間延びした潮騒が聴こえる。
盛夏を迎えて太陽は煌々と勇ましく、教室のカーテンを風が揺らしても、私は下敷きをうちわ代わりにしてパタパタと扇いでいた。うなじに鬱陶しく張り付く襟足が、体感温度をぐいぐいと上げている。暑い。
何も書かれていない黒板の字はよく見えないし、教室はいつも通り教師だらけで窮屈だ。ノートを埋め尽くしていく大長編の落書きは大団円を迎え、蛇足である後日談をどう描くかを作者に悩ませている。よし、全員死んだことにしよう。
指されないのをいいことに、私は机に突っ伏してウトウトと微睡(まどろ)んでいた。それでも耐え難いこの退屈は、私の視線を必然窓の外に向ける。半開きの眼が捉えたマンションの間から覗ける海は、ここから一キロと離れていない。主婦が諦めて干した洗濯物は、潮風に晒されながらも懸命に乾こうとしていた。飛行機が、きいん……という音を立てて遠ざかっていく。
夏は、まだ終わりそうになかった。
音楽の授業をフケるつもりが、生徒会委員に見つかってしまい、渋々ながらも視聴覚室に入った。うたのテストが今日だということをすっかり忘れていて、これは振り切ってでも屋上で寝そべっているべきだったと心底後悔する。
そんな私の苦悩も知らず、教師は伸びやかで押し付けがましい伴奏をバンバン叩いて生徒を煽る。関数だの公式だので麻痺した身体には、どんな音楽だって特効薬なのだろう。
――何か違うんだよなあ。別に私だって、詳しいわけじゃないもの。作曲家だって両手で数えられるくらいしか知らない。でもこの時間が恐ろしいほどくだらなくて無駄だってことは、わかる。
例えば、隣のクラスのエフくらいになると、この違いがわかる。もしかしたらちゃんと言葉にして指摘出来るかもしれない。でもそんなことをするような愚か者じゃないし、そもそも彼は音楽の授業を取っていなかった。
「次。宮下さん」
「はい」
林檎飴のような頬を揺らせて、私の隣の生徒は壇上に立ち、歌った。その出来過ぎている美声にクラスの男子だけでなく先生も微笑んでいて、ひとり欠伸をこらえている私の阻害された気分はとっくに沸点を超えてしまった。これで総立ちに拍手なんかされた日には、いっそ窓から飛び降りてやる。ここ一階だけど。
私は別に彼女の美声や、教師だらけの教室に嫌気が差したわけじゃない。いや、そこは訂正する。確かにへどが出るほど嫌ってはいるけれど、我慢出来ないわけじゃない。これから先もこんなことが延々と続くという事実が、何よりも耐え難かった。
お昼休み。学校を逃げ出してみると、もう戻ろうという気持ちなんて起きなかった。決意にも似た、固い固い意思でもって私は学校から飛び出したのだ。そう考えると、自分が何か覇業でも成し遂げたかのように思えてきて、ブレザーの胸をびしっと張って商店街を練り歩き、有閑マダムの視線を集めてみたりした。
街が溶け始めたのは、この頃からである。
街の東端は、西端とリンクしていて、多分終わりはない。いつからこんな調子? 三輪車をかっ飛ばして競争しているあの子達に訊いても、眼を離して井戸端会議に精を出すお母さんたちに訊いても仕方がない。街の北端がどうなっているか見に行ってもいいけれど、私は海に引かれていった。まるで引き潮に吸い寄せられる乾燥したヒトデみたいに。
道中、街の様子をぼんやり眺めていた。何の遠慮も、婉曲もせずに言って、街は溶け始めていたのだ。どろどろと。炎天下のアイスクリームのような、ホールケーキに突き刺さるキャンドルのろうみたいな。イトーヨーカドーの鳩の翼が折れ、放置自転車の籠は変形し、公園の柵もひん曲がっている。買い物かごぶら下げた街行くおばさんも、万引き犯の眼つきをしたおじさんも、立ち止まって「や、こいつは溶けてるなあ」とごちている。
街が溶けるほどの暑さに、私達の脳がやられてしまったのか。何にせよ、籠の変形した自転車には乗りたくない。持ち主に少し同情してしまったが、それにしても可笑しみのある曲線を描くものだわ。特にサドルのところとか。
街が溶けても、海は平和そうに揺蕩(たゆた)っていた。
ジリジリと焦げ付く浜辺に人影は少ない。時折見かけるサーファーの姿も、あまりに波に張り合いがないので、ここからでは寝そべって揺れているようにしか見えない。ちょうどいま私はマンションの間に立っていたので、もしかしたら教室から私の姿が見えるかもしれない。
「悩みどころだね……ううん、難しい」
のしのしと視界に入ってきた蛙は、恐らくXLのブルックスブラザーズのセーターに、黒いツータックのパンツを履いていた。身長は私と同じくらいなのに胴回りはゆうに二倍はある。彼は私に気付く。
「暑くない?」
「何言ってるんだ。今日は暑いじゃないか」
むすっとした顔に愛嬌は微塵も感じられなかったが、くるくる回る大きな眼玉は見ていて楽しかった。折りたたみの椅子をセットしたかと思ったら、手板を膝に置いて紙の束に何やら書き始めた。
「スケッチ?」
「バカな。ワシが画家に見えるとでも」
「海を描いてるんじゃないの?」
「地方紙向けの新作だよ。今月末が締め切りなんだ。あと五十枚かかなきゃならない」
作家の卵さんだったとは。ブツブツの分厚い唇を上下させて彼は続ける。
「感想が欲しいんだ。ワシが頼んだら、ざっと読んでくれないかね?」
「お安い御用ですよ」
蛙はそれからもブツブツと呪詛のような言葉を吐き捨てながら、穏やかで緩やかな海岸線を凝視し続けていた。数分に一度、思い出したかのように手元に何か書き殴り、また眼を細めてぼうっとしていた。とても五十枚に向けてラストスパートをかけているようには見えなかった。
文学とは何ぞや、と自問自答し始めたあたりで流石に私の興味も底を尽き、また来るね。と告げてその場を去った。夕凪、ほんのり風が心地良くなってきた浜辺。蛙と私の影は伸び続けていった。
「街が溶け始めている」
「知ってます」
次の日、エフが遊びに来た。差し入れに持ってきてくれたドリップ珈琲は泥水そのものだったが、彼が来てくれただけでも私は十分嬉しかった。
「これは由々しき事態だよ、弟くん」
「由々しきって何さ」
「それはねえ……ううん、君は難しいことを訊くんだなあ」
「使ったのはエフさんです」
それなのにエフは自分の持ってきた珈琲の味に顔を顰めながら、朝からずっと弟と喋っていた。当然私は憤懣遣る方無い。
彼等の話題はことあるごとにアルファベットのFに戻った。私には興味のない話ばかりだった。大体弟がアルファベットを読めるなんて初めて知ったし、絶対に集まらないうちの家族は、芸能人には強いけれどてんで学はないものだと思い込んでいた。
「鉛筆の芯の硬さとか、階層についても使うことがありますよ。当然何かの頭文字としても」
「そうだね、あとは竜巻の強さも表せる」
「ヘクトパスカル? 嘘だあ、HとかPじゃないんですか?」
それは多分気圧だ、とエフが訂正するのを、私は暇そうに眺めていた。
隣の鈴木さん家のお父さんが、三日続けて庭先で椅子らしきものを作っている。そんなことから私は月曜日が消えたことに気づいた。
取り敢えずスプリングがダメになる勢いで、「やった! やった!」とベッドの上、狂喜乱舞しながら頬をたっぷり緩ませた。ひとしきり息をきらせて笑った後、弟のためにオムライスを作ろうと部屋から出た。出たところで、逃亡した私には今日が何曜日であろうと週休七日に変わりないのだという事実に気付き、絶望した。一億円分くらいの損をした気分だ。
弟の語る今日学校であったことをBGMに、私は慣れた手つきでオムライスを皿によそった。どうやら弟の校舎も手酷く溶け始めているみたいで、私は少しだけ申し訳なさを感じた。
「そうそう、浜辺に蛙がいるの、知ってる?」
弟にそれとなく訊いてみる。弟の学校の通学路は浜を沿っていくルートもあるのだ。
「いないよ、何言ってんのさ。蛙は川だろ」
「いや、そうじゃなくてね……」
皿を片付けて私は目一杯くつろぐ。ビールを開けてテレビの前に陣取り、ワイドショーを眺めた。日頃の恨みを晴らすつもりで家中の時計の針を捩じ切っておいた。完璧だ。化粧をしていない顔で小汚くゲップをして、女性タレントの見当違いなコメントに野次を飛ばす。
「ねえ! となり町で、発砲事件だって!」
どこそこ? という弟の声を無視し、続報に聴き入りながら、私は流石に勿体無かったかな、と薄っぺらい丸板と化した壁時計にチラチラと視線をやったりしていた。
そこから数日が経ち、火曜日もなくなっちまえ火曜日もー、と自分で節をつけた変拍子の鼻歌を口ずさみながら、海へ向かった。日に十二時間は眠っているのに、さっきから欠伸が止まらない。もう太陽はのぼりきっていた。昨夜飲み過ぎたせいか、まだ少し残っているかも。
街は溶けることを止めていなかった。きっとこれからも。誰の手も借りずに。街はまだまだ溶けていくつもりだろう。じゅくじゅくと膿んだ傷口のような建物の断面は、見ていて愉快だった。その辺の子ども達がバリバリと家々を剥がしていき、何処かに持ち帰って遊んでいる。それを注意する大人達。秘密基地の壁面材にするには、融通が利いてちょうどいいかもしれない。
今日の蛙は浜辺の目立つところに陣取っていた。パイプなんかくゆらせながら――いかにも文士を気取っているが、遠目から見ても大して捗っていないのはわかった。
「今日も来ちゃいました」
「おう、久し振りじゃないか、嬢ちゃん」
余程暑いのか、お似合いの油汗を大量にかきながら蛙は私に手汗や諸々でふやけた原稿用紙を渡した。その段になって、ああ約束……と思い出す。
「完成したの?」
「六割ってところだな」
手袋を持って来なかったことを後悔しながら、ページをめくる。日本語ではなかった。私は覚られないように眉間に皺をたっぷり寄せて、十分くらい格闘した後、「もうちょっとハッピーエンド寄りにした方がいいよ」という適当な感想を添えて返した。
「うむう、やはりそうか……」
と蛙は油汗をその原稿で拭き、私の意見を意外と参考にした。
帰路。どういう風の吹き回しか――というより単に居間でゴロゴロすることに飽きただけなのだが――私は学校へ向かってみることにした。本当は死ぬほど億劫だったのだが、身体の芯から来る危機感みたいなものに煽られたのだろう。
もう六割ぐらいは溶けてしまっただろうか。液状化した校舎がグラウンドに染み出し始め、野球部もサッカー部も練習が出来なくて参っている。外から一通り回ってみたが、初代校長の銅像とか、百葉箱とか、食堂の裏に横付けされたバンまでどろどろになっていた。
ただ敷地内にいるだけだというのに、心の底からうんざりしてくる。どういう神経でいれば、こんな棺桶みたいなところに四六時中籠もっていられるんだ?
「おーい」
びくっとして振り返ると、エフが立っていた。これは素晴らしい巡り合わせ! 来た甲斐があったというもの。
「全然学校来ないから心配してたんだ」
「だって休みじゃないの」
(何言ってんだこいつ……)
そのまま私はエフと一緒に帰った。方角は似ているのに、思えば並んで家路に着くなんて初めてだった。胸がドキドキして上手く喋れない。というわけでもなく、私は誰かに話したくて仕方がなかった事件の詳細を、ベラベラとエフに語り尽くした。何せ弟は半分くらい私の横で見てるし、両親は意地でも会社から帰ってこない。ワイドショーの受け売りのくせに、自分でもびっくりするくらい上手く伝えられなかった。
となり町って何処よ? という質問を挟んだ以外は割と興味を持って聞いてくれたエフだが、ポーズが上手いだけでその実まったく無関心だったかもしれない。それでもエフは、とにかく相槌の打ち方が素敵だった。
夕暮れがあまりにも綺麗すぎて、現実味がまったくなかった。キラキラと光る重たいオレンジが、溶けて流れた街の泥に反射していく。街は、インク塗れだった。
人と並んで歩くこと自体久し振りで、距離感が掴めず、私は多分彼に近寄りすぎている。縺れる千鳥足。直視できない彼の眼。
「それでね、その奥さんなんかドラム缶に頭から突っ込んで、三日も見つからなかったんだって!」
「へえ、そうなの。災難だね」
「その息子さんも凄いの。風呂場で射殺されてたの。考えられる? ここはアメリカじゃないっつうの!」
「それ、殺したの僕だ」
「え?」
沈黙。エフが口角をたっぷりあげながら私を直視する。そうだったら。そうだったらいいな。そんな言葉が浮かぶ。私はパクパクと口を開け閉めして、声にならない返事をする。
ややあって、私の中のエフは私にキスをした。
その瞬間、一秒だけ街は停止した。
別れ際、エフは「たまには学校に顔出せよ」とだけ残してそそくさと先に行ってしまった。口がお酒臭くなかったかだけが気がかりで、昼間からビールは少し控えようと反省した。ふわふわとした時間の中で、私だけが取り残されていた。
その翌日。禁は破ることに意味があると考え、缶チューハイを開けた私は居間に仁王立ちしている。いま私の顔はほんのり蒸気していることだろう。そんなに強い方でもない。
「ハイ、注目! お父さんとお母さんはどうやったら帰ってくるでしょうか?」
「いきなりどうしたんだよ」
弟は不満気にテレビのリモコンを私の手から奪おうとしている。身長差は埋められない溝だった。
「帰ってくるでしょうか?」
私は繰り返した。
「ねえ、お姉ちゃん、そんなことより今からMTVでレディへのライブやるんだけど見ていい?」
あ、それは私も見たい。
「いいから腰を落ち着けて聞きなさい。となり町の事件はもう虐殺の域まで来てるし、街の融解も日に日にどんどん酷くなってる。学校から逃げた私には関係ないけど、月曜日だって消えちゃったのよ? どうするの?」
「知らないよ、そんなの。エドのギターの方が大事だ。それに、そんなこと言う割に姉ちゃんは何もしてないじゃないか」
「い、痛いところを突くわね……」
弟はリモコンを諦めて代わりに缶チューハイをひったくる。残念、そっちはもう空でした! あんたには十年早いわ。三ツ矢サイダーで我慢しなさい。
「手始めに私があんたに言いたいのはね、実際海にも蛙がいるってことで……」
「ただいま」
「え?」
後ろから弟の声がして、振り返ったら被っていた毛布がずり落ちた。持っていた空の缶チューハイが廊下に転がっていく。弟が開けた家のドアの向こう、半裸の鈴木さんが机を作っている姿がちらりと見えた。暫く浴びなかった太陽光、眩しい。ボサボサの髪が頬に張り付き、首筋にじっとりと溜まった汗が喉を伝って鎖骨に降りていった。そのまま二秒半くらいじっと弟は私を怪訝そうに見つめていた。背筋が凍る。どうやら私は、玄関に背を向けて、この暑いのに毛布を被って、独りで……
「姉ちゃん?」
「は、はい!」
「――オムライス作ってよ」
「う、うん。わかった」
「よくあることじゃないか。玄関は居心地が良いからな。来客にもすぐ対応できる。みんな玄関で寝ればいいんだ」
「そういう問題じゃないの」
「じゃあ何が問題なんだ?」
蛙に訊いたのが間違いだった。
私はたっぷり二秒間ほど深い溜息を吐く。
「あーあ……何処から夢だったんだろ。キスされたところからかな、そのちょっと前かな」
「夢見るのは寝てからだろ」
蛙はいつの間に推敲を終えたのか、地方紙に自身の作品を送っていた。賞でも貰ったかのように有頂天な蛙は、私を招いてプチ祝賀会を開催したのだ。その席を彩るメインディッシュとなる魚を、現在必死に海釣りで仕入れているところだ。私はその横で彼を応援していた。それが釣果に関わるかは甚だ疑問だ。
「ねえ、ワイン開けちゃったんだけど」
「釣りは、引っかからない時のほうが面白いもんだ」
どうやら催促だと受け取ってくれなかったようなので、私は勝手にグラスに注いで一人で乾杯した。埒が明かない。つまみ代わりに餌でもポリポリ食べてやろうか。何をとち狂ったか、私はパックの中で元気に蠢く何とかゴカイに視線を落とす――もう少しぐらい待ってやろう。自分のパーティーじゃないんだ、早まる必要はない。
「そういえば何について書いたの? テーマは?」
「海」
次の日も私は学校に向かった。当然、エフに会いたかったからだ。無理をして早起きしたので、どうにも眠たい。学生服まで何処か酒臭い。こんな短いスパンで連続登校するなんて、私まるで学生みたいじゃない? と弟に訊こうとしたが、どうにも呂律が回らなくて諦めた。
どろどろの校門に吸い込まれていく生徒達を見て、私はぞっと身震いする。足音まで均質に聞こえる。多少固まり始めたかなという印象は受けるが、出来損ないの鍾乳洞みたいな形状に変わりはない。夏の日差しは容赦なく私をアスファルトに叩きつける。それでも私は自らを鼓舞して、穴の中に入っていった。最後の、ひとかけらの勇気だった。
相変わらず教師だらけの教室、新品そのものの綺麗な無地の黒板。数億年前に教わった気がする数学。私のブランクの理由を訊いてくる輩は一人もいなかった。隣のクラスまであまりにも遠すぎて、エフには会えなかった。身体中に蔓延(はびこ)っているアルコールが侘しく、かつはっきりとした悪意を持って私を縛り付ける。窓の向こうのマンション、その間(ま)に佇(たたず)む海、潮気にやられたシャツ達……全部一緒。気怠く、迂遠な、あまりにも長い夏という地獄が始まった――私が逃亡したあの日から。
ああ、寝すぎて眠たい。溶ける。街が、溶ける。お腹の中がギュルギュル鳴って、今にも葡萄や麦が口から飛び出そう。エフ、エフに会いたい。蛙の、蛙の小説も読みたい。読み……たい……
頭を金槌で思いっきり殴られた痛みは9137フレームぐらいに引き伸ばされて、その衝撃が私をやっと壊してくれた。
するすると、衣擦れのような音がする。紙と紙の擦りあう音も。事実、右上に穴の開いた原稿用紙の束に紐を通している姿がある。
「いやあ、大迷惑だなあ、ホント。カタストロフってわけだ」
蛙の声。どうしても瞼を開けることが出来ない。毛布の端をぎゅっと握って、私は後頭部に一抹の風を感じた。外の音も聞こえる。開け放した玄関から入り込んできているみたいだ。
「肩ロースなんてどうでもいいんだよ。それより、どうしたらいいかな。今後オムライスが食べられないのは死活問題だ」
続いて弟の声。私はあんたのオムライスのために生きているわけじゃないと被っている毛布を投げつけてやりかったが、足が痺れて動けなかった。私の中でも色々なものが溶けている証拠だ。不健康の化身みたいな生活だったもの。ここ、数……週間? 年間?
「まったく思春期ってのはとんだ病だぜ……」
「僕も思春期だ。それに全然カッコついてないぜ、その台詞」
その後も二人は海蛙のアイデンティティについて激論を交わしていったが、何かを諦めたようにどちらともなく去っていった。無音が広がる玄関先は信じられないほど寒くて、私は醒めきった眼を幾度と無く確りと閉じ直し、どしゃり……という外の建物が崩れ落ちる音に怯えて過ごしていた。もう街は原型を留めていない。何かを目指して突き進む津波のように、溶け切った、街だった液体は速度を増して海へと流れていく。つまらなそうに。半ば、寂しそうに。
日に日に毛布は重たくなり、骨は軋み、身体は歪み、指先の感覚がなくなっていった。茹だるような真夏の大雪原にて、私は遭難した。街が海に還る様を、夢に見ながら。
そこまで来てやっと、私は恐怖を覚えた。
――あまりにも長い間、私は震えていたから、彼が駆けつけてきてくれたことにまるで気づかなかった。歯の根が合わず四六時中ガチガチとやっていた為、彼の足音が聞こえなかったんだと言い訳する。こういうところも含めて、つくづく自分勝手な人間だと思う。
そしてもう一度、するすると衣擦れのような音。紙と紙が擦れ合う……いや、違う。それだけじゃない。折りたたみの椅子に座り、手板を置いて文字を消したり書いたりしている。そんな光景が浮かんだ。実際にそれっぽい物音もする。あくせくと書き殴っているその姿は見覚えがあり、もはや懐かしさすらこみ上げてきた。
「私のせい?」
彼は答えない。火のついていないパイプが足元にひっくり返っているが、眼もくれず書きものに没頭している。
「大団円にはやっぱり王子様のキスがいいか」
少し間があって、私に訊いているのだと気付く。とんだ贅沢を受けたものだ。
「……それはない。いくら何でもやりすぎ」
「嘘つけ。好物のくせに」
そこは、否定しない。
私の記憶の庭園にぽつぽつと落ちていく彼の言葉は、少しだけ汗ばんでいたけれど決して厭ではなかった。砂浜が海を吸い続けるように、彼の吐く文字を確りと受け止め、私は緩やかな恍惚に包まれていた。
「今なら間に合うからお好きなように、お嬢様。今月末が締め切りなんだ」
気取ってるのか、平素からこんな調子だったか、多分前者だ。
潮風と共に、しまいにはこんなことまで言ったの。
「おでこを差し出せ。厄介者」
眼の上に生温い感触を受け、私は覚醒に至った。大長編の英国映画を続けて見せられた気分だ。首が凝り、使っていない眼がどんと疲れていた。
暑くて夜中に剥がしたであろう毛布は、撃ち殺されたかのようにベッドの下で蹲(うずくま)っていた。目覚まし時計が信じられないほどの爆音で鳴り響き、早く俺を殴ってくれと懇願している。当然の一撃。
時計を叩いた瞬間、揺るぎないほど平凡な日常が訪れた音がした。ような気がした。
「おはよう」
「おはよ、姉ちゃん。ねえ、知ってる? となり町の事件さ、犯人捕まったって」
今起きた私が知ってるわけないでしょ、と反論した瞬間、何かに躓(つまづ)いて危うく転びそうになった。我が家の居間最恐の凶器の正体はチューハイの空き缶だった。誰が飲んだのか、ちゃんと捨てとけよ。
「私、どのくらい眠ってた?」
(何言ってんだこいつ……)
弟は怪訝そうに私を見つめ、
「八時間くらいじゃない」
と返した。
オムライスを作り、珈琲を入れ、朝からヘビーな卵料理をかっこむ弟を尻目に、脚を組んで地方紙に眼を通す。隅っこの方でこっそりと始まった連載小説に、私はほくそ笑んだ。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
口元も拭わず飛び出していった弟を見送った私には、街の様子を確かめる前に、やることがあった。蛙に礼を言わせるために、そして何よりエフに会うためにカレンダーをめくることだ。ビリビリ、ビリビリと。容赦なく。何枚も。まるで虐殺をするように。
気が済むまで破ったら、九月一日月曜日。
夏は、やっと去ってくれたようだ。
<了>
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