※

 

 ――レストレイドが容疑者の尻子玉を抜いている間、リーは二度目の昏睡状態から醒めた。サンドイッチで腹を満たした後、ニューヨークから持ってきたタイプライターを猛然と叩きながら、手を休める度、手許にあったコカインをちびちびとやっていたのだ。今度は多少酒のほうの分量をキツめにしたところ、面白い効果が現れた。

 時間の概念が溶け、あらゆる身体上の制約から開放される。タイプライターはひとりでに小説を打ち込み始める。リーは筋を追うことを止め、状況を整理することを止め、背景と同化する。脳内に広がる原風景だ。

 機械化された文明の鉄塔が崩落していき、人々がホルスターに入ったリボルバー拳銃の回転に飲み込まれていく小説を書いていた。活字がバラバラになり、意味から意味が剥奪されていく。これは以前、ベンゼドリンを大量に摂取しながら古新聞を読み込んでいったときの症状だ。リーは身の危険を感じ、感覚を遮断することに決めた。管理から逃れる必要がある。このままでは、視覚化されえぬ映像に飲み込まれ、自我を奪われるおそれがあった。リーは手許にあった雑誌の束から一冊抜き取り、適当に切って原稿に貼り付ける。ゴキブリ駆除業者のホモの少年が、衛星軌道上に現れたアメリカン・スーパースターにさらわれる話に挿入されたのは、地質学における新発見の論文であった。このふたつの出会いはリーを大変驚かせた。タイトルを付ける必要があるが、ためになることを言ってくれる旧友のアレンもケルアックも海の向こうだ。酷いものだ。いて欲しい時にいない友人など、ただの害悪だ!

 激昂したリーは、怒りを鎮めるためにベッドに這い寄ってしばしの仮眠を取る。血管が開き、そこから叡智とロンドンに立ち込める汚れた霧を吸い込んでいくのがわかった。

 神経を完全に開きながら見た悪夢は、文章化できない。これは読んではいけない類のもののような気がした。それは永遠に続くジャンキーたちの礼拝だ。捨てるには惜しかったが、イメージのハレーション自体は然程問題ではない。いくらでも量産できる。大事なのは管理することだ。自分と、宇宙を。

 数時間の惰眠から目覚めたリーは、あまりの気持ち悪さに、窓へ駆け寄って嘔吐した。驚くべきことに夜が明けようとしていた。俺は何日眠っていたんだ――? 身体を痙攣させながら吐きまくる俺のもとに、レストレイド警部が駆け寄った――

 

 ※

 

 この廃人をどうしようか、持て余している。レストレイドは頭を抱えた。

 起き抜けのハドスン夫人とともにリーを介抱し、部屋中に散乱する紙片の束と、転がる薬瓶から漏れる混ぜ物の酒も、眼を擦りながら片付けた。下宿に帰ってきた時点で時刻は二時を過ぎており、リーの様子だけ見たら、あとは自宅に戻ってベッドに身を放り投げるだけ。であったはずなのに。

 いますぐ本国に、突き返してやろうか。

 怒りのままにリーを窓から蹴落とさなかった理由は、ホームズへの多大な感謝と尊敬の念以外の何物でもない。遺言の間違いが見つかったら、詐称の罪で即日投獄してやってもまったく構わないとさえ思ってきた。都合の良い法律はないものか。

 こっちが靴底を擦り減らしながら聞き込みをして帰ってきたら、まさか薬物をヤリすぎてトリップしているとは思わなんだ。キ印がどうのと言われていたコスミンスキーよりも、遥かに身内のほうが狂っていた。

「ふう……片付きましたわ」

 ハドスン夫人が額の汗を拭き、もはやレストレイドにまで非難の視線を浴びせるかのように、一瞥をくれて去っていった。言葉を交わすのが馬鹿馬鹿しく感じられたのか。無理もない。窓辺に立ち、汚れたヘリを触らぬようにして、見えもしない星を眺める。

「嗚呼、シャーロック・ホームズ。助けてくれないか」

 寝息を立ててベッドに横たわるリーを見ながら、レストレイドは最後の願いを手紙に認める。宛先は――本当は迷惑をかけたくなかったのだが――ロンドン随一の名医だ。

 薄暗い下宿の部屋で松脂の燃える匂いを嗅ぎながら、懺悔(ざんげ)でもするかのように丁寧に、「ジョン・ワトスン氏へ」と書き付けた。

 

 

 

 悲痛な過去、終った関係。近況を伝える連絡ひとつ寄越さずに隠遁しているワトスン氏は、その物言わぬ態度から、すでに自分など忘れて去られているかと諦めていたレストレイドだが、それはどうも杞憂であったようだ。

 返事は、数日と待たず、すぐに来た。ワトスンの手紙は、古女房に改めて礼を云うような、気恥ずかしくも感謝のこもった温かい筆致であった。涙脆くなってきたのか、置かれている不憫(ふびん)な環境からか、どうにも涙腺が緩くなってしまった。

 手紙はこんな次第であった。朝靄立ち込める早朝、我慢できずに下宿の玄関先で封を開け、一気に読んだ。

 

拝啓

 どうもこういった畏まった手紙は苦手でしてね。根が軍人だから、実は大雑把なところが露呈してしまって恥ずかしいですよ。というわけで、早速本題に移らせて頂きますが、よろしいかな?

 今回の事件、イーストボーンの果てでひっそりとしている僕の耳にも届きました。そういった意味でも、僕なんぞを頼っていただいて大変光栄です。逃げるように郊外へ隠居したものだから、とっくに見放されたものだと思っていました。こうして連絡をしていただけるだけでも嬉しいものです。

 本職の刑事がこうして電報をくださるほどですから、相当に手強い相手なのでしょう。どうか打ち負かされぬよう。数々の事件を解決に導いたレストレイド氏ならば、きっと今度だってその例に漏れることはありませんでしょう。

 駄文を連ねるばかりですね。忙しい御身でしょう、お時間を取らせて申し訳ない。しかしながら、伝記作家に出来ることなどたかが知れています。私がロンドンへ向かったとて、どうして事件が好転しましょうか。折角のお便りですが、期待に応えるのは難しいようです。

 ――その代わりといっては何ですが、ひとつ提案を。

 ディオゲネス・クラブの門を叩いてみては、いかがかな。

 私の記憶が正しく、尚且つまだあそこで偏屈な兄君が帳簿を睨んでいるのであれば、たとえこれ以上の危機が訪れようとも、必ずや道を開く手助けをしてくれるものと信じます。厭世家(ミザントロープ)な割に文通は別腹のようで、まだ交流も続いておりますし、私からも声をかけておきましょう。

 では、お身体に気を付けて。親友ジョン・ワトスンより。

敬具

 

 いつの間にか回復していたリーが、レストレイドの肩越しに手紙を読んでいた。それに気付き、レストレイドは涙を拭う間もなく飛び上がって驚いた。リーは、口角を上げて不気味に笑う。

「Mに、会いに行くのか……?」

 

 人嫌いが集まる会員制の倶楽部――ディオゲネス・クラブに辿り着くのは、少々手こずる。

 一見様は場所はおろか存在すらも知れぬこの秘密組織は、とある私設図書館の地下に入り口を設けてある。乗合馬車の御者にチップを渡して、暗号を示せたものだけが、クラブのある通りへと運んでもらえるのだ。

 ホームズが遺してくれたメモと、ワトスン氏の口利きによって、難なく馬車に揺られることが出来たレストレイドとリーは、道中事件について語り合った。すでにリーは眠そうに瞼が半分閉じていた。

「……というわけだ。リー。ドクター・オストログとコスミンスキーはたしかに危ういところのある印象だったが、どちらもアリバイがあった。オストログは患者を診ていたし、コスミンスキーもクスリを使って寝ていた。どちらも第三者から、証言の裏は取れている」

 リーは鼻を鳴らし、頬を掻いた。

「では、犯行は不可能だろう……」

「確かにそうだが、逆に言えばアリバイを崩せれば、どちらもかなりの有力候補として上がる」

「逆に言う意味は? 簡単に崩れそうのか?」

「……いや、そういうわけではないが。だがしかし、オストログは曲がりなりにも医者だ。子宮泥棒には向いている」

 どうも調子が狂う。リーの口調は常に人を食っている。そもそもイーストエンドの連中の証言など当てにならないからな……と続けようとして、止めた。それでは自分が何をしに貧民窟に降りたのかわからなくなる。

「他には?」

「他に? ああ、特に目立つものはないさ……どっちも似たような部屋に済んでいるからね。窓のない襤褸アパートだった」

「いや、そうじゃない」

 リーは言葉を選ぶというか、思い出そうと両手で空を切った。

「その、共通項というのか、ふたりを結ぶものはなかったのか?」

「結ぶもの?」

 リーの言う通り、切り裂きジャックを単独犯としない説も根深いが、前科者の医者と精神病患者が共謀するとは考えにくい。

「気持ちは解らんでもないが、難しいところではないかね」

「何が?」

「いやだから、オストログとコスミンスキーの共犯と考えるのは、難しいだろう。節点がない」

 リーは虚を突かれたようだった。

「なるほど、流石は警部。そうも考えられるか……感心するね」

 今度はレストレイドが困惑する。

「いや、リー。君が共通項云々を持ち出してきたから、私はてっきり君がそう考えているものだと思ったんだがね」

「俺が? そういうわけじゃない……単なる思いつきだ」

 レストレイドはリーを評価しかけたことを悔やんだ。

「共通項か……そうだな、そう言えば連れて行った若いのがふたりともシェリングフォード・シリーズを読んでいたと……」

「シェリングフォード?」

 リーも喰い付いてきた。何だ、そんなに流行っているのか。

 シェリングフォード・シリーズというのは、大衆紙『ストランド・マガジン』に連載しているアーサー・コナン・ドイル卿による探偵小説(ディテクティブ・ノベル)だ。天才的な知能を持ったシェリングフォードという私立探偵が、次々と舞い込んでくる難事件を、快刀乱麻を断つように解決するというあらすじで、好事家の間でも評価が高い。登場する魅力的なキャラクターたちはすべて、著者の好意により、自由に自作に組み込んで構わないことになっている。これにより、プロ・アマ問わず多くの愛好家(シェリングフォーディアン)が、二次創作(パスティーシュ)を書いているのも、人気の秘密だ。

 作者のコナン・ドイルはケンブリッジ大で近代文学の客員教授をする傍ら、忙しい合間を縫って小説を編んでいる。現在までに単行本にして七作刊行されている。一度も原稿を落としたことがないというのだから、余程の速筆家なのだろう。成功者というのは膨大な努力と研鑽を惜しまないものだ。

 一方で、近年では作品により作風や文体にバラつきが出ており、固定化された評価が覆ろうかとしている、という意見もある。往年のファンも手厳しい。

 ――ウェストの話の後、急いで調べた付け焼刃の知識ではあるが、必要になるかは定かではない。所詮フィクション。シェリングフォードのような男は、現代のロンドンにはもういないのだ。レストレイドはまたしても述懐に嵌ってしまいそうになる。

「俺も読んださ。悪くない出来だ……そう、ロンドンに来たのは……そいつに会いたかったのもあるんだ。刺激が欲しいからね」

 リーはレストレイドの郷愁癖を無視して、無茶な夢を語り出した。そういえばこいつも小説家であった。芸術家という免罪符が、ここまで機能していない男も珍しい。

「作者のドイル卿は多忙だろう。数年は待つことになるぞ」

「時間は問題ではないさ……」

 本音なのが怖いところだ。「数年も刹那も変わらない」彼の言葉を代弁すると、「警部もわかってきたじゃないか、麻薬時間を……」と物騒なことを語りだす。どういう概念なのかは知らないし、知りたくもない。とにかく、一緒にするな。

 ――馬車がガタン、と揺れた。御者が顔を出し、着いたことを知らせる。レストレイドたちが馬車を降りると、燕尾服の老人がどこからともなく現れた。老人が帽子を取ると、見知った顔が現れた。

「レストレイド様。ようこそ、ディオゲネス・クラブへ。メラスで御座います」

 

 メラス氏は人嫌いのクラブに従事している割に、道中で様々なことを朗々と語っていた。クラブ自体も面会室までは喋っていいという規則があるから、別に違反しているわけではないそうだ。

 禁書架の一角から本棚を動かして地下へ降り、長い廊下を歩く。点々と設えられた灯りで、さして明るくも暗くもない。だが、均一でないから距離感が掴みづらい。まるで異界へと続くかのようだ。レストレイドはそこまでその道に明るくはないが、秘密結社の入社式を思わせると感じた。

 リーもまたぶつぶつと何かを口にしていたが、メラス氏のよく通る声のせいで、聴き取れなかった。

「ギリシャ語の通訳にまつわる事件は聴きましたかな、警部。あのときにホームズ様のお力添えがなければ、わたくしは大変な迷惑を被るところでした。本当にあの方はロンドン市民のことを第一に考え、正義の光のもとを歩み……」

「失礼、メラスさん。この廊下はいつまで続きますかな」

「もうじきでございますよ、警部」

 メラス氏の言葉通り、廊下は終わり、荘厳な扉がレストレイドたちを出迎えた。メラス氏は厳重にかかった鍵をてきぱきと開けた。開かれるとき、やや埃っぽい匂いが鼻についた。

 簡素な面会室では、少し肥えた紳士が、足を組み新聞を読みながらレストレイドたちを待っていた。その面立ちはどこか、有名人である彼の実弟に似ていた。顰め面を崩さずに、マイクロフト・ホームズはふたりを出迎える。

「こんな辺鄙(へんぴ)なところまでどうぞお越し下さった。レストレイド警部。わたしがマイクロフト・ホームズです。弟のような大それた芸当は出来ないが、あなた方のご足労に見合う努力を致しましょう」

「こちらこそ。かのマイクロフト氏にご意見を伺えるとは光栄です」

 断定的で気取り屋(スノビスト)の気がある喋り方は、血筋がなせるものなのか。彼こそがシャーロック・ホームズの実兄であり、この偏屈なクラブの発起人、マイクロフト・ホームズ、通称Mだ。いくつかの官庁で会計監査をする下級役人の身であるが、その明晰な頭脳にはホームズも脱帽するほどで、「活動的であれば自分より優秀な探偵になりえた」と生前のホームズは繰り返していた。彼そのものが国家である、とまで話すのだから相当なものである。

 メラス氏が用意した椅子にレストレイドとリーが腰掛けたのを確認して、マイクロフトはパイプに手を伸ばした。

「さて、助言と呼べるかはわかりませんが……」

 パイプを吹かし、間を作る。

「わたしはこの一連の事件を劇場型犯罪と呼びたい」

「聴き慣れませんな」

 そこで初めて、Mは僅かながら相好を崩した。

「そうでしょう。わたしの造語ですから。しかしながら、手前で云うのも何ですが、言い得て妙だと思いますよ」

「というと?」

「オペラを思い浮かべて欲しい。主役が犯人、脇役は警察、観客が市民という構図ですな。切り裂きジャックはセンセーショナルな事件を起こすことで、この一連の捕物帳をドラマチックに演出します。観客は刺激的な興行を目の当たりにしたときと同じく、誰かと物語を共有し、その噂の波紋は鼠算式に巷間へ広がっていくのです」

「はあ、確かにその通りですな。事実、ヤードの方にも『私がジャックだ』といういたずらが何件も寄せられている」

「ロンドンの貧民街という鬱屈した環境、近年急速に発達した報道、そして何より話題性の強い突飛な事件そのものが、このたちの悪い悲劇の公演を成り立たせているのです。愚かしいことですな」

 そのセリフの相手先は、ロンドン市民かヤードか、それとも両方か。

 マイクロフトは続ける。

「わたしとて、現場に足を運ぶ警察ほどに犯人の目星が付いているわけではない。それを適当に当てようとするのは不遜ですからな。しかし、注意を促すことはできる」

「注意……ですかな?」

「これまた、良い言葉が思いつかないのですが、言うなれば模倣犯というべきでしょうか」

 レストレイドは字面を思い浮かべる。模倣犯が正しいだろうか。

「恨みや辛みが根幹にない以上、事件が事件を産み付けます。この切り裂きジャックの凶行に影響を受けた未来の犯罪者が、新たに犯罪を起こす危険性があるというわけです。場合によっては、最初のジャック・ザ・リッパー以外はすべて、他者の犯行であってもおかしくはないですね」

「……なるほど」

「事実、切り裂きジャックのものとされておらず、且つ近い日時と場所で起きた殺人事件の多くは、子宮を取り出すような器用な真似をしていない、ただの滅多刺しも散見されている。模倣者が解剖学に精通していなかったことは明らかだ」

 何も共謀でなくとも、複数犯である線が完全に消えるわけではない、ということか。

 まるでレストレイドは、ホームズと話しているかのような錯覚を覚える。確かにホームズではあるが、ファーストネームが違う。

「のべつ幕無しに喋ってしまったが、して、そちらの御人は……?」

 マイクロフトが視線をリーにやる。リーがいつも通りの(しわが)れた声で自己紹介する。

「ああ、俺は……ビル・バロウズ。アメリカで小説を書いている。もっとも、数年ほどは帰ってないが。仲間からはリーだの、ゴーストだの呼ばれている。昔ちょっとツルんでたことがあって、今回の事件で直々にホームズから指名されてね……わざわざ英国までやって来たのさ……」

 リーとばかり呼んでいたから気付かなかったが、なかなかどうして妙なアダ名だ。何か逸話があるのか、それとも作家らしく自身の作品が由来か。

「ほほう、そうですか。弟も顔が広い。英国はどうでしょうか、ゴースト氏」

「臭い」

 一瞬の沈黙の後、マイクロフトは破顔する。

「でしょうな」

「タンジールや、グリニッジ・ヴィレッジとは違う。このにおいは嫌いじゃないがね……」

「数奇な考え方をお持ちなようだ。まあ、わたしとてコレラさえ気を付ければ住めないことはない。露西亜よりはマシでしょうな」

「あの辺はわからんね。人の顔をした機械が歩いていると聴いた」

「面白い話だ。雪に耐える機械ならば、わたしも興味があります」

「さしずめソフト・マシーンか」

 レストレイドは、さっぱり意味がわからない会話を続けるふたりを、止めてよいものか迷っていた。

 

 その後もいくつか質疑応答をし、時間帯がわからぬ地下室をお(いとま)する段になって、リーが思いもよらぬ要望を出した。

「マイクロフトさん……ホームズから、貴方は結構なポストに就いていると聴いた……それにこのクラブも、羽振りのいい輩が揃い踏みなんだろう。どうだろうか、ドイル卿に会わしてくれないかね」

 素っ頓狂な質問に一瞬面食らったマイクロフト氏。

「ドイル卿というと、シェリングフォードの? ああ、貴方も小説に携わっている人間でしたね」

「無理にとは言わないが、少し訊いてみたいことがあるんだ……」

「なるほど……わたし自身はドイル卿と直接の面識はないが、クラブの人間で交友のある者がいたら、連絡しましょう。とはいえ、変わり者の集まりですので、あまり期待せずに」

「わかった。悪いね……」

 リーがディオゲネス・クラブで言葉を発したのは、自己紹介を含めてこの程度だった。

 その後、ふたりはクラブから帰宅し、一旦ベイカー街の下宿に戻った。辺りはすっかり夜の帳が下りていた。ハドスン夫人の作ったサンドイッチを頬張りながら、叩き壊す勢いで小説をタイプするリーを尻目に、レストレイドは眉間を指で抑えていた。

 結局まとまった意見は貰えなかった。苦悩に次ぐ苦悩。あのホームズの兄なのだから、何となく予想はしていたが、評論家の真似事をされたところで犯人が捕まるわけではないのだ。ワトスンには申し訳ないが、果たして何のためにクラブまで出向いたのか……

「いやはや、お手上げですよ、夫人」

「マァ、滅多なことを。いけませんわよ、警部殿」

 自分でも驚くほど乾いた笑いが漏れたレストレイドであった――

 

 そうして、数日が過ぎる。

 

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