた。それでも何処の誰とも解らない、螢惑から来たという少年はいつしか私達と普通に遊ぶ間柄になっていた。
「なぁ、君らの中で裏路地の“酒家”に行った奴っているか?」
私達少年の間で頭領格の大柄な少年が、何かの機会にそう言ったのを覚えている。
その時の私は、その酒家の意味を知らなかったが何人かの少年はそれがいかがわしい性に関する物だと知っており、やや興奮した様子を見せた。
大人だけに許されたそれは、子供心に魅力的で螢惑から来た少年の事など忘れ、私達の興味は未知なる酒家に注がれていた。誰それが裏路地に入っただの、数人で向かいすぐさま逃げ帰って来たなど他愛ない遊びの一つとして、酒家の存在を楽しんでいた。
ただ一人、螢惑から来た彼だけが、いつも憮然とした表情で「酒家には行かないで、行かない方が良いよ、酷い事になるよ。戦争が起きるよ」と繰り返していた。
私はそれが、自分を構って貰えなくなった彼が、苦し紛れに言い出した嘘だと思った。
自分達の新しい楽しみを無下にした彼の言葉に、私達は彼を無視するという形で報復した。
「明日だ、明日は絶対に酒家に行ってやるよ」
息巻く頭領格の少年や、それに続こうとする普段は気弱な者達が居る。その輪の中に、螢惑から来た彼は居ない。
「起きるよ! 戦争が起きるよ! この国に戦争が起きるよ!」
私達の中で、もう彼の嘘を聞く者は居なくなっていた。しかし彼はなんとか私達を振り向かせようと、声高に戦争が来る事を叫び続けていた。
その次の日であった。螢惑の少年は、左右に両親らしき大人を伴い、私達の前に現れた。
誰かが大人に彼の嘘を言ったのだろう、戦争という好ましくない出来事を例え嘘でも叫んだ彼は、家族ぐるみでこの建業から追い出されるという悲しい結果を生んでしまった。
「ごめんなさい、もうここには居られない」
それだけ言って、彼と彼の両親は立ち去っていった。
螢惑から来たと嘯いた彼は、ここを去って螢惑に帰るのだろうか。その時の私は、そんな事を思っていたと思う。
「なぁ、裏路地の酒家、これから行ってみよう」
結局、私や皆にとって螢惑の彼との別れは心に留まらずその心は、熱を持った興味の方へと、簡単に流れて行った。怪しげな大人達に見られながら、数人の少年達が裏路地へと入っていく。そして着いた先には、何か乱雑な臭いを感じさせる例の酒家が建っていた。
だが私は、その酒家に掲げられた小汚い朱色の看板を見て、胸に釘を打ち付けられた気分になった。“螢惑酒家”ただそれだけの看板であったが、その先の事実は、私の胸に差し込んだ不安と後悔と寸分と違わなかった。
「そこはもうやってねぇよ」
近くに座り込む老人が、吐き捨てるように私達に言い放った。
「今朝方になぁ、役人が来てその家の家族を追い払っちまったんだよ」
老人の言葉は、少年達が持っていた興味を一瞬で打ち払い、あれほど昂揚していた気分も萎えたまま、一同は裏路地を去っていった。
しかし私は一人そこに残り、螢惑から来たと言っていた彼の心境を思いあぐねていた。
彼が何故、自分の素性を多く語らなかったのか、何故、酒家に行く事をあんなにも拒んだのかまた彼がある意味で、嘘を吐いていなかったという事に、私は気付いてしまった。
酷い事をしてしまったと、その後悔はいつになっても収まらないでいる。
少年が去ってから数年の後である。
あの時遊んでいた少年達と、もう遊ぶ事も無くなった私はこの国が、近く戦争を行うという知らせを聞いて、彼の事を思い出していた。
<了>