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   世界は気のふれた老女を罵倒する黄昏どき、

   そして人生は、鹿のいる山奥の堀立小屋のポーチに、

   髪をぼうぼうに乱して上着もつけず靴もはかずにふりしきる雨の中、

   すっかり老けこんだ感じで立ちつくしている沈黙の子供たちのことだ


リチャード・ブローティガン著 藤本和子訳

芝生の復讐(新潮社)

 

Begbie Q-012

統一機構Brooklyn支部

 

 

 棺が並んでいるのだ。

 端末を定点カメラアーカイヴスに繋いでいるので全体の状況は把握できているのだが、その必要性を疑うほどに<棺広場>は穏やかである。主人の戯れから数十分おきに各通路のスクリーンショットを出力しているのだが、彼は四回前から見向きもしていない。

 画像の処理を行いながら、視線(カメラ)を回す。主人の手元、あと少しで灰皿が溜まりそうだ。

 省電のため、嗅覚センサーを切っているから部屋に溜まる煙草の匂いを感知出来ない。予測される換気パターンをもとに警告を鳴らしているのだが、やはりそれも無視されるばかりだ。主人がヘビースモーカーだと、瑣末で雑多な仕事が増える。それは世界中のパブロイドの宿命だ。

「なあ、ベグビー」

「何だ」

 無精髭をさすり、顔だけをこちらへ向けて主人が声を掛けてきた。

「あまり待たせるのも可哀想だよな」

「主人と彼女とでは主観時間には大幅な誤差がある。それとも、それを踏まえたジョークか」

 主は返事をせず新しい煙草に火を点けた。メイン・ノードのディスプレイには、インストールの進捗率を告げるシークバーは、じりじりと鈍行する。

 棺広場統一機構ブルックリン支部。GPSが生きていた頃なら、此処はまず間違いなくそう表示される。並立しているフレデリック国立スクウェアには、現在約九億人分の脳髄が保管されている。向こう岸が視る夢を、ここは管理しているのだ。

「まずい。あと三カートンもないぞ」

「保管所はここから数キロとない。連絡を取るか。生きているかは定かではないが」

「いいさ、これで吸い納めだ」

 主人が喫煙を諦めるとは、余程のことだ。

「煙いな、この部屋」

 そのとき、インストールが完了した。

 

 

Betty Schultz

北ヴェルヴェット共同管理宿舎

 

 

 私はクビになった。

 三十路を手前にして、最初にして最後の失業。後ろ指をさされず、次の職のアテもなく、ただ倦怠感に身を任すばかり。幹部会の椅子に拘泥していたつもりはないけれど、「イクスプローラで働く女」というレッテルが恋しくなったのは確かだ。

 この正体不明の感慨は、クビにされた原因から来る。査問会議で、唯一人だけ反対したのがいけなかったのだ。

 獄囚系臨床体に関する特例条規を認める段で、私は人道的立場から四肢の一時的分断は取り止めるべきだと強く発言した。いくら冷凍手術全盛のご時世とはいえ、身体を切り刻まれて然るべきなのはニンゲンではない。本マグロだ。

 同時に、ヒーロー気取りの老害どもが一斉に眉を顰めた。「人体実験――天下に名高い<プロジェクト・イクスプローラ>のど真ん中で、フランケンシュタンごっこなど言語道断! メアリ・シェリーも草葉の陰で怒り狂っているよ」という私の主張は棄却される。

 死刑囚の命よりも、研究の方が大事です。何故そう云えなかったのだろう。いや、絶対に首を縦に振らない自分に、実は陶酔していなかったとは言い切れない。嗚呼、私はダーウィンだ――今思えば、素直に天動説(プトレマイオス)に同意するべきだったのだ。大体、私が反対したところで、陽の当たらないところで起きているそれらを止めることなどできやしないのに

 週末を棒に振った、というより、毎日が週末になった私はショート・ピースを咥えながら金曜の朝を迎えた。数年振りに夜通し携帯ゲームに勤しんでみても、朝日を拝めば虚しさに涙が滲んできた。煙草の吸い過ぎで喉も痛かった。

 その日の夕過ぎ。反動で昼間中眠りこけていた私は、気分転換にショッピングに出向いた。不摂生を顔に張り付けたまま、化粧を忘れて。

 外に出ると、否応なく思い出す。

 もうじき、この世界は終わるんだ。

 

 それはプロジェクト・イクスプローラ――世界電子化機構と総称されている。

 話の突飛性は、時としてその語り口に真実味を帯ばせてくれる。ウソみたいだ、というとつまりそれはウソではない。世界の終わりという大衆小説や三文映画、はたまた才に見放された劇作家の逃げ口として使われる最後にして最大のテーマ。私達はそれを、事実として、眼前に控えている。

 発端はドイツ天文学界の権威が、地球の衛星が軌道を外れ、ゆっくりと降下してくるという信じ難い学説を発表したことに起因する。およそ二百年の余命を宣告された水の惑星は、別段変わりなく今日も公転している。

 星ごと突っ込んできてまでかぐや姫を返して欲しいのか、などと茶化せるようになったのはそれこそここ十年ほどだ。研究が重ねられ、その学説が虚偽でないことが知れ渡るようになると世界中で大混乱が起きた。それら紛争や内乱を片付けたのも、プロジェクト・イクスプローラであった。

 急遽、先進七カ国で立ち上げられたイクスプローラの最終目標は、脳髄の外部保存。そして、体感時間の延長だった。

 現実世界の二百年後に来たる終焉をピリオドとし、それまでの数億数兆秒をバイトに換算し、ひたすらに引き伸ばし続ける。容量の許す限り、自らを圧縮し続ける時間は現実世界の千分の一、万分の一の歩みで緩やかに刻んでいく。莫大に膨らんでいく仮想メモリは、さながら幽霊の住所録。

 脳髄を保管せし棺桶を支える大容量蓄電技術、それらすべてを管理する安定したクリーンなシステム、穣や溝ほどもある情報を数バイトに収める圧縮法の確立が求めらた。オーバーテクノロジーと嘲笑われた技術は、次第次第に形を成していった。

 神をも恐れぬ偉業。有能な学者とその卵達は、全ての生活を保護、管理され研究にひた走った。その意思は受け継がれ、昨年遂にProject Explorerは完成した。

 後発国の蜂起やそれに伴う三次大戦を危惧した当時の首相や知識人などが、いくつもの超法規的条約制定とともにイクスプローラをスタートさせたわけだが、その後遺症か、稼働した当初もイクスプローラにまつわる都市伝説や、下世話な噂が絶えなかった。かのインターネットの原型やクラシックの電子ゲーム機がそうだったように、軍事目的に使われなくなった数多の技術が流用され、目まぐるしくイクスプローラは出来上がっていった。それこそ、自棄にかられた厭世者や、一時期の熱狂主義者らしき者達による新興宗教の乱立、主張のおかしなデモやテロはまだまだ盛り上がっていたが、日々進化していく救世主の姿に段々と終末論者(エスカトロジスト)は声を荒げなくなった。やはり世界の流れは広告代理店が作っているのだと再認識した

 そういった具合に、世界は終わりに向かっていくにつれて、本当の平和を取り戻していった。

 私は、そんなところに居たのだ。

 

 夕暮れ時。風は少しだけ温い。全世界的に出されていた外出禁止の戒厳令も、ここ最近でイクスプローラの被験者が急増してからは形骸化している。

 誰もいない海岸通り。壁という壁に下手なグラフィティ・アート。傾き、半焼しているビル群。自宅の近くにある全壊している議員宿舎を見ると、世界中の政治家が大金を積んで一番乗りした噂も頷けてしまう。この仕事をしていた際、そういった噂の真偽が知れるのはひとつの旨味であった。

 私の足は自然といつもの地下街に向かう。コンビニもビリヤード場もとっくに閉まっているが、この期に及んで一軒だけやっている店があった。経済が死んだ時代に、金儲けをしている愚かな店。

 ゲームセンターの通りを横切って最奥の鉄格子にメンバーズIDをかざすと、耳障りな金属音がして扉が開いた。イクスプローラ研究の副産物、大容量蓄電技術が産み出した護身用――にしては大層なモノを携えている――民間軍事兵卒機<アザゼル>が二体、認証音とともに武装解除した。右のピンクボディにピンクリボンがエボニー、左のグリーンカラーにグリーンスカーフがアイボリー。目も当てられない痛々しさ。店内BGMも、プログレの名盤が一枚ずつご丁寧にCDプレーヤーでかかっている。腕や脚がむず痒くなってきた。

 黄ばんだ匂いが鼻につく。古臭い銘柄のパッケージが沢山詰まったレジスター台に手を付いて、更に奥で年代物ベースボール名シーン集を眺めている老婆を大声で呼んだ。

「お婆ちゃん、煙草ちょうだい」

 露骨に嫌そうな顔をして店主は再生機器に一時停止をかけた。背中を叩いて面倒臭そうに応対するくらいならば、とっとと店を畳んでしまえばいいのに。

「またあんたかね。もうピースは尽きちまったよ」

「セッタ」

「ないよ」

「じゃあ、あるので一番重たいやつ」

 ゴソゴソとペルメルを取り出す。今度は私が嫌な顔を見せる。

「絶対嘘でしょ。売れ残り渡そうたって――」

「何言ってんのさ。小娘が。何売ったって一緒だよ。あとはアタシが吸うんだ。これで我慢しときな――今日はこれしかメニューにないよ」

 腹は立ったが、歯向かえばご所望のニコチンは手に入らない。慈善事業みたいなものだから、機嫌を損ねるのはよろしくない。

 仕方なくトイレットペーパーにも劣るドル札を数枚投げつけて、カートンをなるたけ奪い、その場を去ろうとした。

「――あんた、まだ入らんのかい?」

 後ろから店主の声が聞こえる。その嗄声は前よりも弱々しくなった気がする。年寄りめ。あんたみたいなのが最初に棺に入るべきなんだ――プライオリティ・シートなら、喜んでお譲りしますのに。

「棺とかね、私はあんまり好きじゃないから」

「いずれ誰だって入るだろうに」

「まだ先だと、思ってたんだけどな」

 去り際、私はエボニーを撫でた。

 

 脳髄の保管庫。二十二世紀最大の発明。棺広場が、私は嫌いだった。

 イクスプローラに全シナプスを接続し、思考のすべてを委ねることから始まる。現状のバージョンでは、ラグ修正以前の旧時間計測換算(こちらがわのとけい)約八百六十は脳を活かし続けることができる装置群の総称だ特定の通信を行うと起こる時間飛びもだいぶ減ってきた。

 電磁波の波が、人間から死を奪い、代わりに各々専用の秒針を差し出す。数列化し、多量の情報と何ら変わりなくなった意識達の体感時間は、薄く薄く伸ばされ続ける。隕石が地球の本当の最後の瞬間を告げるまで、人生というフィルムは途中休憩なしの上映時間永遠でカタカタと回り続けるのだ。

 考える死体は、いつまでも妄想の海で羊水を飲んでいられる。恐ろしい世界だ。過去(ついさっき)現在(いま)に差異はもはや存在しなかった。

 棺広場の生みの親で、イクスプローラ研究の第一人者であるダグラス・ジョン・イーガンが混沌の四十年代後期に提唱した<永劫機関理論>は、平易な文章で一般図書に改訂されており、幾星霜の書が焼き払われたあの時代を超えてロング・セラーとなった。

 世界の終わりを救ったのが、ただの棺桶とはロマンに欠ける話である――それでも、私が嫌えば嫌うほど、棺広場は私自身に迫ってきた。意味を持って。

 何故なら、恋人が既に入っているからだ。

 

「もしもし」

 携帯しているセル端末に着信が入った。ちょうど地下街を抜けたところで。

「ああ、ベティ? ちょっと話があるんだけど今空いてるよな」

「おかげさまでこれから毎日暇よ。知ってるでしょ」

「三十路のオバサン……面白くない皮肉はウザいだけだって」

「まだ手前なんだけど」

 カサイ・キョウタロウはアジア人一を他称される美青年だった。私服が許されている(というより、人前に出ることも珍しいような研究職に、フォーマルな格好を日頃から強要していた時代がおかしかったのだ)研究所内で、彼ほどそれを上手く機能させている男も少ない。鼻筋がすっきりしていて、作ったような緩やかなウェーブが常に髪にかかっている。少し流し目なのも高評価だ。

 しかし、彼は私の恋人ではない。誰に対しても本音以外で向き合わない彼の姿勢は好感が持てるが、平日の十一時から仕事を全部投げてまで会いたいと思えるような感情を、彼に持ったことは一度もなかった。カサイ自身も取っ換え引っ換えではあるが恋人はいる。所詮ただの気の合う同僚である。

「お前のパス受け継いでさ、取り敢えず新着のメッセージを片付けてたところなんだけど」

「ご丁寧にどうも……全部トラッシュしてもらって構わないから」

 カサイの声音が変わる。

「――キレンからの通信も?」

「――キレンから?」

 私は眉間に皺を寄せる。

「三日前から不定期に送信されている。全部で四件。取り敢えずスキャンだけやっといたよ。ノイズは入ってないが……通話する?」

「うん。お願い。ちょっと待って、急いで帰るから」

 

 ものの五分で帰宅した。

 バッグを放り投げて、セカンド・ワールドとの通信用回線の電源を点ける。昨日のでアパートの隣室分の蓄電が尽きたようで、そのまた隣のメーターに再接続が為された。その確認通知を読み飛ばす。取り敢えずこの階の住人だった研究員は軒並み棺広場内か、未だに研究所で缶詰なので、ここ二年ほど無断で拝借出来るよう設定しているが――無論、返せるわけではない――それに関して角は立っていない。そもそも、クビにされたこの社宅の立ち退きすら命じられていないわけだし。

 数分でソフトは立ち上がり、薄膜ビジョンが浮かんだ。彩度調節及び新時間と旧時間との互換が行われる。圧縮された時間を、現実世界と通信が取れる速度まで解凍するのだ。

 画面は暗闇から夕陽の刺す雰囲気の良いアパートに変わっている。通話が始まり、どれほどのパケットが飛び交って、どれほどの時間が消費されるかの概算が画面上部に表示された。すでに私との通信のためにキレンは四十年分を費やしている。

 キレンが住んでいたアパート――彼が脳内再生して固定化させたそのアパートのモデルを、私は眺める。キレンは、三日前、いや、彼からすれば数ヶ月以上前に通信したときと同じ格好で、薄膜ビジョンの真中に座した。

 キレンはテーブルに茶菓子と珈琲を置き、寝起きみたいに眼を擦る。私はその相変わらずのものぐさそうな挙動を見て心底安堵した。ああ――いつもの彼だ。私が好きになった頃と、何一つ変わっちゃいない。

「――えっと、久し振り」

「ね、久し振り」

 大抵彼が誰かに話しかけるときは申し訳なさそうな仕草を取る。私はその仕草が気に入っていた。彼の記憶に焼き付いている私との対話パターンから、彼の発言するであろう発声の長短や大小、はたまた語尾の曖昧さまで(死語や、発音の微妙な局所的方言以外は)イクスプローラは忠実に再現してくれる。その機構はありがたい。温度を別にして、おそらく最も完成している通話の形だった。

「どうしたの?」

「うん。ちょっとさ、話しにくいんだけどね――」

 彼が過去にした相談で、言い淀まなかったものなんて存在しただろうか。

「言いなよ。きっと話せばスッキリするって」

「ああ、うん。でもね、ベティが、その、聞いたら嫌だと思うんだ」

「聞いて欲しかったんじゃないの?」

「いや、まあ、そうなんだけどさ……」

 埒が明かない。

「そんなことで、嫌ったりしないから」

 鼻をつまみたくなるほど臭い台詞だ。彼は満更でもなさそうに、身体をくねらせて照れている。イクスプローラも無駄な仕事に電力を費やすものだ。

「――最近さ、ちょっと気持良くないんだ」

「――え?」

「だからさ、何か、足りない感じがするんだよね」

 何かと思えば。

 下の話。

「私じゃ満足できないって?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。やっぱごめん、なんでもないわ。じゃ、また」

 ブツリ。

 回線を一方的に切られた。

 不審に思ったが、私からのコールにキレンは出ない。気になったけれど、仕方なく私はカサイにコールした。音声通信のみに切り替わったので、キレンの顔や仕事場の代わりにデフォルトの風景画像が映った。戦前の、まだ美しかった頃の朱色がかったエアーズロック。

「もしもし」

「……おいおい、こっちはニートじゃないんだ。忙しいんだよ、世界で一番ね」

「同情するわ。で、いつ手が空くの?」

「いいよ、煙草吸い行くから。早く話して」

 ぶっきらぼうだが頼りがいはある。しかし、出世出来ないタイプだった。殆ど同期なのに――年功序列なんてもう歴史用語ではあるけれど――連名会はおろか、幹部会に推薦されたことは一度もない。はやる気持ちを抑え、正確に伝えようと努力した。

「足りないって――まあ、そうだよな。溜まってるって発想に結びつくよな」

「でしょ? おかしいじゃない。あそこのイオンチャネル・コントローラに誤作動でも起きてるんじゃないの?」

「何言ってんだバカ、ブルックリン支部だろ? つい二時間前にぴっかぴかのオールグリーン吐き出したよ」

「じゃあ何よ。キレンだけが変になっちゃったっていうの? この期に及んで、何もしてないのに壊れた――なんて言わせないよ」

 カサイが沈黙する。煙を吐く音と、舌打ちが聞こえた。

「――わかったよ。同じ症例に当たってやるって。んで、<益虫>も一応準備しとく」

 益虫。ニューロンの潤滑油。俗称の響きはよろしくないが、臨床体に関する不具合は大抵これでノーマライズ出来る優れもの。少し細かいことを話せば、脳波のシグナルというシグナルを相対化及び鈍化させることで、知恵熱を冷まそうというプログラムのことだ。意図的に圧縮率を下げて機構側から制御しやすくする効能もある。勿論好き好んで自分の大事な人の棺にスカラベもどきを流しこむような変態は中々いないが。

「不安?」

「まあ、少し」

「あまり気に病むなよ。よくある事例だと思う。多分」

 私から通話を切る。薄膜ビジョンがフォールドインした。

 夕闇はとっくに姿を消して、夜の帳が下りていた。私は、もう一度だけキレンにコールし、不通に項垂れた。

 

 

Begbie Q-012

高速小型機用ポート Y

 

 

 現実とは、脳が視る夢に過ぎない。誰が言ったのだろう。

 高速小型機の調子を点検しながら、少し離れて煙草を吸っている主人の様子を観察する。口と顎髭が伸び切っている。あれでは初対面でのコミュニケーションに支障を来す。残念ながら、髭剃りのオプションは私に付いていない。

 主人が呟いた。聞き取れない。マイクを集音に設定し、もう一度発声するよう促す。

「朗読を再生してくれないか」

「何の?」

「『着床しない月面』の、二八頁四行目から」

「いつものところか」

「そう」

 

その隔離された施設では、大勢の羊達が物静かな去勢を受けていた。

欠片もなくなった前時代の裸婦像の絵画達。

消去法によって延々と続く廊下に置き去りにされた。

 

羊達の暴走だ。

羊達の暴走によって、交換は存在しなくなり、月の表側には――

誰一人漂着することは出来なくなった。

棺桶の中身を開いてみるがいい。

私の可愛い息子達よ。

そこには死に畏怖することが出来なくなった、愛の奴隷達が(ひしめ)めき合っている!

恐ろしい!

 

高書架も、銀河も、雅楽も、女児の膣の締め付けに叶わないというのなら。

私は喜んでこの腕と陰茎を切り落として豚に食わせよう。

 

まなこを開いて、こころを閉じろ。私達はいない。

少女が珈琲を零したとき、世界が沈黙するように出来ている。

愛など、要らないのだ。

だからこそ私は流そう。

気狂い達の、激流を留めるために。鋼鉄の鎧に、百足を放つのだ。

 

 ――再生を聴き終える前に、主人は高速機に乗り込んだ。ステップを踏む際、車椅子を押し込む腕力が最近弱くなってきている。

 プロペラが、回転を始めた。

 

 

Betty Schultz

Café monkey dinning

 

 

 二日後。私はカサイの指定したカフェに来ていた。余剰分の蓄電により稼動させた発電機で、すべての電源を賄う軽食店。永劫機関と格好つけたいところだが、残念ながらこの程度の設備では、稼働分確り摩耗する。完全に擦り切れていつか電気が落ちれば、ここもそれで終わりだ。アザゼルのヒットの数年後、やっと市販化に漕ぎ着けた非戦闘用ロボット家電<パブロイド>達がひっそりと注文を待っている。店内BGMすらなく、互いに押し黙ると本当に埃の舞う音が聞こえる。

「ここって、マスターはもう棺入ったの?」

「さあね。計算する気も起きないが、パブロイドの型からするに、向こう十年くらいは持つんじゃないか。ここがどれくらいの蓄電量貰ってて、ついでに自分でどこまで溜められたのかは知らんけどな」

 聞いてないことまで喋ったカサイはカフェラテを啜り、私も一口含んだ。ホットを頼んだのに温かさが足りない。イクスプローラに少しでも携わった者ならわかるだろうけれど、こんな感情、偽物に過ぎない。とにかく、分煙運動が何年も持たなかったことは本当に嬉しかった。ペルメルの当たり障りの無い味を仕方なく楽しみながら、私とカサイは架空の嫌煙家共にケムリを吐き捨て、本題に入る。

「四名、同じような要件で監察官もしくは<>で親しかった人に通話要請を送ってる」

 床。地上、こちら側の世界という意味だ。言い得て妙というわけでもないが、別に不服がある呼び名でもない。セカンド・ワールドなどという安直な呼び名よりいくらかマシなだけだ。

「四人だけ?」

「そう……しかもな、全員ブルックリン支部の管轄下だ。一人なんか笑えるぜ。抜いてもヤッてもまだ足りない気がするってよ……俺達はなんだ、神様もアッと驚く最新技術でもって、お猿さんのご機嫌を取ってたのか」

 カサイはヘラヘラと笑ったが、内心は相当にザラザラしている。私もそうだ。

 子を作らない性交は罪だとか、即身仏こそ悟りの境地だ、とか色々とストイックな物好きは、棺広場の基礎概念が生まれた当時からまだまだ世界中にゴロゴロといた。だが、結局のところイクスプローラの提示する至上の楽園には叶わなかったようだ。

 前頭葉の未詳領域に、人間の最後の神秘に、電極が入り込んだ。それはつまり、棺桶の中で眠る際に見る夢を、臨床体自身がそれぞれ完全にコントロール出来るようになったことを意味した。睡眠は既に取っている――勿論眠りの中で更に眠るということも出来るが――からいいとして、食欲、口に含む動作、胃に下る流れ、力むことによって排泄といったプロセスの感覚も脳が望めば配信される。その他、獲得、保存、秩序、保持、解明、自立、対立、攻撃……ありとあらゆる欲、煩悩に対応している。望めば得られる。思い込めれば。

 人々を惹きつけたのは、三大欲求の完全解消だ。脳が求めて、再生する思い思いの相手を、イクスプローラは所有する数多のモデリング・ファイルから最も近い物を抽出、場合によっては新しいモデルをその都度合成、創造し、セックスの相手をさせることが出来る。

 当たり前の話だ。性欲が無い王国なんて、何処の公典にも載っていない。自分の好きな娘との夢を見て、しょっちゅう夢精出来る毎日。桃源郷(イクスプローラ)の第一次一般公開受付時に、殺到した統計をザッと見返すと女性の方が割合的に多かったのだから面白い。

「何か気に食わないなあ」

「彼氏が思いの外変態だって知って? 女学生かよ。バカか」

「そうじゃない――大体貴方は不具合だと思わないの」

「ポンコツなのはいつだって人間の方じゃないか。アナログ女。よくうちに就職できたな」

 イクスプローラは何をしている?

 永遠のタームだった死ですら排除した鋭く冷たい叡智の結晶が、人の(さが)如きに悪戦苦闘するだなんて不恰好じゃないか。二進法では情欲の受け皿になれないというのか。

 私はキレンと話したくなってきた。

 何が足りないのか。何が、足りないのか。

 私では、貴方の脳内に棲んでいる私の身体では、貴方はもう満足できないのか。

「嫌になってきた」

「は?」

「探すわ。小型機動かせるパブロイド貸して」

 カサイは眼を見開いて、一秒止まった。

「――棺広場、巡るのか?」

「仮に何ひとつ収穫がなくてもね。居ても立ってもいられないじゃない。バグならそれでいいし」

 小馬鹿にされるかと思ったが、寧ろカサイの眼には火が灯ったようだ。根っからのマグロ……いや、クールじゃないことは前から知ってはいたけれど。

「そういうとこ、嫌いじゃない」

「でしょう。嫉妬する女は昔から怖いから」

「昔、俺の国の教科書にも載ってた。蝋燭消しながら皆で話を持ち寄って披露するんだ。おっそろしいお面が爺さん家に飾ってある」

 私達はほくそ笑みながら、パブロイドにもう一杯、ブレンドを頼んだ。

 

 

ヴェルヴェット・ポート十二番ゲート

 

 

 プロペラが回転を始めた。

 小型機に乗り込んだ私はシートベルトを締め、煙草に火を点けた。離陸時の身体が浮かぶ感覚が、私はあまり好きではない。

「バニー。何時間で着きそう?」

「一時間とかからない」

 不細工で頼り甲斐のないフェイスをしたカサイのパブロイドは、機内サービスのひとつとして私に説明するつもりはないようだ。気の利かないAIだ。カサイの脳モデルから作ったものではないだろう。

「主人からの通信だ」

「え? カサイのこと?」

「そう」

 パブロイドに主人と呼ばせているとは……初期設定そのまま。大通り(ブールバード)で呼ばれたら、その場でパブロイドの電源を蹴落とすくらい恥ずかしいものだ。

「繋いだ?」

 ノイズが少し入る。GPSが死んでからというもの、小型機内から電波を送受信する際、前時代的な雑音がしばし入るようになってしまった。耳に悪い。肺の調子は心配しなくせに。

 カサイの声が聞こえてきた。

「――生きてる? てかベティ、高所恐怖症って言ってなかったか」

「鼠と、無益なお喋りばかりする男以外は大抵平気よ、私」

「奇遇だ。俺も猫と煙草臭い女は苦手でね」

 時刻は深夜二時。こんな時間までカサイが私のために、資料を集めてくれていた。礼は口に出さない。実は世話焼きな性格なのも、彼の好評価を支えている。

「オフだってのに丸一日高書架の御資料様と睨めっこだったよ。紙魚が眼に沁みたね」

 電子ノートなんぞ虫でも食べるか。つまらない洒落は寝不足のせいということで流す。

「私も同じようなものよ。旅行先で齧った程度の知識でも、結構飛んでくれるものね」

「前の持ち主の使い方が良かったんだよ。俺がスクラップ寄越したみたいな言い方すんな」

「はやく本題に入ってよ」

 こんにゃろ……という小声。

「まあ、いいか。それっぽいのを見つけた。誰が書いたと思う」

「検討もつかない」

「オリジンだよ。イクスプローラの。棺広場の提唱者、ジョン・イーガン。俺達が足向けて眠れない唯一の先生だ」

 私は驚いた。世界史の人物の銘が入った刀を、家の蔵で見つけた気分だ。カサイはそう表現した。

「益虫の存在を確立させたのは、イタリア人学者のサミューだが、それ以前にイーガンは既に違う視点から益虫らしき構想にアプローチしてたみたいなんだ」

 それを聞いて、更に驚いた。

「どういうこと? まだ本体のモジュールも出来てないうちから、駆動後のバグ修正ファイルの中身を考えてたってことよね」

「先見の明というよりも、未来から来た男のレベルだ。発想が気違いじみてる」

 イーガンが第一線で活躍していた頃、世論はこれ以上ないほど揺れていた。イクスプローラ関係の書籍は検閲にかけられ、ありとあらゆる実験がブラックボックスの中で行われた。脳味噌に針を刺して、永遠にゴーストとして生きられる社会。その発表だけでも世間を激震させるには十分過ぎるほどだった。そこに、脳にちゃんとした夢を見られるような安定剤の配合すらも考えていただなんて、当時のマスコミと棺広場反対論者達が聞いたら、マッド・サイエンティストどもめ! と発狂してもらえたことだろう。

「俺からすれば、こうやって公に読めたこと自体が奇跡に思えてくるね」

「それで何書いたのよ?」

「小説さ。上手いことやる。今読んでみると検閲されないギリギリの表現使ってるし、大手と契約して出してないから高書架に埋もれるに収まったって感じだ。ようはイクスプローラ関係者がイクスプローラを否定する論文を発表できるわけもなく、敢えて小説という体裁を取ったって感じだな。『着床しない月面』ってタイトルだ。テキスト形式にして送っとくから、そいつは後で見てくれればいい。俺がピックアップしたいのはね、その中に出てくる<Master Plan>ってフレーズだ」

 マスタープラン。基本計画?

「小説内のメタファーとかファクターってわけじゃない。裏も取れたんだぜ。彼は自身の論文の中で、それを説明しようとしてる。最も、凄く当たり障りの無い抽象的な話だが」

「それでも構わないわ」

 私は知らず知らずのうちに、手に汗を握っていた。

「数百年も昔の人に、自分の悩みを当てられるなんて妙な体験ね」

 カサイの溜息とも咳払いとも取れる変な声が、ノイズと共に耳に届いた。汗に気づいて私は手の甲で額を拭う。

「その小説の中でも、読んだ論文の中でもそうなんだが、イーガンは最初期の人間でありながら、臨床体がいずれ自らの欲に飲み込まれていくことを指摘してるんだよ」

 私は少しだけ怖くなって語気を荒らげた。煙草は、もう手先まで来ている。

「り、理想社会を謳ってきたじゃない。あそこは、脳が再生できる何もかもが叶えられる空間じゃないの? 配線、接続、計算? モジュールが悪いの? システムが狂ってるの? 木材じゃないんだから寿命なんか来ないのよ。電気も尽きないの。完璧な庭のはずじゃない――刺激が足りないんだったら、益虫飲まして騙してやればいいじゃないの」

「そう、それなんだが……」

 カサイは歯切れの悪い声を漏らした。さっきとは打って変わって声音に勢いがない。そして申し訳なさそうに彼はとてつもないことを教えてくれた。

「軽いヤツだが、益虫。あいつに、ね。試験的に」

 私は、一瞬彼の言っていることが理解出来なかった。

「え……そ、それって」

「もう言っちまうけどさ、キレンに益虫流したんだが、やっこさんの症状、悪化しやがった」

 

 激昂をどうにか抑え、無理矢理キレンに接続させた。泣き崩れてダメになったマスカラを心配する少女の気持ちで、深呼吸した後、薄膜ビジョンを立ち上げる。

 キレンは渋々といった形で応答した。ビジョンに映る身なりは何一つ変わってはいないが、私も彼も画像データを更新していないだけで、実際にキレンが顔と身体を持っていた時ならもっとやつれて見えたことだろう。

「刺激の度数を上げたんだけど、まだ効かないの?」

 キレンは嫌そうに答えた。自分の性生活についてあっけらかんと喋れと言われても、素直にはなれないだろうけれど。

「いや、効いてる感じはするんだよ。実際イク時、ズキンと来るし……でもなんかね、寂しいっつうか虚しいっつうか」

「負い目なんか気にしないで、いくらでも好きにしていいんだからね?」

「勿論君をずっと相手にしてるんだ……何なんだよ、まったく、ああもう」

 物凄く哀れな発言が響いた。私のすべてを否定されたような感じがして、気が滅入った。でも、遥かに恥ずかしいのはキレンの方だ。それは確かで。

「益虫、もう打たないでよ。癖になる。その割に、微妙なんだ。ごめん」

 そういってキレンは通信を切った。すぐさまカサイに助けを求めようと回線を再接続しようとした自分に、無性に腹が立った。

 キレンに、会いたかった。

 

 

統一機構Brooklyn支部

 

 

 ブルックリンの空もやはり穏やかだった。遙か眼下、誰もいないスクランブルを猫か犬かが横切る。厭世派によって壊された街頭モニターの残骸を眺めながら、私は統一機構へのナビを入れたバニーから着陸準備を促される。もうその頃にはだいぶ落ち着いていて、簡素な夜食で眠くなっていたところだった。

 統一機構(アーカイヴス)は主要な各広場に併立している研究所の俗称で、棺広場の脳味噌にあたる。イクスプローラ内部からイクスプローラ自体を管理することが可能になってからというもの、基本的にチキンが多い職業学者連中は、政治家と目くそ鼻くそを笑うスピードでせかせかとベッドに入った。そんな彼等がどこか愛くるしい。私達みたいに、床からどうも離れられずにいる者達の方が、ずっと変人なのだ。

 ここブルックリン支部は州で言えばペンシルヴァニア、ニュージャージー、ロードアイランド等の棺広場も細かく管理している。茫漠と広がる田園と畑、牧場――イクスプローラが大量に買い叩いた平和なそれらの土地に、養分の一滴も絞れない鋼鉄の匣が突き刺さっている。

 統一機構屋上のポートに着陸しようとしたところ、向こう側から通信が入った。当然ではあるが、オニキスやドラグノフの改良モデルを携えたアザゼル達と、口を開けた迎撃ミサイルの発射台が視界に入る。物騒な社会――の名残である。いつだってシステムの残滓が、次のプロジェクトの腰を重くさせてきたのだ。

 相手側とネットワークが繋がる。

「チーフ・カサイの代理よ。道を開けなさい、木偶人形。あいつから通知来てるでしょ」

「コード確認中――完了するまで、ホヴァリングを要請する――完了した。全隊武装解除」

 どうしてこう軍事や兵站が絡むと、取り敢えず形式張ったものにしたがるのだろう。アザゼルにしろパブロイドにしろ、人間の作る人工知能というものは、マゾヒスティックな性格以外作れないのかもしれない。

 

 統一機構内部は、これまた当然だが閑散としていた。アザゼルが忙しそうに巡回している以外は、静謐そのものである。

「中央制御室は?」

「マネジメント・ルームのことでしょうか?」

 馬鹿丁寧なガイド用パブロイドに「呼び名は何でもいいの」と舌打ちをして、とっとと案内するようけしかけた。

 道中、私は煙草に火を点けようとしてふと思いたった。それとほぼ同時に、私は、館内の廊下においては全面禁煙であることをパブロイドに告げられた。勿論注意は無視し、疑問をぶつけてみる。

「一番最近ここに立ち寄った人間は?」

「あなたです」

 鉄屑にしてやる。

「私以外にってこと」

「ええ。∨と名乗る方が、一名」

「は?」

 ヴィー。たかがパブロイドにも本名を名乗らないところが、気障というか痛々しいというか……そこに詳しく突っ込まない人工知能(クソバカ)も流石だ。

「人相」

「口止めされています。この先の情報の提示には、パスコードの入力が必要になります」

「……そう」

 急に勤勉な態度を取るのは、コンピュータの最も苛立たしい点のひとつだ。

「……私はその人の友人なのよ。教えても構わないって言われてるわ」

「それ以上の情報の提示、もしくはそこに行き着く誘導尋問へと繋がる一切の会話はシャットアウトされています。そして、彼、とチーフ・カサイ代理様は仰りましたが、∨氏に関しての性別公開も私は行いません」

 私は遊ばれているのか?

 ∨とだけ名乗っておきながら、他の一切は黙るだなんて。来たことも含めて口を塞げばいいものを。

「気に食わないね」

「何か?」

「うるさい、木偶人形」

 AIに侮辱罪は適用されないだろう。

 

 中央――いや、マネジメント・ルームは少々煙草の香りが残っていた。謎の訪問者様も喫煙癖があるようで、随分前にここを経った研究者の中にヘビースモーカーが居た可能性も否めないとはいえ、私はちょっと安心した。初対面で、天気の話から始めなくて済むからだ。

 省電のため薄暗くなっている部屋で、私はガイドに換気を命令した。眼の前の定点カメラアーカイヴスをメインディスプレイに繋ぐが、棺広場が映るばかりで特に何も収穫はない。これだけ用意周到であれば恐らく指紋も取れないだろうし、取れたところで、どこで照合してもらえるだろう。

「そうだ。監視カメラは? 過去四週間分くらい」

「閲覧を禁止されております」

「……あんたに命令した∨って、どれくらい偉いの? あんたが従わなきゃいけない道理でもあるの?」

「情報の提示には、パスコードの入力が必要になります」

「くたばれ!」

 それ以上パブロイドは返して来なかった。その点は利口だ。私の沸点は人並みより低い。キレンと付き合っていた当時、相性の悪さを友人に指摘され通しだった。

 苛立ちを鎮めるために煙草に火を点けた。血管を詰まらせる――ペルメルの至って普通の味わいが、今の私にはとても物足りなかった。

 

 

Begbie Q-012

統一機構Rome支部

 

 

 臨床体ジル・ブラックスの経過報告。

 益虫のレベルを上げた際に、第二元脳波に決定的な乱れを発見した。修正モデムを構築するのに、旧時間計測でおよそ二時間と七分十二秒かかる。承認メッセージを流してみるが、主人からの反応はない。それとは別に、ジル・ブラックスに電子カウンセリングと、短期間の集中強制睡眠にかけることを強く勧めるアラート・メッセージも数時間前からトップディスプレイに表示した。一瞥して、すべてのタブに実行命令を出す主人。

「羊水に流れている水銀の調子はどうだ」

 主人が意外そうな顔をした。

「フルメタルの頭でも、文学するんだな」

「私の人工知能モジュールは中国人だが、互換ブレイニングには十二名のアルゼンチン人を用いている。恐らく彼らのうちに婉曲的な表現を好む輩がいたのだろう」

「ラテン系はあまり好きじゃない。お前の話がたまに酷く退屈なのはきっとそこから来てるんだろうね」

「私の話が退屈だという点が人工知能のモジュール達から来ているのではないかという推察だが、それは的外れだ。論拠が弱い」

 こういった返答をした時、主は「うるさいよ」か「木偶人形の癖に……」と毒づく。前者は次回からの発声音量を調節すれば済むのだが、後者はどうすべきか。第一、私のボディに広義の木材は使われていない。そこを指摘するか否か。

「しかし、イタリアくんだりまで来てジル婆さんの体調管理とは、ベグビーもハードワーカーだな」

「私の仕事量に関してなら問題はない。CPUの駆動率は現在平均四十二パーセントだ。最大のパフォーマンスを維持できている。仮に各地の統一機構と自宅に置いてきた据え置きのシステムとのネットワークを遮断しても、十二パーセントの余裕は見込める」

「そういうのは余裕とは呼ばないんだぜ。月休二日制じゃ、人間は働けないんだ」

「私は大丈夫だ。パブロイドは電池が切れるまで駆動できる。更なる省電を願いたいが」

 ローマの風には砂が混じっていた。窓の外には、砂にピシャピシャと鞭打たれる棺達の頭の先が映る。

 主は赤紫のサングラスをかけている。遥か昔に大流行したモデルだ。今でも眼球を守る為なら、すこぶる重宝する。しかし、ディスプレイを覗く時には、必要ないのではないだろうか。

 インストールはとっくに完了しているのだが、主は溜息を吐きつつ画面にへばりついていた。もう高速機の出発準備も出来ているというのに。

「惚れ惚れするよね、ほんとに。最初に考えた人間の顔を見てみたいよ」

「それは主人だ」

「わかってるさ。ベグビー、お前にはまだジョークのセンスが足りない」

「ならば新しい外付けドライバを挿してくれ」

 一瞬止まって、主がケラケラと笑った。車椅子が、ガタンと軋む。

「――主人。突然話題を変えてすまないが、あなたは追いかけられている」

 椅子の軋みと笑みが消えた。直後、とっておいた楽しみを前にする子どもの笑みが彼の顔に張り付いた。

「……主観を排して話してくれ」

 無理な注文だ。

「ブルックリン支部で、かのパブロイドに主人の素性を訊いた者がいる。我々のサインに気付いただろう」

「質問されたってことか」

「確認するまでもないが、あのパブロイドは∨とだけ話す」

「上出来だよ」

 心底楽しそうだ。主人は楽しそうに、かつ余裕なく笑う。

 

 

Betty Schultz

統一機構Brooklyn支部 東アンダーポート

 

 

 ペルメルは不味い。

 やはり気に食わなかった。通が好むという顔をしておきながら、その実何の変哲もなく辛い葉の味が。噛みしめたって沁みないし、深く吸い込んだって焼き付きもしない。まるで霞を食べているような――文字通りだ。

 ポートで行先も決めていない小型機の準備をしていると、カサイから通信が来た。随分久し振りに思えるが、考えてみればたかだか四時間振りだ。機内で仮眠を取っているとはいえ、そろそろベッドが恋しくなってきたと瞼が訴えている。

 時刻は午前一時。ポートを包み込む夜空の青さが、嫌らしいほど眼に染みる。化粧などとっくの昔に落とした。顔を見せる相手なんてバニーしかいない。

「何かわかったの?」

 近くの機材に腰かけて端末をオープンにした。ダクトのすぐ真下なので、顔に空気がかかるが仕方がない。

 カサイの顔が映る。少々髭が伸びてきたようだ。

「イタリアだ」

「イタリア?」

「ローマ支部統括下の棺広場でな、緊急通信の記録を漁ったらビンゴ……結構ホット。二時間前だ」

 それは熱い。

「そこに行けって?」

「アテ、見つけてないだろ」

 人を小ばかにしなければ恩も売ることができないのか。こいつは。

「わかった。そうしてみる。どうせ門前払いだと思うけどね……」

「なんだよ。やっぱり収穫なしか。探偵の才能もないみたいだな。せっかく俺が根回ししてやったのに」

「ヴィー、だって」

「――は?」

「そんな名前の誰かがね、ちょっと前に来てたみたい」

 ここでカサイは沈黙した。どこぞの人工知能とかいう頓珍漢みたいに「では詳細な記録を要求しなかったのか?」とか聞いてこない分だけ、私は人間の方が好きだ。人間から生まれたものが人間を超えてくれないのは何故だろう。

「そういえば、個人で棺広場をやっている人間ってどうなったの」

 私はふと思った。余談、随分ご無沙汰だった。軽口は常とはいえ。

「ん、ああ……そういや一時期、取沙汰されてたやつね」

 国営の棺広場に不信感を抱いたり、もしくは宗教及び思想上の観点から、自ら棺桶を用意する連中も多い。

 彼らの大部分がイクスプローラの技術を安易にパクり、不用意に脳幹に管をブッ刺して集団で御陀仏するような者達ばかりだったので、恐怖心を煽るとしてこちら側も色々と策を練った。練ったのだが、結局のところ本業が忙しいのと、どこまで行ってもイタチごっこだったので、今となっては個人の自由という形に収まっている。

 世界警察の行方不明者リストが追い付かなかった時代もあったわけだ。手作りの棺桶の中でバグに蝕まれた永遠を待ち侘びる拉致被害者も、きっと何百では足りないのだろう。取り敢えず、祈っておく。

「で、それが?」

「いや、何でもないんだけどね……そうそう、キレンは?」

「不通。あいつに関しては、そろそろ本格的に治療してやんないと可哀想だな」

 キレンが、無機質に腰を振る私の身体に唾を垂らしているところを想像し、私は小さく歯軋りをした。

 端末をオープンにしたまま、行先を統一機構ローマ支部にセットした小型機に乗り込む。学生時代、史学演習でやった最初期のSNSは全然馴染めなかったが、こうして一度繋げた端末を中々切ろうとしない私には、実はあれにハマる才能があるのかもしれない。

「どうした?」

「私は案外寂しがり屋なのかもね」

 罵詈雑言辞典の隅から隅までの分ぐらいバカにされるかと思ったが、変な顔をしてカサイは煙草に火を点けた。

「……キレンほどじゃないだろ」

 

 彼も喫煙中か、煙を吐く音が聞こえてきた。誰も咎めなくなるから本数が増えるし、肺とも喉ともあと数週間で完全におさらばだ。脳に障害が出ない程度に沢山吸っておこうと思う。

「でさあ、イタリアで気をつけておくべきこととかある?」

「紫外線量の話でもしたいのかよ。十歳サバ読んでから言い直せ――そうだな。あの辺はワゴニストが溜まってるってことぐらいじゃないか」

「え、嘘?」

 ワゴニスト。これ以上ないほど浸透し、そして完璧にその体を表した蔑称だ。誰が言い始めたのか、もっとも定着してはいけない差別語ほど地球を駆け巡るスピードは速い。

「組織がな……大した規模じゃないんだが。統一機構の割と傍で吹き溜ってるらしい」

「アザゼルは何してんの?」

「さあ。木偶の坊に何期待してんだ。ちっと検索かけてみたら、どうもたまに小競り合いがあるが、死者は出てないみたいだな。もっとも、随分古いソースだから今はどうだか」

 つまるところが、売れ残り。イクスプローラがあわなかった人々。脳波、脳質、思想上、倫理感上、社会的云々。原因は多々あるにせよ、結果としてこちら側に残ることになった人間達のことだ。

「迷惑だこと」

「間違っても刺激すんなよ」

「勿論」

 あの戦争は酷かった。度重なるパッチテストの末、適応出来ない人間が存在するという事実が流布してしまった後、核爆弾のスイッチに指先が触れるところまで発展した。ナガサキ、ヒロシマのそれらまで至らなかったものの、当時プロトタイプだった合衆国のアザゼルがワゴニスト擁護主義の過激派を駆逐する様は、子ども達の奥歯を震えさせるには充分すぎる映像であった。PTSDが麻疹やおたふくの扱いを受ける時代が来てしまったわけだ。そうなっても大人達は、自分の入れる棺桶のサイズで殺し合っていたわけで。置き去りのベビーカー。あの時代の名画だ。

 害虫の扱いを受けるようになってしまったワゴニストだが、システムが完成して以来、噂する側の人間が片っ端から棺に入ってしまったこともあって、いまや不良ぶっても空回りという印象しか受けない。世界一可哀想な純粋悪。たかが似合いのお墓が見つからなかっただけだというのに。

「そういや、ベティ。あんたは平気なのか?」

「何が」

「俺らの世代も随分出ただろ。衛星放送、容赦しなかったからな。規制とクレームの網掻い潜って流して……ジャーナリストが一番かっこよかった頃の話だよ」

 私の精神は、別にキズモノではない。毎日流れる新鮮なグロ画像を、家族が寝静まってからいっぱい眺めた。それが一番の時事問題の勉強になった。

「通院歴訊いてるの? 失礼ね。大丈夫よ、肺以外健康そのもの」

 

 ローマの風は鋭い。

 ピザと脆弱軍人の街――法律で縛られた趣ある景観も、いまでは悲惨な虫食い状態だ。アンプラグドで演奏しているインディーズ・バンドを、ビアガーデンでキレンと見たのを思い出す。あのときはあのときでそれなりに感動したものだった。

 ブルックリンでもされた形式ばった認証を経て、私の船はポートに降り立った。耳を突き抜けるプロペラの轟音も今や慣れたものだ。似非感傷旅行における唯一の快感的瞬間である。

 カサイとの通信は暫くの間、遮断した。小型機内に端末も置いてきた。これでキレンもカサイも私とは連絡が取れない。たまには追い込むことも必要だろう。気まぐれだし少し寂しくなるが、多少は追い込まないと私は前進できない。勿論、根拠のない願掛けだ。

 

 それが、間違いだった。

 

「手を上げろ」

 頭に強くAKを押し付けられて、私は思わずウッとうなった。出不精の女研究所員に、鉛の塊の洗礼とは酷である。背筋に冷たいものが走る。マクロ・サーモグラフ・システムは常時オープンにしていたはずなのに……彼らが用意していたのは赤外線ジャマーだった。それも割と新しいモデル。設備投資が上手いのか、カサイの用意したこの小型機の性能が悪いのか、私の注意散漫か、もうなんだっていい。

 私が降りてきた瞬間にアザゼルに混じって急襲してきたのは全部で六名。全員英語で話しているが、訛りからしてアイリッシュが多いようだ。

「名前は?」

 汚い発音だ。身長こそ低いし、髪質も悪い。おまけに恐らく六人中唯一のイタリア人だ。しかし、物腰や周りの仕草から察するに彼がリーダーである。カサイほどではないが、目元のくっきりした二十代そこそこの美青年だ。頬の、浅黒い傷跡が目立っている。

「……ベティ・シュルツ」

「そう。ベティ――悪いがあなたは、部外者だ。確かにチーフ・カサイから連絡は来ているが、おいそれと通すわけには行かない――それも特にイクスプローラの関係者は」

 名も知らぬ年下の男性にネチネチと話されて、、不愉快極まりない

「統一機構は、いつからワゴニストのものになったの?」

 それを聞いてリーダーの眼が僅かばかり吊り上った。だが、何も言い返さない。

 むしろ激昂したのは、私にAKを突き付けている男の方だった。

「口を慎め! メスブタが!」

「黙れ、ジャック」

 男が吠えると同時にリーダーはピシャリと彼を戒める。私の頭が吹っ飛ばされないで良かった。あまり刺激するなよ――というカサイの有難いお言葉を今更反芻する。

「ホール、しかし……」

 ジャックの言葉を無視して、彼は顎でポート出口の方をしゃくる。

「連れてけ」

 再度、私の頭に銃口が当たった。

 

 統一機構の内部には、ご無沙汰していた生活感が溢れていた。

 マグカップから珈琲の湯気がもうもうと上がっている。生活臭なんて本当に懐かしい。部屋干しされているシャツの少々きつい匂いが、私の運ばれた部屋には充満していた。

 乱暴に放り出された。そして、間髪入れず質問。

「何故、ここに?」

 リーダーの態度は決して高圧的ではなかったが、私のことをカスにも満たない何かだと、軽視している節があった。思い知らせてやるつもりは全くないし、こんなところでわざわざ自分の首を絞めようと思うほど私は愚かな女ではない。物言いに多少腹は立つものの、その痩身と見れた顔に免じて許して――は、やれない。カサイに比べれば大したことない。

「気になることがあってね」

「何です?」

「マスタープランって知ってる?」

 彼は殆ど即答に近い形で首を横に振った。考える素振りくらい見せてくれてもいいでしょうに。

「今ね、棺広場の中で大変なことが起こってるの。貴方達なら何か知ってるんじゃないの?」

「残念ながら。電子関係の門外漢が集まってまして」

「カタカナ語で呼ばれてるくせに」

 ワゴニストという蔑称をちらつかせると、ほんの少しだけ頬をひくつかせるところが面白かった。これだけ浸透しても、まだ嫌うか。

「不具合ですか? よく言われる、バグというやつで?」

「さあね」

 これ以上イクスプローラの話で流しても無益なようだ。話題を変える。

「出迎えの割に――普段は退屈そうね。もっと脳筋な原理主義者ばかりだと思ってた」

「好意的に受け取っておきます」

「棺叩き壊したりさ、イクスプローラの研究者を拉致したり……そういうことはしないの? テロってそういう暴力が付き物じゃないのかしら」

 前時代、あの戦争を前後して似た事例はいくつもあった。八つ当たりもいいところだ。輪に入れないからといって、他人のおもちゃを壊すのは子どもでもやらない。

「反抗にも分別はあります。気に食わない呼び名を貰っているからといって、世界中を道連れにしようとは思っていません。多少のズレはありますが、皆静かにこの世界と添い遂げようと考えています」

「私に小銃突き付けといて?」

「アザゼルも、古いバージョンなら武装解除命令が出ていても構えはしますよ。言うなれば保険です。我々の生活を、邪魔しないで頂きたいが故の」

 そういってリーダーは眼鏡を薬指で上げる。

 何が保険だ。お前達のせいでどれだけプロジェクト・イクスプローラが滞ったか知っているのか。お前らが壊してきた棺のひとつひとつを積み上げたら、コネチカット州ぐらいの墓場が出来るんじゃないか。

「とはいえ、貴方に関してはもう何の問題はありません。先程こちらからチーフ・カサイに連絡を取りました。貴方のことよりも、我々がここを占拠……これでは語弊がありますね。住居として利用していることに周章狼狽していましたが、丁寧に説明すればわかってくれましたよ」

 かなり好意的に表現すれば、彼はユニークな含み笑いをこちらに向けた。十四歳で成長が止まったのだろう。精神も肉体も。

「世界警察は貴方達のこと、察知してるんでしょ」

「懐かしい響きですね。世界警察。万事を期して、この地域の担当所に間諜を仕込んだ時代が本当に懐かしい。蓋を開けてみれば、結局何の問題も起こしていない我々は、マークされる理由もなかったんですが。まあ、彼らの最後の一人が棺に入ってしまえば、最終的にはパブロイドとアザゼルと我々以外に、この星に残っている人型はいなくなりますがね」

 馬鹿馬鹿しい。理解できない。大体、最後の人類になってどうするのだ。アダムやイヴに憧れる人間はわかるが、その逆に何の面白みがある。

 彼の眼はどことなく澄んでいる。森を護る精霊の、純粋無垢な情愛に満ちた双眸だ。云ってやりたい。別にこの星はお前達のものじゃないんだ、と。

「――解放しましょう。どうせ大して弄ってません。好きなだけ見ていってください。棺の中身でも何でも」

 そういって彼はバニーを呼び、ここの統一機構の平面図データを渡した。それをまたご丁寧に貰い受けるバニーにも腹が立った。

「――最後にひとついいかしら」

「心配ご無用。女性用トイレもありますよ」

 なんて下品な男だ。

「貴方達を統括してるのは誰?」

 予想通り、沈黙が血走った。

 二の句を敢えて告げず、私は下唇をさすりながらバニーに入った平面図を展開する。割とよくある機構だ。ブルックリンより三階分低い。

「ここの指揮は私がとっていますが?」

 そんなにはっきり教えてもらえるとは、思ってもみなかった。

 

 ジロジロとねめつけてくるワゴニストを尻目に、私はマネジメント・ルームに向かった。ローマに来てから途端に喫煙の量が増えた。アドレナリンが暴れている証拠だ。詰まった煙が、私に何も考えるなと教えてくれている。

「バニー。何本目かしら?」

「何だ?」

「ここに入ってから」

「十二本だ。うち八本は平均より長く吸っている」

 箱を叩くように端末を弄り倒していると、突然メッセージが飛び込んできた。

 

Fxxk me Fxxk me… Rotterdamデマッテルヨ!」

 

 吐き気がする。

 私の追いかけている輩はド変態みたいだ。どうしてかは知らないが、青い下ネタが通じる相手だと、そう踏まれたことが本当に気に食わなかった。思わず画面を割りたくなった。

 意地の悪い趣味と言われ続けてきた私の年季が入った本気のハックを歯牙にもかけない。先方、どうやら逆探知が大嫌いのようだ。トップクラスのシークレット水準。戦前にも戦後にも、こんなに弾かれたのは、イクスプローラ上部にちょっかい出したときぐらいだ。

 オランダ。

 ソフト・ドラッグ塗れの乱交パーティーなら願い下げだ。とんだ気違いのエスコート。友達にも要らない。

 キレンとカサイに、土産で風車の写真でも撮って帰ろうかな、と考える。そんな呑気な思考が、まだ残っていたことに驚いた。

 

 ポートまでの数百メートル。

 視線を感じる。舌打ちしながら振り返ると、先程のAK野郎、ジャックがいた。不細工でガサツな顔だが、それを加味せずとも怒り心頭なのがわかる。

「謝れってこと?」

 立ち止まって、腰に手を当てる。喧嘩するつもりはさらさらない。しかし、彼らと握手するくらいなら下水でも飲めるだろう。

「取り消せばいい。俺達は、そんなクソみたいな呼び名を、許さないだけだ」

 一語一句噛んで含めるように言った。爆ぜる直前なんだろう。

「それって、何? ワゴニ――」

 殴られた。

 一気に間合いを詰められ、水月にストレート。顔面に一発。ついでに蹴り数発。息が詰まり、脳裡でパチパチと音がする。胃液が逆流するのが、わかった。痛い。痛……

 とどめの蹴りをまた腹に喰らい、私は床に手をついた。考えてみれば、異性に手を出されるのは初めてだった。私は、キレンをぶったことがあるのに。

 吐いた。喉がこじ開けられ、おずおずと水ゲロが垂れ落ちていった。引っ張られてもいないのに、抜けた長い髪の毛が浮かんでいる。子犬の内蔵みたいな、水ゲロだった。

 私は無感動なまま、吐瀉物を暫く眺めていた。涙体を汚れた袖で拭き、何度もえずいて咳き込みながら、私が顔を上げるともう彼はそこにいなかった。

 最後に一度ヒクッという返しがあり、残った胃液が申し訳なさそうに垂れる。口角が生温い。喉元が熱い。

 無性に悲しかった。

 廊下に空いた窓から、風が這入ってくる。ローマの風には、砂が混じっていた。

 

 煙草を咥え、通信回線を開き、シートベルトを締め、救急パックをバニーに持ってこさせると私はやっと息をつけた。いい年の大人が、惨めな経験をしたものだ。誰にも言いたくない。

 頬がヒリヒリと痛む。

「大丈夫か、ベティ? そこのゴミクズ共から通信が来たんだが……まさか統一機構に陣取ってるとはな。何やってたんだ世界警察は」

 カサイの調子は相変わらずだが、何となく額に一縷の汗が垂れているのはわかる。心配してくれる人がいる。単純に嬉しかった。

「捕まったけど取り敢えず平気。五体満足で……出てこれた」

「一番の吉報だよ。奴等、ワゴニスト同志以外はガン細胞か何かだと勘違いしてっからな。虎穴からよく這い出せたもんだ」

「お陰様で尻尾も掴んだよ。メッセージが来たの」

「それじゃ明日は槍が降るんだな」

「そんなことより早く隕石降って欲しいんだけど……」

 私はカサイに、オランダに誘われたことを告げた。

「デートの約束なんてレベルじゃないね。幼女釣る犯罪者だ」

「とんでもないわホント。人の上に立てるタイプじゃないわね」

「でも行くんだろ?」

 私が、当たり前よ。と返す前に、端末の方にロッテルダム統一機構へのナビデータが飛んできた。仕事がはやい。

「キレンは?」

「不通。てか今はそっちのこと探らせないでくれ」

 嫌な予感がよぎる。

「どういうことよ?」

「増えてるんだ。ブルックリンだけでなくイタリアも、あとぼちぼち他の支部でもな。やっとこさ上もバグかウィルスの線で調べ始めたっぽいぜ。だからさ、そっち方面の内職してると幹部会と連名会に痛くない腹を……だな」

 そんな深刻な問題になっているとは。それでもまず間違いなく被験者達には通達されないのだろうが。不安や懸念など俗世の概念、天国には必要ない。

「わかった。ありがとう」

「気をつけろよ。あんなやつらに、手折られる神経じゃないだろうけどよ」

 回線が切られる。

 口は小物臭い喋り方を演じてるのに、根っこは大らかで許容力のあるあのカサイですら、彼らのことを心底嫌っているのを再確認すると、あながち彼らの怒りや暴力も至極当然のように思えてきた。

 

 

Begbie Q-012

統一機構Rotterdum支部

 

 

 ロッテルダムテクノ(ガバ)を、聴きに来たわけじゃない。

 主は最初にそう言った。そんなことはわかっている。広大な港で黄昏るわけでも、誰もいないシャッター・ストリートと化した歩行者天国を冷やかしに来たわけでもないのだ。クソバカと罵られても、それ相応のテューリングには合格している。

 主はインストールを終わらせると、早々に小型機の離陸を準備させた。夜がゆっくりと白んでいく中、潮の香りと砂の粒が球体間接に混じる。そろそろメンテナンスが欲しいところだ。

「せっかちだな。やはり追いつかれたくないのか?」

「そうだね。ウサギの心地だ。草原で爆睡していたつもりじゃなかったんだが」

「それは? 何の話だ?」

「兎と亀だよ。知らないのか? イソップだよ」

「私のハードには記録されていない」

 そういうときは、浅学ですみません。とか言うんだよ。と主人は笑う。

「ジルは?」

「詳細な脳波データを出力するか?」

「お前の所見でいい」

「虫の息だ」

 ――ビッチめ。

 主はそう吐いて、私に車椅子を押させる。最も心配しているのは、彼に違いないというのに。

 

 

Betty Schultz

高速機内部

 

 

 雪の降る無人駅のホーム。あのとき、私の隣にはキレンがいた。

 同じ仮想モデル建設ゼミの履修者で、合宿の帰り、私は昨晩のパーティーで羽目を外しすぎ、知らず知らずのうちに置いてけぼりを食らった形だ。あのときの話をすると、キレンは寝坊したと言い張る。

 辺りにゲロを撒き散らしながら半分白目を剥いている私を一生懸命介抱してくれたらしい。微かに覚えている。あのときのそこはかとなく申し訳なかった気持ちを。

 穴埋めということで私が無理やり奢ったカフェで、教員の悪口と無知を言い合っているうちに意気投合。今まで付き合ってきた男は、私のヒステリーに合わせるように怒りをハウリングさせてきたので、こういうタイプの異性は初めてだった。正直恥ずかしさすらあった。

 どこに惹かれたのはわからない。成績も容姿もさほどではない。戦争の匂いがまだわだかまっていたあの時代だからこそ、心細かったから――誰でもよかったのかもしれない。でもあの雪の日にキレンが左手でさすってくれた背中は、この世界で一番あったかい場所だった。

 臆病で、自虐的で、陰湿な割に軽薄で、才能も努力も足りない。よく目が泳ぐ病弱なただの青年。イクスプローラに、私を差し置いてすぐ飛び込んだ彼に、彼に……

 

 触れると、頬が熱かった。

 きっと、あくびだろう。

 それでも、シートベルトがなければその場に崩れていた。

 

 

 

 ――どうやらまた眠ってしまっていたらしく、小型機はそろそろロッテルダムに着こうというところだった。

 背中が痛い。軽く伸びをしてみると、関節が悲鳴を上げた。

 不意にカサイに渡されたマスタープランのことを思い出した。小説という体を用い、益虫の限界を示した作品。らしいのだが、それはあくまでカサイの書評だ。自分で眼を通す必要がある。

 最新のダウンロード待ちファイルを開く。数キロバイトのテキストフォルダを展開した。

 ――着床しない、月面。

 

まなこを開いて、こころを閉じろ。私達はいない。

少女が珈琲を零したとき、世界が沈黙するように出来ている。

愛など、要らないのだ。

だからこそ私は流そう。

気狂い達の、激流を留めるために。鋼鉄の鎧に、百足を放つのだ。

 

計画のはじまりを知らせる鐘が高鳴る。

耳が痛い。気狂い共が、羊狩り。

網膜に張り付くセピア臭い性欲。

諸事情により端末という耳孔から虫の死骸が垂れ落ちた。

やがて、神々が情死するその日まで。

私の喘ぎは、酔狂としか見られなくなるのだ。

 

ところで戦争の調子はどうだ。もったいぶらずに打てばいい。

くだらないことに関しては他の追随を許さないこの世界で。

女神がデータ上の(ぬえ)に食い殺されてしまう運命にあるのだから。

もう今更気に病む要素もないであろう。安心して、打て。

ブラックアウトが楽しみだ。完璧な庭というのは、存在しない。

 

いや、待て!

そのために主人公は、いや語り手は毎度何かしらの手を打つじゃないか。

冗長で難解な独白は終わり。

しがらみと虫食いの酷い永遠を縫合するために、一人称が悩むわけであろう。

 

痛ましい。世界が(半ば無意識的に)私に頼み込んでいるのか?

ならば、やらないこともない。

些か唐突ではあるが、あるにはある。

感覚の鈍化、神経の麻痺、どこまで死に近づけば生を知ることができようか。

生かすだけなら私にも出来る。大切なのは、さっきかなぐり捨てた愛だった。

 

名付けるならば、マスタープランといこう。

世界を矯正する、いたって平凡な計画だ。

 

 どこもこんな調子だ。初見の感想は、私小説臭い癖に、無意味なほどナルシスティック。

併録している後世の学者の紀要なども合わせて読めば、マスタープランの概要は何となく伝わってくる。カサイの読解力が絶望的でなくて安心した。にしても、気に食わない文体だ。ペダンチックなだけで、すっからかん。飾り付け過ぎてパッサパサに乾燥している文体。

 小説に元気を吸われていると、通信が来た。カサイは欠伸から話し始めた。

「朗報だ。キレンから連絡だよ」

「……え、繋いで!」

「焦んなって」

 カサイの無駄口も耳に入らない。接続までの数分がじれったい。

 展開される。僅かに憔悴したような顔がディスプレイに映る。気のせいだ。イクスプローラに、そんな人情臭い部分など一バイトもこびりついていない。こびりついていて欲しくない。

「キレン?」

「正直、ヤバいね。こんなに気持ちは穏やかなのに、凄く気持ち悪いんだ。足りないものなんてないのにさあ、ベティだって、眼の前にいるってのに」

 一周して饒舌になっている。随分前、無理矢理呑ませたときにこんな具合になった。

「もう少しだから我慢してて」

「冗談じゃないって……こんな感覚始めてだ! すげえ苛々する……どうしようもないくらい気持ち悪くて……何もしたくないって、この感じ、ベティにはわかんないだろ?」

「わ、わかるわよ」

「どうしてだよ?」

「だって、私にも貴方に何も出来ないじゃない。歯痒いよ、そりゃあ……もう何日一緒に寝てないのさ」

「……そうじゃないんだよ。そういう感覚じゃ、ないんだって……いや、そうなんだけどさ」

 通信が切られた。

「キレン?」

 私は、膝の上で拳を握りしめる。下唇を、噛む。

 また大した話すら出来なかった。

 

「――キレンは?」

「――話したくないって、思ってるよ」

「そうか」

 ロッテルダムにはとっくに着いている。潮辛い風が窓から入り込んできた。温い。子午線を手折るように飛び交っているので、外の明暗で身体にスイッチを入れるしかない。オランダは、もうじき黎明だった。

「とんだ時期に倦怠期が来ちまったもんだな」

 キレンは、怒っていた。

 矛先を見誤っている怒気。

 きっと自分が下卑て見えて仕方ないのだろう。あの棺の中で猿に下ったキレンのことを、私はただひたすらに案じているだけだというのに。まだ、恐らく数百年後先も、愛してるはずなのに。

「月面は読んだか、ベティ?」

 典型的な話題のすり替え。泥沼に放り込まれた藁の船のような、とても縋りやすいカサイの優しさだった。

「まあ、そんな感じはするね。棺に虫を流すだの……全部は読んでないけれど」

「実はな、スープの底の高書架の他のイーガンの小説や論文、結構あるはずなんだが、軒並み占有書類扱いになってるんだよ。今日改めてチェックしたらパス求められたわ」

「――え? 読めないってこと?」

 カサイが眉を顰める音が、聞こえた気がする。

「それっぽいな。少なくとも俺のIDじゃ弾かれた」

「シグネイチャーは?」

「∨」

 窓枠をブン殴るところだった。

 ふざけている。ふざけている!

「なんだっていうの! ああ、もう!」

「落ち着きな、ベティ。欝ったり、キレたりじゃドーパミンが追いつかんぜ。煙草でも吸えよ」

 言われた通り、残り少ないペルメルを抜いた。何度も言うが、本当に気に食わない煙草だ。

 それでも紫煙は、私に思考の鈍化を与えてくれる。とても身体に悪い成分だけが、ストレッサーを脇に寄せてくれる。

「逆に考えろよ」

「――何故、『着床しない月面』だけ公開されてるかってこと?」

「追っかけて欲しいんだろ? 名無しの∨さんは」

 そしてこれだけ容易く術中にハマっているわけか。何だか自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。

「じゃあ、ロッテルダムにもサインが?」

「そう考えて問題ないんじゃないか」

 紫煙を再度深く吸込み、私はようやく沈思黙考に至った。もう戻りようがないのは事実なのだ。セクハラメールを打ってきている時点で、私の姿など爪の先まで監視されているに等しい。三十路前の女を双眼鏡でもってねめつけるなど、やっぱり筋金入りの変態のようだ。

 

 オランダ支部には、旧式のパブロイドしかいなかった。中には、音声認識機能すら危ないものもいて、自動メンテナンス型を導入していないとはオランダ人のズボラぶりには眼を見張るものがあるなとどうでもいい感心に浸っていた。私はそのうちの一体を引っ捕まえる。

「∨って人から伝言貰ってないかしら?」

 パブロイドはイエスを示す。その場で貰ってもよかったが、少しでも多く手がかりが欲しかったので、マネジメント・ルームまで足を運ぶ。歩いていて気付いたことは、ここも他と変わらない機構をしているんだなという、つまらない感想程度のものだった。

 マネジメント・ルームでは、ワゴニストに関する資料が散らかっていた。誰が読んでいたのか。指で表紙に触れてみる。埃が積まれていない。

「これだ」

 私の後ろにひっついてきていたパブロイドがディスプレイに数列を表示した。これは……通信回線のアドレス?

「電話しろって?」

「それ以上の伝言は貰っていない」

 私はしばし逡巡した。ワゴニストを揶揄した、ベストセラーのディストピア小説を小脇に抱えながら。昔、私が考えているときでさえ、キレンは横で爪を噛んでいた。はじめてのベッドでも、脇に座ってカリカリと噛んでいた。

 結局、私はその番号を端末にメモしてその場を去った。

 

「ということなんだけれど」

「それでなんで俺に通信してんだ」

 眠そうな声で私を非難するカサイは、ハイボールの氷をカラカラと言わせながら、とっとと通信しろと続けた。

「今更何を気にしてんだ。罠だろうとなんだろうと、足跡踏む以外に道はないだろ」

 当然のことを、普通に指摘された。

「チャットルームにして……通信するってのはどう?」

「俺も込みで話すのか? ――まあ、俺は構わないが、応答すると思うか?」

 私は返事を抜きにして、小型機の通信端末に番号を打ち込む。通話者1の横に、通話者2が表示される。フォーコールの後、先方から切られた。

「ホラ」

 カサイが得意そうに言った。

「ホラ、じゃないよ。偉そうに」

 しかし、前進したのは事実だ。気付けば、手汗をうっすらかいている。それはどうやら画面の向こうにも伝わってしまったようだ。

「気後れすんなよ。別に独裁者や、悪の枢軸と喋るわけじゃないんだ」

「なにそのダサい応援」

 カサイとの通信をクローズし、再度∨(と思われる者)にコールした。待ち構えていたかのように、コールがすぐ取られる。私は少し大きく息を吐いた。

「……もしもし」

 イヤフォンの向こうから、微かに音が響く。息遣いは、ない。この曲は……クラシックだろうか。

「おはよう、アリス」

「あなたが、∨?」

「兎を連れて気違いを追い掛けるのは楽しいか?」

 また面倒な、人種が。

「そうでもない、初めまして」

「ああ、どうも初めまして、本名を聴こう、嬢さん」

「名乗りたくないわ。とくに名無しの権兵衛さんには」

 クスリ、と向こうで笑う声がした。

「君が、うるさい小蝿で終わるか、私の木乃伊になってくれるか、どちらになるか楽しみなんだ」

「何の話?」

「論文は読んだかい?」

 ――まさか、そっちから話を振ってくれるとは。

「ああいう肩の凝る文体は嫌い」

「違いないな。文才はないよ、あの男に。とはいえ、君だって好きなもののひとつでもあるかね」

 何だか性格を見抜かれたみたいだ。概ね当たっているところが苛立たしい。

「悪かったわね。更年期のオバさんみたいで」

「そこまで言ってない。しかしね、先人の反抗には眼を見張るものがあるな。ジョン・イーガンのことだよ。この年になっても、彼から学べるものは沢山あるんだ。君と同じで、大嫌いな男だけどね」

 ∨の自分に酔っている語りがそろそろ疎ましくなってきたところで、私は煙草に火を点けた。同じタイミングで、向こうもライターをカチリと――いやらしい男だ。

「あなたはイーガンのシンパ? 今回の騒動も――棺に火つけて回ってんのもそういうことでしょ?」

「そういうこととは?」

「あの小説の模倣犯とか」

 間髪入れず高笑いが聞こえる。

「面白いこと言うなあ君は……いま嫌いだって云ったばかりじゃないか」

「あの理論は一体何なの? あなたの目的は? 統一機構で何してるの?」

「一度にいくつも質問しないでくれよ。そうだな……まず、あの理論に関しては、まさしく着床しない月面の通りさ。私の目的なんかどうでもいいじゃないか。言うなれば愛して欲しいだけだよ。人間の行動理念なんて大概がそれで片付く。統一機構で? 煙草でも吸いながら珈琲を飲んでいるよ!」

 突然の大声にイヤフォンを耳から外した。伸びやかな声は肥えた腹を連想させる。貫禄があるのはいいが、小回りの効かないデブが黒幕じゃ肩透かしもいいところだ。ましてやそれがド変態のスノビストだなんて鳥肌が立つ。

「最後に言っとくとね、別に私は連続放火がしたくて全国行脚しているわけじゃないんだよ」

「文字通りじゃないことくらい見ればわかるわ」

「私は愛の求道者なんだよ。棺広場にもね、ラブ・アンド・ピースが足りないんだ」

 そして通信が切られた。

 イヤフォンを外す。念の為、リダイアルをしてみると通信回線は既に先方から破棄されたらしく、不通を知らす虚しいSEが響く。耳が軽くなっても、あのベートーヴェンのアイネ・クライネ・ナハトムジークが、妙にこびりついて離れなかった。

 間髪入れず端末に送られてきたショートメールには「マクハリに来てみないか」とだけあった。

 

 

Begbie Q-012

高速機内部 太平洋上空

 

 

「いい女だったな。ああいう程良いヒステリーは張り合いがあって」

「理解出来ない」

「いいさ、ベグビー。従順なツレに(あぐ)んでるだけだ」

「悪かったな」

「おお、わかりやすい皮肉なら理解できるようになったか。いいぞ。そんな感じだ」

 高速機の整備不良を急いで直し、ロビーに戻ってきた途端これだ。主人が上機嫌なのは非常に喜ばしいが、対応の面倒な時がある。

 どうやら主人はあの女をいたく気に入ったようだ。幕張にも女の研究員が居たが、他人の話を聞かない喋り方がどうにも気に食わなかったらしい。その話は振ってこなかった。

 プレイヤーの再生リストが切り替わる。テクノ、クラシックの次はロカビリーだった。似合わない上にまとまりのない趣味をしている。しかし、省電のためには、もう少しばかり音量を下げておきたいのだが。蓄電を知らぬこの身、そろそろ充電が欲しい。

「報告がある」

「何だい」

「ジルが死んだ」

 ――沈黙。

 だが私の報告に対する相変わらずの、興味すらない――といった態度は崩さない。物臭な態度で煙草に火を点けた。隠しきってはいるが、内面は実にざわついていることだろう。

「厳密に言えば、<脳廃>だが」

「今日は代わりに線香でも吸おうか」

「喪失とは、一体どういう気分なんだ?」

「無粋な訊き方をするんだな。やっぱり、流石は電気信号の固まりだよ、お前は」

 魂が彼から漏れ出るのがわかる。プロジェクトは閉幕した。結局、彼もまた幾多の敗者に過ぎなかったわけだ。

「愛なんて犬の糞だ、ファッキン」

 

 

Betty Schultz

統一機構幕張支部

 

 

 幕張への小型機内にて……カサイからの通信。脊髄反射で受話器を取った。

「遂に犠牲者が出たぜ」

「今回の件で?」

「ジル・ブラックス。中々珍しい経歴の持ち主で、軍事会社の女性起業家だった女だ。世間が相変わらずイクスプローラ研究一色だった頃、片手間で独自の研究をしていた奴等の、パトロンを勤めて財を築いた」

 私はここで少し考える。

「犠牲者ってさ、確認するけど脳廃のこと?」

「そうだな。理論上は存在してたけどまさか本物が出るとはね。これは色々動きそうだな」

 脳廃。デジタル・スーサイド。

 益虫の理論を世間に知らしめたサミューが提唱していた、机上の空論。そう、机上の空論に過ぎなかったのだ。少なくとも、誰も実現するとは思わなかっただろう。

 益虫の投与が間に合わなかったり、セカンド・ワールドの羊水が肌に合わなかった人間が、自らシグナルを絶つこと。通常、イクスプローラ側から恒久的且つ断続的に信号を送り続けるので、個人が自ら意識を絶つことは不可能である。全世界規模の高性能妨害電波か――そんなバカな。たとえチャレンジしたとして、湖ほどの大きさのアンテナが要る。何か間違った信号を介し、イクスプローラに臨床体の状態を誤認させなければ、その前にまず自分の棺のスタンドアローン化に成功しなければ、自殺することは出来ない。

「……エラくダサい黒幕のネタバレね」

自然現象(バグ)じゃ有り得なくなったな。ついに」

 誰かが流しているのは間違いない。嘘の、オールグリーンを。

「ジルってやつの事実関係も、出来る限り探ってみる。お前は幕張に行ってみな」

「日本は過ごしやすい?」

「そろそろジメジメしてくる頃だ」

「代わりに帰省してよ」

 

 ――私は通信を切り、ふっと溜息を吐く。眠気が一周して嫌味なくらい冴えてきた瞼をこすりながら呟いた。

「……キレン」

 

 

 

 小型機を降り、緩やかに湿度を増してきた日本の夏を肌で感じた。統一機構幕張支部。ドームで囲われた特有の棺広場は、ブルックリンやロッテルダムと異なり、地下何層にも渡って棺桶が積み重ねられている。国土問題を乗り越えた、如何にも日本らしい造りだね。とジャパニーズ・フリークなキレンがカサイに向かって呟いていたのを思い出す。それこそ日本流に言えば、釈迦に説法と表現するのだろうか。

 外観は不恰好だが耐震の確りしている研究所で、私は本当に久し振りに生身の人間と会った。考えてみれば、煙草屋の婆さん以来だ。

「初めまして、連絡は受けてますよ。ええと、カサイさんですか?」

 少し根暗の匂いがするがいたって聡明そうな青年が迎え入れてくれた。端正なイギリス英語である。どこぞの極左アイリッシュに見習ってもらいたい。

「あ、いえ、それは連絡を入れた者で。私はベティ・シュルツと言います」

「そうですか……まあ、日本人には見えませんものね。失礼。僕は和泉卓也と申します。ここの研究員でして……」

 そして私は、耳を疑う。

「ワゴニストです」

 開いた口が塞がらない。剥き出しの脳を冷たい手でなでられた気分だ。あの嘔吐感が、ほんのりと込み上げてきた。

「突然驚かせてすみません。僕が言わずとも、彼女がバラしてしまうと思ったものですから……さ、とにかく中へどうぞ。安心して下さい。僕らはバールひとつ持ってませんから」

「は、はあ……」

 彼にバールで殴られるのは、屈強な男に鳩尾ストレートされるよりずっと嫌だ。

 

 眉毛が濃く、唇の薄い女性が私を出迎えた。白衣に所々沁みがあって、白髪も目立った。第一印象は最悪だったが、人のことをとやかく言えるコンディションと顔をしているわけではない。しかし、どこかで見たことのある……

「はじめまして、ニシグチと申します」

「え……、もしかして西口……来夏さんですか? 本当に?」

 そう。見覚えのある顔だったが、まさかあの西口来夏だとは思わなかった。表舞台から姿を消したかと思ったら、こんなところで珈琲を啜っていただなんて。元々メディアなどに露出するタイプではないから、イクスプローラ関係者の間だけでの評判だが、これはカサイに教えてやりたいほどの邂逅だ。

 足の折れかかった簡易テーブルの上の、大量の缶詰を退かしながら彼女は恭しくお辞儀をする。剃っていない口髭すら神々しく見えた。イクスプローラが産んだ時代の寵児。私の細胞はどんどん縮こまっていく。

「こちらこそ、あの、旧時間計測の論文読ませて頂きました。本当に素晴らしくて……私、その……」

 しどろもどろな私の肩に優しく手を置く主任。そしてそれを微笑みながら眺める和泉氏。時間が止まったかのように優しげな二人は、一度眼を交わして、どちらともなく席につくよう促した。偉人に出会えてふわふわとしている頭だったが、もたげた疑問が小煩いので、不躾だが訊いてみる。

「西口さんも、和泉さんも、大変失礼ですが、その」

「不適合者じゃないわ。自ら選んだの」

「ハナジロカマイルカに会うためですよね」

 私には理解できなかった。きっと二人の間の隠語か何かだろう。しかし、物好きな研究者だ。床を愛して無理心中に寄っていった仲間は私の周りに誰もいない。だけれど、幸せそうに口角を上げる青年が、キレンと被って仕方がなかった

 ――見苦しい嫉妬だ。この二人が妬ましいだなんて。

「ヴィンセントに、呼ばれたの?」

「ヴィ……まさか、∨は、ヴィンセント氏?」

「彼から、これから訪問する女の応対をして欲しいって頼まれたわ。幾度か会ったことがあるの。あの変態とはね……一体何の用事なんだか」

「主任とヴィニー氏の場合は、周りがくっつけたがってましたよね」

「そうそう、迷惑な話よね。お馬鹿さんの相手させられる私の身になってほしいわ」

 私を置いて進む物語。蚊帳の外の扱いに、甘んじるつもりは毛頭ない。

「……詳しく聞かせて下さい」

 

 神童、カート・デヴィッド・ヴィンセント。彼こそ、ダグラス・ジョン・イーガンの意思を継げる数少ない本物の天才だった。

 二十歳の誕生日に、イクスプローラ深部研究委員会――通称エル館に登用され、以来脳の腐食及び自律再生機能の研究と大容量蓄電技術の開発などを主にメキメキと頭角を表し、遂にはイクスプローラの最終開発管理権利<マスターキー>を授かるまでに至った。当時、まだ彼は三十にも届かなかった。しかし、脳髄と電力の研究が主だったヴィンセントと、旧時間と新時間の誤差修正を完璧なものとした西口氏とでつながりがあったとは、世界も狭いものだと思う。いや、一部の奇才が仕事を請負すぎているだけなのかもしれない。

 メディアを嫌う人間ではあったが、イーガンの直接の血を引いているということでマスコミが幾度か祭り上げようとした経緯はあった。本人はそれについて言及しなかったが、サラブレッドだとして敬意を抱く者と、七光りだと侮蔑する者で、彼の評価は二分されていった。まるでそれはドラマ仕立てだった。

 転機が訪れたのが三十二の時。ワゴニスト団体から資金援助を受けているという濡衣を着せられ、半ば追い立てられるように一線から退けられてしまった。黒い噂がさざなみ立った。要らぬ勘ぐりをしてしまうほどにあの退陣劇はあっさりしすぎていた。隠居――違う。逃亡に見えた。今思えば、らしくない終わり方だったように感じる。

 

「とはいえ、彼の退陣以外は私もさっぱりだわ。私達みたいな人が何するって、再就職するには……プライドが邪魔だものね。未練タラタラなまま独自の研究か機関の設立が、関の山なんだけれども。婚約こそしてないみたいだけど、昔ねえ、女を紹介されたわ。どうでもよかったから名前も顔も覚えてないけどさ」

 和泉氏が苦笑いを見せる。たとえ私が紹介されたとしても、きっと忘れていることだろう。

 あれほどのセキュリティだ。さるお方か腕に自信のある迷惑なギークかとは思っていた。しかし、まさか有名人を追いかけていたとは……何だか気持ち悪い話だ。西口主任の知り合いということは、連名会のナンバーは二桁に連なる。

「ヴィニー氏の噂は僕も主任から聞きましたよ。何でも現行の研究に違和感を覚えていたとか」

 それは初耳だ。私をクビにした幹部連のバーコード共を思い出して、気分が滅入った。

「それが退陣の理由って話もあったわね。彼ぐらいの頭になると気苦労も多いのかしら」

「彼はここに来たんですか?」

「来たわ。随分ご無沙汰だったけど、お腹だけ出ちゃって見苦しかったわね。長居してけばって言ったけど、気が変わったからいいって」

「気が変わった?」

「敗けたって言ってたわ」

 ――何かがわかると思い、ここまで飛んできた。もはや濃くなり、薄くなったりする。ヴィンセントという巨像だけが、ぼんやりと霧の向こうに現れ始めた。

 

 私は和泉氏と西口氏に何度も礼をし、高速機のエンジンを入れた。ショートメールを確認し、「最後……ブルックリンで落ち合おうじゃないか」というメッセージを見て、舌打ちをした。追っかけを振り回すのは有名人の常かもしれないが、私は貴方のファンなどではない。大麻を摘発する警官のようなものだ。

 そこで通信。言うまでもなくカサイからだ。西口来夏に出会えたことを自慢してやろうかと思ったが、私は彼からの言葉に絶句せずにはいられなかった。

「キレンが、脳廃したよ」

 

 あまりに意味が分からず、私は「キレンに繋いで」と頼みそうになった。それも普通の調子で。キレンに何か机の上のものを取って欲しいときに言うそのぐらいの調子で。カサイに何を伝えようか忘れてしまった。カサイが何を言っているのかもよくわからなかった。そこで私はもう一度「キレンに繋いで」と頼みそうになり、あまりの気持ち悪さから腹の底から突き上がる悲しみに溺れそうになった。喉が、情けなく震え始めた。

「落ち着け、ベティ。落ち着け。なあ、仕方なかったんだ。きっと新手の電子ドラッグか、重大なバグがあって……」

 いかにキレンの死がこれからの研究に活かされるものなのか、その可能性をカサイは焦るように捲し立ててくれたが、涙腺が緩まぬようシートに深く爪を立てているだけの私の耳には何も入って来なかった。キレンの死から眼を背けることだけが、今の私が出来る唯一の追悼だった。自分勝手で、我儘な、どうしようもない追悼だった。

 その気持ちは、思うよりもずっと早く、ヴィンセントへの根拠のない恨みと、愛や欲情などという不確定でつまらないものへの蔑みに変わっていった。

 キレン・ジャックヴォルタという人間は、たかがバーチャルのセックスが気持ち良くないというそれだけのために、ベティ・シュルツを置いて生命を放棄した。ジルというどこぞの実業者が死んだときに、半ば覚悟していたことなのに、私は眩暈がするほどはっきりと動揺していた。

 そして極めつけは、一から十まですべてが棺の中での話だという、随分茶番染みた顛末にあった。嗚呼。なんてふざけた話なんだろうか――泣いてあげようにも、元々彼は死んでいたようなものだから。

 

 

Begbie Q-012

統一機構ブルックリン支部

 

 

「俺は、取り憑かれていただけなのかもしれないな」

 まるで臆病風に吹かれたように、寄る年波には勝てぬとぼやく老人のような口振りで、彼は柄にも無く回顧した。車椅子に乗った中年の男が言うのだ。私としては、主人にはもっと虚勢を、そう何処から沸いてくるのか不思議なほどの異常な虚勢を、いつまでも張っていて欲しかった。悪魔も気味悪がって逃げ出すような、底の知れぬ笑みを添えて。

「そろそろ、蓄電が切れる。省電モードを最終段階まで下げるので、発声システムを遮断させてもらう」

「そうか、すまなかったな。ベグビー。ハードワークすぎたろう」

「…………」

「いいさ、あとはヒステリックな女とダンスを踊るだけ。それで演目はラストだ。その辺で見ておいてくれ。出来れば、ジルと一緒に」

 油をさしていない車椅子の、キリキリ鳴る音を、私の聴覚センサーは受け取った。そしてそれが最後だった。まるで蝶の羽根が千切れる時の、誰にも聴こえない嫋やかな高音だっ

 

 

Betty Schultz

統一機構ブルックリン支部

 

 

「……大丈夫か」

 通信回線を開きっぱなしにして飛んでいたのに今気づいて、イヤフォン越し、突然のカサイの声に驚愕した。シートベルトが無ければ、転がり落ちるところだった。

「おいおい、本当にベティお前……」

「平気。驚いただけ」

 充血させた眼でディスプレイを睨みながら、私は何を言うか。

「無理すんなよ。それから一報だ。本格的に脳廃者が増えてきた。遂に幹部連が頭抱えだしたみたいだ」

 それはつまり、もうお前と連絡を取るのはおしまいにしておきたい、という意味だ。痛い腹を探られたくないという言葉を、本音として受け取れないほど愚かではない。それでなくとも、カサイにはずっと負んぶに抱っこだった。

「ありがとう、カサイ。キレンに宜しく」

「おう……じゃあな。気を付けろよ。終わったら連絡しな」

 あまりにもすんなりとまるでキレンとまだ通信が取れるというようなことを言ってしまって、私は回線を閉じてから数分間それに気付かなかった。気付いてしまった瞬間、私は強く強く唇を噛むことになった。

 キレンとのセックスのとき、彼がイけないことが何度かあった。緊張で強張ったペニスからは申し訳なさそうにカウパーが垂れ落ちてくるだけで、私はそれをするすると指になすりつけるばかりだった。彼の小さな手が大好きだった。ギザギザの爪を撫でるのも愛らしかった。ただ、どうしても彼がそそくさと棺に入ってしまった理由を、私は「臆病だから」というだけで片付けられずにいた。すべて、過去の話だ。

 

 

 小型機を降りる。ポートには人影と、私のものより一回りサイズの小さい小型機がひとつずつあった。

 近付くと――多少不用意だったかもしれない――それは車椅子に乗った男だとわかった。長く伸びた金髪を左右に流し、くたびれた眼とシャツを着た無害そうな小太りの中年だった。ノースダコタで農場を営む老夫婦にピザとおむつを配達するデイリーサービスに、こんな感じの男がいてもおかしくない。胸元に収まった煙草の銘柄は、残念ながら私のよく知らない銘柄だった。

 小型機の影がゆっくりと伸びる。ポートの端からはフレデリック国立スクウェアが覗け、九億を超える棺が私達の遥か眼下眠りふけっている。風が、強く吹いて私達の髪をさらった。ひゅうひゅう、と。

「はじめまして、ドクター・ヴィンセント」

「こちらこそ。名も知らぬお嬢さん」

「ベティ。ベティ・シュルツ」

「悪くない名前だ」

 ヴィンセントは一度だけ咳をして、大袈裟に手を広げ、話し始めた。私は、彼の震える唇だけを見ていた。

「何を訊きたい?」

「何が話したいの?」

「俺に話させるとは、割に酔狂なんだな、ベティは」

「いきなり名前で呼ぶとか、やっぱり貴方気持ち悪いわ――貴方も」

 

「流石、ワゴニストなだけはあるわね」

 

 不意打ちのつもりだったが、ヴィンセントは顎をさするだけで大したアクションを取ってはくれなかった。早々に奥の手を使ってしまった私は、ポケットの煙草に手が伸びてしまう。風は、相変わらず強く吹いていた。

「……賞賛してあげよう。そう、私はワゴニストだ。一流の研究者でありながら、天才と呼ばれていながら、誰よりもイクスプローラを知り尽くした私は――ワゴニストだったんだ」

 その演説じみた物言いに自嘲の哀れさは微塵も感じられない。本当に長いこと持病と付き合ってきた老婆が告白する一言の重さに、それは似ていた。

「初めて知ったときはどうだった?」

「立会の医師を殴ってしまった」

「可哀想」

「俺を差し置くな、ベティ」

 そのとき、私は、確かに彼に同情した。罪を感じない――縋るような、それでいて茶化しきったヴィンセントの瞳を見て。

 この不思議な感慨は、どこから生まれたんだ。ワゴニストなんていう劣等種、選ばれなかったその他大勢のモブ、舞台の隅のエキストラに。私ははっきりと情けを感じた。振り切るために頭を振る始末――寒気がする。

「教えてよ。マスタープランの正体」

 観念して、もうゲームは終わりとつまらなそうに切り出した。

「首吊り縄みたいなものだ。自らの性欲をコントロール出来なくなった脳髄を、永遠に鎮めてやるための起爆装置さ。欲情だけは解消できないということを予見していたイーガンは、それが始まった被験者に投与される益虫の数が一定以上蓄積された際――個人差こそあれ、脳廃へのスイッチが入るというシステムを考えておいたんだ。そこまではきっと想像がついただろう。ちなみに、それはイクスプローラのハードウェアのひとつになっている」

「貴方がインストールして回ってたんじゃ、なくて?」

 彼は面倒そうに指を二回振る。

「そう思われるだろうなと途中で気づいたさ。まあ、構わないが。マスタープランは、どこの統一機構にもプリインストールされている。ベーシック・システムにへばりついた癌だ。いや、最後の救いかもしれないね。きっとイーガン自身か、彼の論に触発された俺の先代の誰かが作ったのだろう。私は大嫌いだがね」

「……では貴方は何を?」

「いや、何。人生設計のミスを、正そうとしてただけだ」

 ワゴニストとしてのヴィンセント。彼の足跡。気にならないわけではない。ただ素直に拝聴するのが気に食わないだけで。

 彼は、珍しい銘柄の煙草に火を点け、開演の準備を始める。西の空では、夕陽が落ち行きながら揺れていた。

 

 ――イーガンの子孫として、英才教育を受けて育ってきた俺は、イクスプローラだけを眺めて幼少を過ごした。世界を救う巨大な棺の集合体が固まっていく様は、どんなテレビの英雄の雄姿よりも俺を喜ばせた。いつかあそこで俺は天才になるのだ。この血脈と無尽蔵に用意された先人達による知のデータベースは、俺を仕上げるためにある。そう教えられ、そう信じてひたすらに学びふけった。イーガンのような、誰もが知っている偉人に、本気でなれると盲信していたんだ。そして俺はマスターキーの椅子に着いたわけだ。誰もが賞賛した。何もかもを手中に収めた気がした。アメリカの――いや全世界の中心に居た気分だったさ。

 でも裏切られた。イクスプローラに。

 俺の才能と遺伝子をイクスプローラは気に入らなかったみたいだ。まさか棺桶に嫉妬されるとは思わなかったさ。当時はまだワゴニストなんていう言葉も定着し始めだったし、何より不名誉だとして身内が必死に隠した結果、ポストから落とされることはなかった。大体俺自身、イクスプローラ以外の道を歩む――そんな器用な生き方が出来る人間じゃなかったからな。折しも世界は熱狂的なまでにこのキャスケット・スクウェアにご執心なさっていたわけだし、今更どの面下げて窓拭きのアルバイトをしようっていうんだ。狂ったように、俺は研究に勤しんだ。勤しむしかなかったんだ。

 

「そして出会ったんだ。イーガンのマスタープランに」

 ここで彼は一息ついた。煙草の先が、あまり吸われていないにも関わらずどんどん短くなっていく。沈み込む太陽もそれにつられて、床に溶けてなくなっていく。私は眼を細めて、髪を撫でた。

「続けて」

「言われなくとも」

 

 ――後からしてみれば、図ったかのようなタイミングで先代のライノ博士が死んで、彼が占有していたイーガンの細かい論文、図書が降りてきた。幼少期から触れていた先達だから、今更得るものはないと思っていたが、初めてマスタープランを読んだときは、心が震えたもんだ。それはそうだ。他人(サミュー)が益虫を確立させる以前に、益虫に関するバグを修正する必要があるなんて文句を書き連ねてるんだから、ビビらないはずがない。強く惹かれた俺は、詳しく検証し他のものも当たり始めた。そこで俺は、イーガンが遥か昔に気付いていたとある思考実験に辿り着いたわけだ。

 

「それが、今回の事件のこと?」

「平たく言えばそうだが、まだその頃は確信じゃなかったさ。だが永遠のテーマと言われればそういう気がしないでもないだろ? 脳が映像を見るだけで、棺の中のセックスは果たして本物と感じられるのだろうか? バーチャルがリアルの代行を完璧にこなせるのか? 面白いじゃないか。事実、存在しない下半身は、机上のダッチワイフを求めて暴走するに至った。俺達は、血が出るまで自慰にふけるモンキーの苗床を作っていたんだ」

 私は再度唇を噛んだ。彼に気付かれないように、そっと。それでも、出来るだけ強く。涎を垂らして私を待っていたキレンを想像しながら。

「イクスプローラの映像解析技術がどうとか、前頭葉への直接刺激がどうとか、そういう技術的な話――生のセックスにどれだけ近づけるか。を突き詰めるのは、俺や昔の同僚、現場の奴らの仕事だ。そうではなく、この論を突き崩すのを早々に諦めたイーガンが、半ば禁止手として用意していたのが、マスタープランによる被験者側から自殺できるシステムだったわけだよ」

「どの代の誰が解禁して現実のシステムに組み込んだか、貴方が気付いたとき、それは既にイクスプローラの底にへばりついてたわけね」

「当然俺は抗議したさ。今のままで行けば必ず、フラストレーションが肥大化し、誰一人満足できない嘘だらけの楽園が出来上がるだけだ。棺の裏をひっくり返して見てみろと訴えた。でも聞く耳を持つ奴はいなかったさ。それはそうだ。イクスプローラ自体がタイムアップまでに完成するかどうかだというのに、今更基盤がどうのこうので、それに人員を裂け、だと? どうも連中には、俺のセリフが戯言に聞こえたみたいだ。ダーウィンの気持ちが良くわかったね」

 強いデジャブを感じる。イクスプローラに跨る巨大な闇――幹部連共の薄汚い顔が浮かんだ。彼等の眼前に存在するのは、メディアが祭り上げた、イクスプローラというハリボテの英雄を打ち立てること。いつからか、ただそれだけが独り歩きしていた。誰しもが、セカンド・ワールドさえ完成すれば、何もかもが救われると信じきっていた。

 

 ――全部投げ捨ててやったのは、その直後。ジル・ブラックスに出会ってからだ。戦中、PMCの女社長で荒稼ぎした金を、惚れ込んだ俺に注ぎ込んでくれると約束してくれた。成功者として立場を確立しておきながら、突然目標が消え失せたという点で俺達は何かが噛みあったんだと思う。おかげで踏ん切りがついた。

 イクスプローラに居ては、イクスプローラを作れない。

 飛び出してまで俺が作りたかったのは、棺広場だった。

 

 カサイとの余談を思い出す。

「個人で棺広場を作るなんて、正気の沙汰じゃないと思ってたけど、まさか当人に会えるなんてね。研究員代表として一発殴らせてくれないかしら」

「やめとけよ、弱いものいじめは。大した量じゃないから大目に見ろ。世界警察が半ば諦めたとはいえ、綱渡りの連続だった。金は湯水のように飛んでいったし、実験するために本物を持ち出すのは、まあ、大変だったさ。背に腹は代えられないとはこのことだよ」

「……まさか、ワゴニスト達に?」

「襲撃させた。マスターキーを弄んでいた日々に散々見飽きた、数多の機密と交換ということで」

 流石にここで彼の顔は歪んだ。過去の同僚を襲わせてまで。彼は自分の研究――いや、イーガンの言葉とイクスプローラの未来を盲信していたのだ。結果それが本物の研究自体を遅らせて、血が流れることになったとしても、彼には後ろめたく迷っている暇などなかったのだ。

「良い協定が出来たさ。殆ど形だけだが今でも続いてるところもある。大体俺だってワゴニストなんだぜ? 仲良くやれないはずがないだろ? そう思わないか、ベティ」

「一緒にしないで。私は棺に入れるの」

「同じ眼をしている」

「からかうな、変態」

 で、完成したわけだよ。とヴィンセントは続ける。

「沢山の犠牲は出た。そりゃあ個人じゃ失敗もあるさ。モルモットの調達に一番骨が折れたね」

 戦火に巻き込まれず、誘拐され出来損ないの棺に収められた可哀想な拉致被害者。リストに存在しない、あまりにも早すぎた埋葬で生まれたゾンビ。稀代のネクロマンサーは、車椅子の上で力なく笑っていた。死霊を傀儡し、作り上げたのはモディファイ・ファイルだった。

「でもおかげで、マスタープランを騙せるパッチが完成したんだ。それが二週間前の話だ」

「名前は?」

「付けてないさ。リマスタープランと、ジルは呼びたがってたね」

 私はここでもう一度だけ、彼にシンパシーを感じてしまった。

 ジル。ジル・ブラックスの話をするとき、彼はきっと私がキレンのことを話すときの眼ときっとよく似ているんだと思う。彼がどれだけの時間をジルと過ごしたかなど私には知る由もない。ただ、ジルが彼に放り投げた数えきれないほどの額の資本金と、キレンが私の背中に触れたときの温かさとの間に寸分の違いもないと、今の私なら言えるかもしれない。パブロイドの淹れたカフェラテが、到底辿り着けない世界の話だ。そんな話の出来る人が、まだ床にいたことが少しだけ嬉しかった。

「あとは、サンタクロースの気分で、彼女との約束を届けに――諸国漫遊だ」

「空っぽのプレゼントを」

「――やめろ。無粋だぞ」

 

 それでも私は、肩を慣らして煙草を潰すこの男に、まだ物悲しさのような憎悪を感じずにはいられなかった。同時に、取って付けたような浅い同情が、グイグイと育っていく音も私には聞こえてきた。遠く彼方、まだくすぶる紫煙を眩しそうに見つめながら、彼がポケットから拳銃を取り出しても――それを自身のこめかみに押し付けても――私は彼を好きにも嫌いにもなれずにいた。

「最後まで自分勝手なんだ。呆れる」

「ジルが居ないばかりか、これから誰かが手入れしやがるであろう楽園には、興味がないからね」

 震えるような声で彼は誰かの名前を呼んだ。彼は一筋の涙も零さず、膨らみかけた腹と頬を撫でた。そうすると彼は安心したように、ガタガタと鳴る自分の右腕と、迸る滝の汗を、彼が救おうとし尚且つ投げ捨ててきた死への恐怖を、抑えつけることができた。できたように、私には見えた。

「愛の同義語は尿道の痙攣だ。覚えとけ」

「気持ち悪いけど、まちがってないわ」

「浮気はしない性質なんだ。なるべく他の女には嫌われておきたい」

「あ、そういうところは嫌いじゃない」

 銃声が響いた。

 

 

フレデリック国立スクウェア 中央公園跡

 

 

 私は吐いている。

 カサイに背中をさすられながら、無様に幾度も吐いていた。吐くことに関しては、もしや私の右に出るものはいないかもしれない。キレンほどじゃないが、カサイも人の背中をさするのが上手かった。あったかい。

「……B級ホラーは得意なんだけどね」

「実際本物は俺も勘弁だ」

 あんなに飛び散るなんて、色々と卑怯だ。大して食べてないくせに吐いてばかりで、そろそろ本格的に気持ち悪くなってきた。

「……ジルと、ヴィンセントは約束してたんだろうな」

「えぉ」相槌とは呼べない何かが出る。

「それが臭い言葉なら契約でもいい。ジルがヴィンセントの研究内容を知らないわけがない。ということは、マスタープランの恐ろしさも知っていたはずだ。それでいながらジルは床に別れを告げた。彼女が恒久的に悪夢を見ずに済むよう、それだけを願ってヴィンセントは独立したんじゃないのか?」

「……ああ、そういうこと」

 ジルが彼の頬を撫でてから、棺に入るところを空想する。小指と小指を擦り合わせながら、必ず助けてね。と少女のようなセリフを言われるヴィンセントが、無性に羨ましかった。

「逝っちまった今となっちゃ、そのパッチがいつ効くのか……イーガンか、もしくはその子孫の誰かが更に上手でその時の為にリマスタープラン的なソフトのファイアウォールでも貼ってあったのか、ただ単にヴィンセントのミスで起動しなかったのかはわからないけどさ。端から聞くとサマにはなってるな、ヤツの生涯も」

 私は落ちきった夕陽の方を眩しそうに見つめる。もうとうに夜の帳は下りてしまったから、何も目に染みるものはないというのに。ポケットに触れる――彼のジャケットからくすねた――マスターキー。ヴィンセント、いや、ワゴニスト達の木乃伊として、私にもイクスプローラに噛み付く権利はある。彼の虚しき骸を見て、そんな考えなど何処かに消え去ってしまったし、果たしてこの鍵で一体何ができて、私が何をしようと思っているのかすらわからないのだが。

 盲信していたシステムの穴とか、キレンとの別れとか、まだ消化できずにいることが沢山ある。消化出来そうな気もしない。幹部会や研究室は、これから天才達の残した最低最悪の課題を処理しなければならない。カサイはこれからその職務に追われるだろうからいいが、私はもう思い出を数える以外にすることがないのだ。あの電力だけが膨大に余った誰もいないアパートで。酔狂な老婆から煙草をせしめながら。それは恐ろしいことだと、今の私にはそう断言できる。寂しさも、通り越すと恐ろしさが芽生えるのだ。

「――棺、入ろうかな」

 カサイは私の眼を覗き込むが、そうするのみで反論はしない。まるで他に何があろうといわんばかりだ。猫を撫でるような優しい声で、彼はそっぽを向きながら適当に返事をした。

「いいんじゃない」

「どうして」

「お前、キレンのこと待たせすぎだしな」

 その言葉は驚くほど真っ直ぐに、すとんと心の底に落ちてきた。二分うずくまって考えれば出てくるようなアンサーだ。数時間かかって解けなかったパズルを、一手で解かれてしまったときの口惜しさを感じた。

 私はどうにか嗚咽を抑え、視線を上げる。酸っぱい香りに慣れてしまった口を開けて、外気を思いっきり吸い込んだ。口臭えなあ、という軽口が聞こえる。暗闇に慣れた眼が捉えるのは、私の大好きだったものたちが横たわっている大嫌いな広場。

 棺が並んでいるのだ。

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