爪が、伸びてきた。
「そろそろ切ったら? あんまり長いと危ないよ」隣にいる彼が声を掛けてきた。
 ここは、静かな部屋の中。カーテンは閉め切られていて、昼間だというのに、いやに薄暗い。まわりからは、切り離された空間だ。
「うん。そのつもり」答えながら、自分の爪を眺める。
 成程。結構な長さになっている。私はそれほど飾り気のあるほうではないし、伸ばしているつもりもなかったが。確かにこれだけ伸びていれば、誤って他人を傷つけてしまうかもしれない。他人? おかしな話だ。私以外の人間など、ここには彼しかいないというのに。
「ねえ」ふと、彼に呼び掛ける。「爪ってさ、伸びると、邪魔だからって切られてし まうじゃない」私は、何を言っているんだろう。「切る前は、確かに生きてるのに。なんか、寂しいよね」
 爪がそんなことを思うはずがない。頭では分かっているのだが……。どうして、こんなことを?
「寂しい、か」彼はそんな私の戯言をちゃんと聞いていてくれたようだ。しかし。「そんなこと、ないんじゃないかな」彼の口から飛び出したのは、否定の言葉だった。
「まあ、そうだよね。思いつきで、なんとなく言っただけのことだし――」
「そういうことじゃなくて、さ」捲し立てる私の言葉を遮り、彼はこう言った。「それって、僕らのことじゃないか」
 ……ああ。
「君は、寂しいと感じているのかい」
 ああ、そうだった。私たちも、不要なものとして、切り離され たんだ。まわりの、世界から。
「……そうだね。私は、寂しいとは感じてないよ」
 彼の手が、私の頬を撫でた。その手で、髪を掻き上げながら。私のことを、心配してくれているのだろうか。こうして一緒になっても、彼のこういうきざな態度は治らなかったな。
 その時、何かが、私の頬を掻いた。
「……なんだ。あなたも、爪、伸びてるじゃない」思わず、笑ってしまった。
「ああ、僕も爪を切る必要があったみたいだね」そう言って、彼も笑う。
 爪は、死んでなどいなかったのだ。爪はきっと、切り離された後で、生きていくのだろう。ひょっとすると、その以前よりも、強く。
「まるで、私たち、みたいにね」
「え、今、なんて言った?」
 大事なところを聞き逃す彼に、なん でもないよ、と返しながら、私はまた笑った。
 
  
<了>