鶴の一声は雑然としていた車内に一石を投じた。突き破るような、それでいて更に泥濘を濃ゆくするかのような。割とステレオタイプなヘルプサイン。
男は一瞬ビクリと身を引いたが、直ぐ様舌打ちをして女の身体をグッと掴んだ。鳩尾にうまく入ったのか、女はうっ、と声を詰まらせてしまい、結局形勢は変わらなかった。
しかし、その声はゆっくりと車内を軋ませていった。『やめてください』の声が向けられたのは、男の方だけではないのだ。傍観を、もしくは愉悦を、乗客共は止めるべきなのだ。そして、女を助けるべきなのだ。そんな戒めが、女の声には篭っていた。
降って沸いた怒りに乗った緩んだ匂いが、八号車に突き刺さった。コトリと、何かが落ちる音がした。
「――おい」
男の胸ぐらを掴む姿があった。さっきまで音楽を聴いていた若者だった。青筋を立ててチッチッと口内の何処かを鳴らしている。
「ナニ俺のチイちゃんに手ェ出してんの?」
チイちゃん。それは恐らく女の本名ではない。若者の恋人か、さっき聴いていたアイドル歌手か。その人は、女に似ているのか。似ているのだろう。寧ろ、若者の勝手な都合で、痴漢されていた女はチイちゃんに『似せさせられている』のだろうか。
どよめく車内に鈍い音が響いた。若者が男を殴り倒したのだ。
「死ねッ! 死ねッ! クソがッ! てめえが触ってた分返しやがれ!」
ボコボコとマウントで若者が男を殴り続けている。すると、他の女が前に進み出た。還暦などとうの昔であろう。しかし、なかなか矍鑠とした老婆だった。
「なにを抜かしとるかね、この若造は! あんたにウチの蓉子さ、語る筋合いはないね!」
「あんだと、ババア?」
起き上がった若者は何の躊躇いもなく老婆をも殴り飛ばした。鮮血が、ふわりと車内に舞った。
まるで約束されていたかのように、スイッチが入って、若者に乗じた他の乗客が前に突き出てきた。口々に、『そいつはうちの女房だ!
お前がどうこう言う話じゃない!』だの『私の妹のことに口出しするんじゃないよ!』だの『ボ、ボクの嫁を気安く呼び捨てやがって!』だの好き勝手に叫び合っている。乗客達の脳内で、一体何が起きているんだ。
「上等だ! 来いよ、コラ!」
波が、どっと押し寄せた。痴漢していた男も、若者も、老婆も、口々に叫んでいた者達も含めての乱戦が始まった。
脇で、涙を浮かべて混乱している女の肩を優しく包む影もあった。緑髪の青年だった。
「ホラ、大丈夫だ。オレのユーコには誰もグホッ!」
彼の顔面にハイキックが入った。
「コラア! 気安くオラの美恵に声をかけてんじゃねえやぁ!」
角刈りの、浅黒い中年の一撃だった。蹴り飛ばされた青年は、座席の方にブッ飛んでいき、派手にポールに頭をぶつけていた。女が、『私、ユーコでも美恵でもないんですけど……』と呟いた声など誰も聞いちゃいなかった。
違う。違うんだ。この女はお前達乗客の誰其じゃない。純然たる名前があるただの不幸な乗客の一人に過ぎない。過ぎないというのに何だ、この気持ちは。怒りか。怒りで説明しきれるのか。男を殴った。殴リ倒シタ。清々しい。イイ気持チダ。愛する人を守る、社会に認められた正義の鉄拳だ。男の鼻が潰れた。歯が折れた。この腐れ痴漢め。死ね。死んでしまえ! 人の娘で勃起しやがって! くたばれ! くたばっちまえ!
罵声と怒号。奇声に暴力。殴打、金的、飛膝、ヘッドバッド。ありとあらゆる力が飛び交い、傷めつけ合っていた。気持ち良かったのだ。乗客は皆、自分こそが愛を守り、邪な悪や横槍を入れる輩を叩きのめす者だと陶酔していた。俺の、私の、何々ちゃんは、守られるべき姫君であって、それを阻むクズは誰であろうとくたばってしまえばいいのだ。
妹のために奮起した学生が、隣人の奥さんのために戦う主婦の鼻を右にへし折れば、孫娘のために杖を振るう老人が、別れた妻のために拳を回すおっさんの指を噛み千切る。地獄絵図の真っ只中、血飛沫が舞い、スーツが破れ、敗者は地に倒れた。ひっくり返った傘の上にえぐれた生皮が重なり、スーツケースの下で失神している少年は何度も何度も踏み潰された。眼前で、誰かに投げ出された女子高生が首から床に落下した。ゲロと血反吐の上を、バンドマン風の男が滑り飛ばされていった。老婆の吹いた泡が、顔にかかった。睾丸が潰れる音が響いた。割られた窓ガラスより、失禁しながら車外に投げ飛ばされた姿もあった。
そこはまさに戦場だった。見えない正義に縛り付けられた、何の大義もない戦場だった。痛! 髪を引っ張んじゃ……殺すぞ! てめえ! アアアアアアアアア…………
大男に投げ飛ばされ、シートの剥がれた座席に頭から落ちたところで意識を失った。最後に見た光景は、あの女の子が急いで隣の車両に逃げていくシーンだった。
<了>