スィニラは煙草を好んだ。ぼくが生易しい言い方をやめるなら、彼女は煙草に寄生する一匹の類人猿でしかなかった。彼女はソレを唇に差し込み続けて、火を燈し続けた。その揺れる炎に、希望の光はなく、あるのは荒廃と緩和だけだった。咳込むのをしなければまだ、幸せそうに見えたかもしれない。彼女は、顔をしかめ、柱に寄り掛かりながら、時にはよだれを垂れ流して、煙草を吸った。彼女の咳は、軽かった……それはいかにも、彼女の魂が薄まっているといった風情で。ぼくは肉を彼女に買い与えては、それが腐るのを悲しく見守った。

 

 彼女が美味そうに口にするのは、軟水のミネラルウォーターただひとつだった。彼女が宅配させた段ボールは、崩れてもまだ、そこに崩壊を含んでいた。彼女は水に囲まれていても、それがまるで砂漠に残された一滴かのように、ゆるりと慎重に飲むのが常だった。喉があまりにも細いから、液体がそこの奥を垂れていくのがよくわかった。ボトルの底が天井を向いたままの体勢で、全てが口に入るのを、息を潜めて待つのだ。そして最後に、必ず吐いた。やはりそれも、魂の薄れた人間の出す音しか奏でることが出来ず、なんとも虚しく部屋に響くのだ。何も食べないから、彼女の流したそれは無臭で、ぼくにはそれがどうにも寂しい。砂糖水でも飲ませようものなら、わずかな力を振り絞ってヒステリーを起こしただろう。周りの人間はただ、彼女が透明になっていくのを、囲んで静かに見届けることしか出来ないのだった。

 

 ただし彼女は、だからといっても、その顔は非常に美しかった。

 

 表情がまるきり抜け落ちてからはむしろ、凄みが増し、鬼気迫るものと神々しさが彼女に絡み付いた。その姿は、もれなく他を圧倒した。髪を乱しても、服を汚しても、それらは聖痕のように彼女を引き立て、彼女自身を汚すことはなかった。人はただ、彼女の前で小さくため息をついた。

 

 彼女の部屋には家具がなく、色気の無い板張りの床に山積みの段ボールが乗るだけだった。細長い部屋は、日当たりがよく、彼女を乾かした。彼女は稀に、頭から水を被った。黒いコートも脱がずに、煙草すら置かずに、あくまで唐突に水浴びを開始した。ととと……というペットボトルから水が出て行く音を聞き付けて、いよいよ逝くのかとぼくが振り返ると、大概はそれだった。ぼくにはその行為が、止めるべきなのかもわからなくなっていた。痺れていた。

 

 彼女は最期の辺りには特に、意識を消した。咳込まなくなると大体は失神で、ぼくは彼女の言い付け通りに水を浴びせた。冷えないのかと尋ねても、彼女は煩そうに煙を吐き出して終わらせた。濡れた手で、倒れた姿勢で、煙草を摘まんで。

 

 ブロンドの髪がほとんど銀色にあせた頃に、彼女は死を恐れ始めた。煙草の量も減った。一本を大事に吸うようになったので、喫煙時間に変わりはなくとも、それは大きな意識の変化だった。幾度となく本当に死にかけても、常に堂々としていた彼女とは思えないほどだった。彼女は死を恐れるような台詞を吐く時、必ず決まり悪そうな顔を見せた。恥ずかしそうに、少し俯いて、言葉を紡いでいく彼女は、少女のようだった。次第に何かを棄てた顔付きになったが、それでも美しさは損なわれることがなかった。それにその頃には、二人にとって、彼女の美貌はさほど重要なものでもなくなっていて、彼女が手にしていたのは空のペットボトルだけだったのだ。

 

 彼女が幕を閉じた日の正午、彼女は申し訳なさそうにパンを食べた。煙草の箱を、ぼくに捨てさせた。一切れのパンを、ほんとうに僅かに、美味しそうに頬張ってから、軟水で流し込んだ。そしてぼくに礼を述べて、ぼくのこれからの権利について整理して、さらにはぼくにそっと微笑みかけた。弱々しく、死を罵り、彼女は旅立つ準備を整えた。

 

 彼女が初めて嫌な臭いを発したのは、それから二週間経ってからだった。それも愛そうとしたぼくは、無駄に彼女を抱きしめ腐らせた。ぼくは彼女を起こさないよう、静かに毎日を過ごした。咳のない分、ほんとうに静かだった。無音。蝿すらも部屋には寄り付かず、ぼくは大人しく床に寝そべった。床板に耳をあてると、腐敗の音が聞こえた気がした。彼女のどこまでを愛せば良いのだろうと、悩む事なく、祈るように全てを愛した。

 

 彼女の骨があまりに白くて、初めて目にした時は眩しいほどだった。繊細に曲線を描くそれは、滑らかで、彼女の美を肯定した。好きなだけ好きでいさせてくれた彼女を、ぼくは愛した。白いそれを、人差し指でつついた。生きるぼくがするのはそれだけだ。光が差し込む。まだ残っている肉が、照らされる。

 

 バクテリアか酸素か光かぼくか。何かが彼女の身体を蝕み続けた。でも骨だけは、輝きを失わないでくれよと、ぼくは……。

 

 ああスィニラ、愛していたのに。

 

<了>

 

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