「プールの底ってふしぎ」

 いきなりどうしたの、と尋ねると、乾きかけの髪を揺らして彼女は笑った。

「何にもないのに何かがあるの。そんな気がするの」

 なんだよそれ、と軽くあしらうと、彼女は口を噤んだ。

 

 夏が終わる。じりじりとしつこく迫る熱気が、涼しげで物悲しい秋の空に吸い込まれていく。僕の夏も、彼女の夏も。今はプールの中で満足しているきらきら輝く水が、排水溝を通ってこの場所を旅立ってしまえば、そしてそこから塗装の剥げかけたコンクリートが顔を出してしまえば、呆気なく終わってしまうのだ。

 あんなに鬱陶しかった蝉の声が、僕たちの傍から少しずつ離れていく。水面すれすれを飛ぶトンボの羽がもげていく。愛用の制汗スプレーは引出の奥深くに眠り、三年間使い古したゴーグルは二度と日の目を見ることはなくなるだろう。だからいつか僕の記憶からも、そして彼女の記憶からも、みんないなくなってしまうかもしれない。

 

「まあ確かに。水の中は音が聞こえないし、ぐにゃぐにゃする景色とか、見えない何かに包まれている感覚は好きかも」

 スポーツドリンクで喉を潤してから、こんなことを言ってみた。こんなぎりぎりになって意識したけれど、僕も水の中は好きだ。透明で、きらきらしていて、掴みどころがなくて。

 

 このプールの底には何かがあるのだ。僕たちが過ごした一生に一度の、この夏についての何かが。すっかり体に馴染んでしまった塩素の匂いとか、瞼に焼付いた飛び散る飛沫とか、プールサイドの触り心地とか、そういうものとは別の、何かが。

 

「うんうん。外とは違うよね。やっぱりふしぎ」

 眠たげな午後三時半の日差しに、プールの表面が輝いている。乾いたプールサイドからでは底の様子を窺い知ることはできない。いま、プールの底はどうなっているのだろう。そこに何があるのだろう。

 

 解散の合図がかかった。鍵と日誌を手にした部長に間延びした声で帰宅を促される。じゃあ、また。といつもの挨拶を済ませて彼女は立ち去った。僕は水面を見つめながらその後をのろのろ歩いていく。

 ふと、弱ってしまった夏の空気を両手で抱えて、眼前に広がる無音空間に飛び込んでしまいたい衝動に駆られた。だが勿論そんなとんでもないことは出来なかった。もしもプールの底で自由を奪われて、二度と外界へ出ることが叶わなくなったら……という非現実的でばかげた不安で、胸がいっぱいになってしまったから。

 

 だからせめて明日、いつもより少し早起きして練習前にこっそり潜ってみようと思いついた。音も実体も無いそこへ。夏がほんとうに終わってしまう、その前に。

 

<了>

 

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