どさ、という音がして、僕は目を覚ますまではいかなくともそれに近い状態になった。

 

 外はまだ暗いようだ。いつも起きている時間からは程遠い。ひんやりとした空気が部屋を満たしている。

 しかし、君は既にベッドから出ているらしい。クローゼットの近くでぱたぱたと動き回っているのを感じる。先程の音も、君がジーンズを床に投げ置いた音だろう。

 

 僕は動くでもなく眠るでもなくゆるやかに、その曖昧な状態を続けていた。僕の思考は、まるで、深海を泳ぐ魚のように音もなくするすると薄暗い場所を彷徨っている。

 

 

 

 夢を見ていた。

 

 君と食事に行く、夢を。

 そこは一度だけ、二人で行ったことのある店だった。

 

 高級車が行き交うメイン・ストリートを逸れた、細い路地の奥にぼんやりと光っている、有名なフレンチ・レストラン。オレンジ色の照明に煉瓦が温められている。半年も前から予約しなければ入れないほどの人気だった、と思う。

 

 夢の中で、君は僕の向かいに座っていた。小さいけれど、とても綺麗にされている真っ白なテーブル。その中央では、さり気なく置かれた蝋燭が厳かに揺らめいている。広々とした店内には、新鮮なオリーブの香りが刺激的に漂っていた。

 

 しかし、何よりも。

 何よりもまず、僕の気持ちを惹いたのは、そこで流れるショパンのプレリュードであった。とてもスローなテンポで。実際に行った時にも店で流れていた曲だと、記憶が蘇る。

 

 よく知っているはずの曲だった。それなのに、僕はこの曲がこんなにも切ない響きを持っているなんて、今まで気がつけてはいなかった。単調だが安心感のあるベース音に支えられながら、高音では、ガラスの人形が踊っているような、儚く、か細い旋律が流れている。まるで、幼い天使が枯れた花を見て悲しんでいる声のような、安らかな暗さを含んだ旋律。心のどこかにある感性豊かな糸が、微かに揺れた。僕の胸の中で。

 

 その曲が、夢から醒めたはずの今もまだ、頭の中で滔々と流れ続けて僕を魅了している。

 何度も繰り返されるメロディと共に、大分と意識が夢へと引きずり込まれていた僕だったが、再び、ふわりと現実の方に戻された。

 

 頬に、冷たい何かが触れたのを感じたのだ。多分、君が僕にキスをしたのだろう……半分起きていることも、知らないで。

 

 あなたの寝顔を見るのが好きなのよ、なんて言う君の顔が目の裏に浮かんだ。君はそういう人間なのだ。思わずこちらが赤くなってしまうようなことを、平気で口にする。少し首を傾げて、頬に手をやりながら。そして、僕が照れ隠しに話を逸らすのを、くすりと微笑みながら見つめるのだ。

 

 

 頬には君の唇の感触が残ってはいたが、やはり一方で、あのショパンのピアノ曲が鼓膜の奥を揺らし続けている。僕は無意識に、また夢の記憶を探り始めていた。

 

 夢の中で僕らは、どっさりと皿に盛られたエスカルゴを、必死になって食べていた。ほとんど、無言で。

 

 窓の少ない店だったのだけれど、それでも、薄暗い外でしゃあしゃあと静かな雨が降っているのは見えた。

(そうだ。あの日も、雨だった)と僕は心の中でのろのろと呟いた。いや、現実はもっと激しく酷い雨にだったかもしれない。逃げるように店内に駆け込んだ時には、僕も君も、傘を忘れた小学生のようにずぶ濡れになっていたのだから。

 

 だけど。あの日の雨は――夢で見たものほど鬱々とはしていなかった、とも思う。

 雨粒に直接触れたわけでもないのに、寒々としたものを背筋に感じた。なんだか、店の中だけが僕らの唯一の居場所かのような、心細い気分に陥ってしまう。

 

 ……そんな悲しい水滴が真っ直ぐに落ちてきていた。

 

 エスカルゴを食べる手をとめて、沈んだ表情で窓の外に目をやる僕に、君は気がつかない。いつもスマートな余裕を見せようとする、君らしくもない猫背で、小さくまとまりながら、ひたすらに食べ続けていた。何か悲しい事を振り払うかのように。髪が垂れるのも、構わずに。

 

 僕は、それが見てはいけない姿のような気がして、再び窓に目をやった。

 

 

 僕は紫陽花が嫌いだ。あまり、明るいイメージの湧かない花、だから。

 せっかくの涼しい色も、小さな花弁も、どうしてか暗く見えてしまう。梅雨の季節に咲くからだろうか。おとなしくて、悲しい花。それが僕の紫陽花に対する印象だ。まったく勝手なものなのだけれど。

 

 

 なのに、どうしてだろう。紫陽花が窓の外の小さな庭に、しんみりと生い茂っているのが見えて、僕は柄にもなく目を奪われた。

 煉瓦造りのこのレストランの照明は、高い天井に吊るした幾つかの小さな電球だけだった。緻密に演出された薄暗さの中では、室内もの全てが温かなオレンジ色に見える。ずらりと並ぶ上等なワインボトルや小さな花がびっしりと描かれた皿、磨きこまれたナイフ。そして床、壁、グランドピアノ。それらはもちろんのこと、君の俯いた顔もまた、橙に照らし出されていた。まるで店全体がひとつのクラシカルな暖炉のようだ。

 その中からは、窓の外に咲く紫陽花が、なんとも鮮やかな青に見えたのだ。

 

 

 嘆息が耳に届いたのか、君はようやく僕が手をとめているのに気がついた。す、と微笑んで君は僕の手の甲に指を伸ばす。今までエスカルゴに触れていた事を感じさせない、さらりとした皮膚の質感に安心する。

 そして僕は、その細くて白い手を強く握りしめた。しかし君は、笑みをほんのりと口に残したまま小首をかしげ、困ったような視線を僕に送る。

 僕は、そのひんやりと冷たい手を離すことはしなかった。包むように、温めるように、より強く指を絡める。君の瞳を真っ直ぐに見ながら。

 

 どれくらいの時間、手を握っていたのだろう。君の手は冷たいままだった。握り返してもくれない。そして君はそのまま、空いている右手で摘まんだナプキンで少し口を拭いたあと、音も無く立ち上がった。まるで、レストランに流れるショパンのピアノ曲に合わせて踊るかのように。

 

 君は、驚くほど美しい青のドレスを着ていた。君の硝子のような肌に映える、シンプルなドレス。

 よく似合うよ、と目で合図する。それに応えて浮かべた笑みは、切なげで、僕のこの気持ちを素直に喜んでくれているようには見えなかった。悲しい表情を浮かべないための、微笑み。

 君が軽く会釈をして、するすると歩き始めたので僕は驚いた。しっかり握っているはずの手が、いつしかするりとほどかれていたからだ。ずっと、離さないつもり、だったのに。

 状況がうまく呑み込めず困惑する僕を残し、君は窓際に行った。紫陽花が雨に濡れている。

 

 僕が立ち上がった時にはもう、君は窓の外で紫陽花と戯れていた。傘もささずに。屈んで花びらの香りを楽しんでいる。

 その時である。紫陽花と君の姿がよく似ていることに気がついたのは。

 薄暗い店内から、君は、美しい妖精に見えた――。

 

 

 

 そこで、目が覚めたのだ。

 

 

 

 涙が、ツ……と流れた。

 切ない夢だった。不思議なほど孤独を感じ始めた僕の胸の中では、例のプレリュードが弱々しくうごめいている。

 バスルームからは、その曲を引き立たせるような音がしっとりと流れていた。君がシャワーを浴びているのだろう。僕は君の存在を感じたことで少し安心し、深呼吸をした。

 

 指の先が冷たくなっているのがわかる。夢の中で君は、どうして僕の手からすり抜けてしまったのだろう。何故僕は、離してしまったのだろう。もっと何か、出来たはずだ。

 そう、ぼんやりした頭でしばらく考えていた。しかし霞んだ思考からは答えなど出ては来なかった。

 時計を振り返ろうと重たい瞼を開くと、ちらと窓が目に入る。

 外は雨だった。

 朝の、冷たくてひっそりとした空気の中を雨粒が落ちていく。薄い藍色に染まった大気と、真新しい半紙のように白い雲。僕は目をしばたきながらそれを眺めていた。

 

 そして、その時、僕はシャワーの音だと思っていたのが雨音だったと悟った。

 寝室の壁を振り返ると、そこには喪服がかかっていた。

 僕の涙なんか見向きもせず、雨はゆっくりと振り続ける。

 

 

 <了>

 

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