疲れていた。

 連日の残業と冗長な会議のせいか、乗っている快速がいつもより混んでいない程度のことで僥倖だと思える。幸せ者になってしまった。単なる感覚の麻痺であってほしい。眠気のせいか、現実感などとっくに消失していて、半ば吊革に縋るように船を漕いでいた。何度か後ろのサラリーマンとぶつかり、さっきなどは思いっきり肘で戻されてしまったほどだ。

 隣の若者が起こしている音漏れも、眼の前に座る中年の脂ぎった後頭部も、誰かが食べているのであろうフライドポテトの匂いも、私は気にならなくなっていた。

 痴漢が起きていたからである。

 車内には、いつもとは違う騒然さがあった。大勢の学生グループが固まっている場所に、ホームレスが近づいてきたときの学生達の反応に似ていた。こんなもの我々には無関係だとでも言わんばかりに。蠅を追い払う感じで、乗客は無視を決め込もうと努力していた。

 打擲されている女子は、妙齢のすらりとした美人だった。さっきまではハンドバッグをずらすなどして懸命に抵抗していたが、男にぴしゃりと叩(はた)かれてからは、怯えきったインパラのように身体を震わせたり捩らせたりするばかりであった。

 狼籍を働いている男は、やけに鋭い目付きで、このうえないほど集中していた。インパラを捕らえる、百獣の王の眼光がそこにはあった。汗まで垂らして彼が放っているのは、自らの歪な趣味と、カラカラと鳴る虚しい性欲だけではあるが。

 しかしながら、此処は狂っていた。

 眠気に似た浮遊感は収まりそうもないし、周りの乗客も、学生が青年誌を盗み見るような、一種の『フィクション上の娯楽』として受け取っている節があった。痴漢と他の乗客の間には、数十センチばかりの間があったが、それはもはや舞台としての体すら成していたのだ。

 電車はガタガタと喚く。抜かしている。前の駅を出てからもう随分経ったと思うが。腕時計を見た。壊れている。ふと思いついたのは、こういう場合、腕時計が『壊されている』と感じ取る者が少ないのは何故なのか、という瑣末にしてどうでもいい疑問だった。

 電車はトンネルに入った。暗闇に、女の横顔が映る。困惑と、恐怖と、その他描写仕切れぬほどの複雑な負が、彼女にその顔を選ばせている。男の陰茎は、ここから見てはっきりとわかるほどに勃っている。男の指が、蛇のように女体の上を這っていくのを見て、やっと気付いた隣の若者が何事かとイヤフォンを外した。

 呆けたように眺めていると、気付いたことがあった。

 その女子は、娘に似ていたのだ。

 最近では、学内コンパだのサークルの呑みだので滅多に顔を合わせないが、その女は確かに娘に似ていた。

 いや、勿論本人ではない。本人ではないのだが、これに気付いた時湧き上がるものを感じたのだ。

 これは――怒りに似ている。

 理由なき、捕らえ所のない憤怒の情。意識下で疼く謎の苛立ち。次第にたまらなくなってきて、声を荒らげてしまうところだった。

 電車はまだ着かない。何もかもが間違っていたが、唯一正しいことがあった。それは言うまでもない。疲れていた。疲れていたんだ。間違いなく、誰も彼もが。


「や、やめてください!」

 鶴の一声は雑然としていた車内に一石を投じた。突き破るような、それでいて更に泥濘を濃ゆくするかのような。割とステレオタイプなヘルプサイン。

 男は一瞬ビクリと身を引いたが、直ぐ様舌打ちをして女の身体をグッと掴んだ。鳩尾にうまく入ったのか、女はうっ、と声を詰まらせてしまい、結局形勢は変わらなかった。

 しかし、その声はゆっくりと車内を軋ませていった。『やめてください』の声が向けられたのは、男の方だけではないのだ。傍観を、もしくは愉悦を、乗客共は止めるべきなのだ。そして、女を助けるべきなのだ。そんな戒めが、女の声には篭っていた。

 降って沸いた怒りに乗った緩んだ匂いが、八号車に突き刺さった。コトリと、何かが落ちる音がした。

「――おい」

 男の胸ぐらを掴む姿があった。さっきまで音楽を聴いていた若者だった。青筋を立ててチッチッと口内の何処かを鳴らしている。

「ナニ俺のチイちゃんに手ェ出してんの?」

 チイちゃん。それは恐らく女の本名ではない。若者の恋人か、さっき聴いていたアイドル歌手か。その人は、女に似ているのか。似ているのだろう。寧ろ、若者の勝手な都合で、痴漢されていた女はチイちゃんに『似せさせられている』のだろうか。

 どよめく車内に鈍い音が響いた。若者が男を殴り倒したのだ。

「死ねッ! 死ねッ! クソがッ! てめえが触ってた分返しやがれ!」

 ボコボコとマウントで若者が男を殴り続けている。すると、他の女が前に進み出た。還暦などとうの昔であろう。しかし、なかなか矍鑠とした老婆だった。

「なにを抜かしとるかね、この若造は! あんたにウチの蓉子さ、語る筋合いはないね!」

「あんだと、ババア?」

 起き上がった若者は何の躊躇いもなく老婆をも殴り飛ばした。鮮血が、ふわりと車内に舞った。

 まるで約束されていたかのように、スイッチが入って、若者に乗じた他の乗客が前に突き出てきた。口々に、『そいつはうちの女房だ!

 お前がどうこう言う話じゃない!』だの『私の妹のことに口出しするんじゃないよ!』だの『ボ、ボクの嫁を気安く呼び捨てやがって!』だの好き勝手に叫び合っている。乗客達の脳内で、一体何が起きているんだ。

「上等だ! 来いよ、コラ!」

 波が、どっと押し寄せた。痴漢していた男も、若者も、老婆も、口々に叫んでいた者達も含めての乱戦が始まった。

 脇で、涙を浮かべて混乱している女の肩を優しく包む影もあった。緑髪の青年だった。

「ホラ、大丈夫だ。オレのユーコには誰もグホッ!」

 彼の顔面にハイキックが入った。

「コラア! 気安くオラの美恵に声をかけてんじゃねえやぁ!」

 角刈りの、浅黒い中年の一撃だった。蹴り飛ばされた青年は、座席の方にブッ飛んでいき、派手にポールに頭をぶつけていた。女が、『私、ユーコでも美恵でもないんですけど……』と呟いた声など誰も聞いちゃいなかった。

 違う。違うんだ。この女はお前達乗客の誰其じゃない。純然たる名前があるただの不幸な乗客の一人に過ぎない。過ぎないというのに何だ、この気持ちは。怒りか。怒りで説明しきれるのか。男を殴った。殴リ倒シタ。清々しい。イイ気持チダ。愛する人を守る、社会に認められた正義の鉄拳だ。男の鼻が潰れた。歯が折れた。この腐れ痴漢め。死ね。死んでしまえ! 人の娘で勃起しやがって! くたばれ! くたばっちまえ!

 罵声と怒号。奇声に暴力。殴打、金的、飛膝、ヘッドバッド。ありとあらゆる力が飛び交い、傷めつけ合っていた。気持ち良かったのだ。乗客は皆、自分こそが愛を守り、邪な悪や横槍を入れる輩を叩きのめす者だと陶酔していた。俺の、私の、何々ちゃんは、守られるべき姫君であって、それを阻むクズは誰であろうとくたばってしまえばいいのだ。

 妹のために奮起した学生が、隣人の奥さんのために戦う主婦の鼻を右にへし折れば、孫娘のために杖を振るう老人が、別れた妻のために拳を回すおっさんの指を噛み千切る。地獄絵図の真っ只中、血飛沫が舞い、スーツが破れ、敗者は地に倒れた。ひっくり返った傘の上にえぐれた生皮が重なり、スーツケースの下で失神している少年は何度も何度も踏み潰された。眼前で、誰かに投げ出された女子高生が首から床に落下した。ゲロと血反吐の上を、バンドマン風の男が滑り飛ばされていった。老婆の吹いた泡が、顔にかかった。睾丸が潰れる音が響いた。割られた窓ガラスより、失禁しながら車外に投げ飛ばされた姿もあった。

 そこはまさに戦場だった。見えない正義に縛り付けられた、何の大義もない戦場だった。痛! 髪を引っ張んじゃ……殺すぞ! てめえ! アアアアアアアアア…………

 大男に投げ飛ばされ、シートの剥がれた座席に頭から落ちたところで意識を失った。最後に見た光景は、あの女の子が急いで隣の車両に逃げていくシーンだった。

<了>

 

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