校舎の裏に星が落ちるらしい。シュガーの島が浮かぶぬるいホットミルクを啜りながら、図書室の隅で藤田が言った。机上には小難しそうな本の山々が、彼の背丈ほどまで聳え立っている。訊くと、彼が積んだわけではないらしい。ミルクを冷まそうと離席していたら、気付いたときにはこうなっていたと、彼はまたミルクを啜って言う。
 藤田は語る。私をさとすように。
「ガレット・デ・ロワってお菓子をこどもの頃に食べたことがある。知ってる? 知らないならいいや。ああそうだ、星のはなしだったね。そうなんだ、星が落ちるんだ。俺は科学的なことはさっぱりだけど、知ってることは知ってるよ。今夜、あそこに星が落ちるんだ。どこの誰が何のために落とすのかは知らないけど、とにかく事実だ」
 藤田は私の目をじっと見つめて逸らさない。この本の砦から空の顔色はよく窺えない。彼の背後に引かれた星のカーテンが、彼と私とを外界から遮断しているのだ。いつの間にかシュガーの島が大陸になっている。藤田はだまって私の手を握る。私の潔癖症な布でぐるぐる巻きになった指たちを、まるで恋人のそれのように愛撫する。藤田はなにも喋らない。だから私も、なにも喋れない。
 ふいに知識の塔が崩れる音がした。まるで雪崩だ。止まることを知らず、次々と彼らは机から身投げしていく。やはり藤田は沈黙している。幸せそうに、けれどどこか悲しさを目に浮かべながら、彼は私の指を弄ぶ。時計のないこの部屋で、透明な時間だけが知らん顔で通り過ぎていく。藤田に星が落ちる様を見たいと言いたかったが、それは躊躇われた。愚鈍な私にはこの状況も好ましく思えた。冷めたミルクも、崩れ落ちた本も、自由のきかない私の指も、このままこの狭い部屋の中で藤田に愛されるのなら、と。星なんて落ちずに、同じ時間がつづく方が平和な結末になるのではないか、と。
「もう絵筆が握れないって聞いた」
 藤田の声が震える。伸ばしっぱなしの前髪が彼の表情を隠していて、砂糖のついた薄いくちびるが引きつっていることしか、今の私には分からない。藤田はつづける。
「あんなに綺麗……奇抜な魅力の絵を生み出せるこの指が、朽ちていくしかないなんて、俺には悲しくてならない。なあ、俺ピアノ弾けるんだ。でも別に好きってわけじゃないから、俺の指、お前にあげてもいい」
 そう語り彼は顔を上げた。どこからともなく聴こえる、いや、脳裏にフラッシュバックする、いつかの音楽室での音色。藤田はピアノも上手い。だけど私は藤田の指が奏でる音色を、特別魅力的だとは思わなかった。素人にも作れそうな、電子音で構築されたお手本のようだと思った。

 

「星が落ちたら」
 藤田の指がほどける。カーテンが取っ払われて、突き刺すような冷気が私たちの間に入り込む。遠くから鐘の音がする。風が急ぎ足で本の中身を踏み荒らす。雲が月を抱き締める。真夜中が目を覚ました。その中心にいたのは、藤田。
「今度はちゃんとあったかいホットミルクが飲みたい」
 藤田はいつも図書室でぬるいホットミルクに、これでもかって程シュガーを流し込んで飲むのが好きらしい。でもいつも図書室にいるくせに本のことは語らない。藤田は私の奇抜な絵が好きらしい。私に指を差し出せるほどに。藤田は星が落ちるのを待ち望んでいるらしい。たぶん、さっき言ってたガレット・デ・ロワというものを、もう一度食べたいのだろう。

 

「星が落ちたら」
 ごめんね藤田。私、それが何か知らないの。
「今度はアタリを引きたいなあ」
 星が落ちる夜。砂糖まみれのミルクが、声もあげずに泣いていた。

 

 

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