鳥になりたいな、とか。

 私でも、そんなことを思ったりする。

 どうにも私は、普段からボーっとしているらしく――ちょっとだけ自覚はあるよ――華麗に空を飛ぶ鳥になるなんて夢のまた夢。今までなんかは、良くてマナティ、悪くてマンボウにたとえられたことがある。……そんなにボーっとしてるのかな。

 でも、そんな私だって。

「すごい、きれい……」

 思わず衝いて出た私の言葉に、庭先のポーチから、そのお婆さんは優しく笑みを向けてきてくれて。

「どうしたの? 迷っちゃったかしら、そうね、この辺は道が複雑だから、ごめんなさいね」

 滔々と水が流れるような、澄んでいて滑らかな調子で言い遂げた後、お婆さんは優しい色をしたカーディガンを直しつつ、腰掛けていた白い椅子から立ち上がる。

 その時の私はといえば、「ああ」とか「うう」とか呻くのが精一杯で、あとはお婆さんの顔を見ることもできずに。

 そのポーチに掛っている、綺麗な金色の鳥籠だけが目に入って来た。

 

 私が通っている高校というのは、いわゆる高級住宅地に隣接しているような形で建っている。とはいえ、そこに住んでいるでもなし、さすがに用も無ければ関わり合いも無いものだった。

 それが。

「そうなの、猫を追いかけて――」

 私は恥ずかしくて目を伏せる。

 まさか帰宅途中に野良猫と遊んでいて、調子に乗って住宅街の方まで進出、挙句に細い路地に一緒に入り込んでしまって……。

「それで、こんな所まで来てしまったのね。まぁ、面白いお嬢さんだわ」

 こくり、と頷く。

「ごめんなさい」

「いいえ、気にしないで」

 お婆さん――入谷さんというらしい――は、不審者感に溢れていた私を、そのまま招き入れてくれて、なおかつ美味しい紅茶まで淹れてくれて、本当に申し訳なくて、嬉しくて、なんだか顔が熱くなってくる。

 女子高生の役得だな、うん。

 それにしても。

「きれい、ですね」

「ああ、あれ」

 私の視線の先には、ずっと金色の鳥籠がある。

 対面に座る入谷さんの背後、ポーチの端にそれとなく掛けられてあるそれは、ただの金色の鳥籠という訳ではなく、まるでヨーロッパの宮殿のような細やかな細工が、全体に施されている。

 その中では、小さくて鮮やかな黄緑色の羽をした鳥が、さっきからチロチロと左右に動いている。

「カナリヤ、ですか?」

「かしらね」

 あれ?

 なんだか、変な答え方だな。

 綺麗な鳥の動きに魅せられている私とは対照的に、入谷さんは興味も無さげにティーカップに口をつけている。

 もしかして、可愛がってないのかな。

 そんなことが少しでも思い浮かんでしまって、すると途端に悲しくなってくる。ここからだと良くは見えないけれど、鳥籠の中のカナリヤも、心なしか寂しく見えた。

 頑張れカナリヤ、君はかわいいよ。

 そんな私の視線に気づいたのか、入谷さんは不思議そうな顔をして、一度だけ鳥籠の方に振り返り、その次に顔を戻した時には慰めるような表情を作っていた。

「もうこんな時間なのね、長居させてしまったかしら」

 それはなんだか不思議な感じで。

「え、あ、何時、ですか?」

「五時よ。なんだか追い返すみたいで心苦しいけれど、外も暗くなってきているし、それに――」

 入谷さんはそこで区切って、照れ隠しの笑いを添えつつ、言葉の行き先を変えたみたいで。

「さ、今日は帰った方がいいかしらね」

 今日は、と言ってくれたのが嬉しかったから。

 だから、入谷さんの言葉の裏にある、かすれた絵葉書みたいな、微妙な薄暗さは気に留めないでおくことにした。

「お茶、美味しかったです」

「それは良かったわ」

 玄関口の方まで回って、最後に挨拶を交わす。

 入谷さんは、私が帰る時まで手を振ってくれていて、本当に優しいお婆ちゃんなんだな、って。

 ――でも、だからこそ。カナリヤに一度も目を遣らなかった姿が、とても不思議に思えてしまえて。

 

 


 ぱたぱた、と。

 木彫りの鳥にかかった埃を、はたきで落としていく。

「手伝って貰えるのは嬉しいけど」

 そんな声が後ろから。

「高校生は勉強で忙しいんじゃないのかな?」

 嫌味のような、本当に心配してくれてるような。

 でも大丈夫だよ。

「私、授業中は寝てないから」

 ああ、そう、と溜め息まじりの声。

 私は振り返って、そんな声の主を改めて確認する。

 立派なアンティークチェアに腰掛けて、蝋で作られたみたいな細い足をぶらぶらとさせている。背もたれにふわふわの猫っ毛の髪を埋めさせて、榛色の瞳でこっちを見ている。

 そんな、男の子。

「お姉さんは、本当に変な人だね」

「あはは」

「褒めてないからね」

 

 この男の子は千里耀(せんり あかる)くん。

 中野ブロードウェイの四階にある、仙狸堂(せんりどう)という骨董屋さんの、驚くなかれ、小学生の店主さんだ。

 まるで西洋磁器人形みたいなこの子が、こんな変な所――私は好きだけど――で骨董屋さんの店主をやっているなんて、初めて来た人なんかは必ず訝しげに感じると思う。

 でも何度かアカルくんと話した私には理解できる。それというのもアカルくん、仕事柄なのだろうか、様々な物への洞察力に優れ、大人顔負けの推理をすることがある。

 私は、そんなアカルくんを尊敬している。

 って、面と向かって言うと、なおのこと変に思われるから言わないんだけどね。

 

「それで、お姉さんは鳥になってどうするつもり?」

「え?」

 それはアカルくんの突然の言葉で、昨日の私が、あの金色の鳥籠を見た時に思ったことを、すっかりなぞられたみたいで、なんだかくすぐったい。

「なんで、私が思ってたこと、解るの?」

「やっぱり、そんなこと考えてたんだ」

 左目を眇めて、アカルくんが小さく笑う。

「お姉さん、たまにウチに来るけど、今日に限って思い立ったみたいに、品物の埃を払ってくれたから。その木彫りの鳥が目に入ったんだな、ってのはすぐ解ったよ」

「名推理だね」

「やめてよ、単なる雑談なんだから」

 アカルくんが恥ずかしそうに顔を背ける。

「私は、何して良いか解らないと思う」

「ああ、鳥になったら、の答えだね」

 うん。

 結局、私が鳥になった所で、空を飛ぶかどうかなんて怪しいものだ。どこに行けばいいかも解らないのだから、もしかしたらずっと電線の上に止まって、ぴぃぴぃ鳴いているだけかもしれない。

「そしたらカラスが来て、食べられる」

「お姉さん、話が飛んだよ……。まぁなんとなく伝わるけど、自分が小鳥になることを想像したんでしょう」

 うん、正解。

「本当に変な人。鳥になりたいって言ったら、普通は大空を飛ぶ鳥を想像するよ」

「でも、鳥はいっぱいいるから。小さいのでも良い」

「さようですか」

 大人びたアカルくんの言い方が、今日はいつもより二割増しくらい面白い。そんな気分に乗せて、私はぱたぱたと木彫りの鳥の埃をはたいていく。

「ねぇ、お姉さん、そんな熱心にやらなくていいんじゃないかな」

「ダメ?」

「だめ」

 ダメかぁ。

 ちょっとだけ名残惜しくて、さっきまではたいていた木彫りの鳥を見つめる。どこかの民芸品だろうか、素直な形で、ちょっと粗めに削られてて、のっぺりとした体に、くりくりの目が描かれている。

「これ、ペンギン?」

「メジロだよ……」

 メジロかぁ。でもメジロってどんなのだっけかな。

「鳥っていえばね」

「また話が飛ぶね、いいけど」

 アカルくんが観念したように、アンティークチェアの肘掛けに肘をつく。

 だから私は、小さく微笑んでみせてから。

「あのね、金色の鳥籠のカナリヤと、それが嫌いなお婆さんの話なんだけど――」

 そう言って、私は先日起こった奇妙な事件を話し始める。

 

 


 私は下校する時に、あえて入谷さんの家の裏――あの庭が遠くから見える位置だ――の方を通っていくようになった。そんなことをする理由は、一つには多分、単純にあの金色の鳥籠が、とてもきれいで気になっていたから。

 もう一つは、という程ではないけれど、私はずっと、あの時の入谷さんの行動が不思議に思えていて、それに惹きつけられていたのかもしれない。

 ううん、不安だったのかも。

 あのカナリヤは愛して貰えないのだろうか、って。

 夕方に住宅街の道を遠回りして歩く度、あの金色の鳥籠が西日を反射して、きらめいているのを見遣る。そこに入谷さんが居ない日もままあったけれど、あのカナリヤだけはずっとそこで、ちろちろと左右に動いていて。

 それが寂しく感じられてしまったから。

「あら、あの時のお嬢さん」

 何回目かに、たまたまポーチで休んでいた入谷さんが私を見止めた。

「その節は」

「そう硬くならないで。良ければこっちにいらっしゃい、お茶が入ってるわよ」

 ううん、と私は首を振る。

「ありがとうございます。でも、私、今日は早く帰らないとダメで」

 そう嘘を吐いてしまった。

 なんでそんな事を言ったのかは解らない。けれど、それはもしかしたら、その時もやっぱり、入谷さんが後ろのカナリヤに一瞥もくれずにいたこと、まるで存在しないかのように、紅茶に口を浸していた姿が、不思議に思えたから。

 この時、私の視線は、あの金色の鳥籠に向かっていたのかな。入谷さんは前と同じように、一回だけ鳥籠の方に振り返ると、無感動に顔を戻した。

「そうね、もうこんな時間だもの。引き留めてしまって、ごめんなさい」

 入谷さんがそう言う間も、カナリヤだけは寂しく体を振っていて。

 こっちを向いて欲しい、僕を見て欲しい、って。

「あの、それじゃ、また――」

 堪らずに私はその場を駆けだしていた。

 籠の中の鳥は、誰にも見られなくなったら死んでしまうだろう。空を飛んで他の鳥に襲われる心配は無いけれど、誰からも見られなくなったら、きっと。

 

「またね、めろ」

 ふんふん。

「だから、ちゃんと口で言えってばぁ」

「またね、今日ちゃん」

「それで良し」

 その日の夕方は、久しぶりに今日ちゃんと一緒に帰れる運びとなったが――美術部の課題が終わったらしい――私は適当な理由をつけて別で帰ることにした。

 頭につけたリボンのカチューシャごと、元気に手を振る今日ちゃんを見送って、私は一人、住宅街の方へと歩き出す。

 私は、今こうしている自分が、何か人に言えない秘密を抱えているみたいで、少しどきどきする。ただ一方で、悪いことをしているような、言い様の無い不安も残る。

 今度は、今日ちゃんと一緒に来よう。

 今日ちゃんなら、私の不安も、なんでも無い風にして、取り去ってくれるかもしれない。

 でも――。

「入谷さん」

 私はポーチで休んでいる入谷さんに、自分から声をかけた。

 今日ちゃんにも話せるように、自分の中の、変な不安を少しでも払拭しておきたかったから。

「ああ、また来てくれたのね。嬉しいわ」

 そう言う入谷さんは、手にしていた本から目を上げて、私の方を見返してくれた。

 その時、私は一つ大きく驚いた。

 カナリヤが姿を消していたのだ。

 あの金色の鳥籠の中で、忙しなく動いていた彼の姿は、今ではどこにも無い。ただ無意味に、彼を囲っていた豪華な檻だけが残っている。

「あの――」

 とても怖かった。

 カナリヤはどこへ行ってしまったのだろう。

「入谷さん、カナリヤは?」

 ああ、と、仕方ないという風に息を漏らして。

「調子が悪かったみたいでね、外に出しているのよ」

「それは……、病院に診せたんですか?」

 私の言葉に、入谷さんは可笑しそうに目を細めた。

「直れば良いのだけれどね」

 突き放すような、冷たい言葉に思えた。

「哀しく、無いんですか?」

「優しいのね。そうね、ちょっと惜しいけれど、まぁ、あれが残っていれば困らないから」

 そう言って、入谷さんは金色の鳥籠を見つめる。

 この時、私はとても悲しくなった。

 入谷さんにとって必要だったのは、あの金色の鳥籠であって、中の鳥なんて興味は無かったのだ。

 私にはアンティークの知識なんて無いから、それがどれ程の価値があるのかは知らない。でもあれは、傍目から見てもきれいな鳥籠で、それはきっと、あのカナリヤの命よりも高価なんだ。

 カナリヤの為に鳥籠があったんじゃなくて、鳥籠の為に、あのカナリヤが居ただけ。きっとまた別のきれいな鳥が、あの中に入れられるだけ。

 とても悲しかった。

「ごめんなさい、帰ります」

 それだけ言って、私は前みたく駆け出していた。

 泣いていたかは解らないけど、胸の奥がじくじくと、いつまでも痛くて辛かった。

 

She's a bird in a gilded cage.(彼女は金ぴかの籠の中の鳥)

 それからの帰り道、気持ちがいくらか落ち着いて、遠くに月が顔を見せ始めた頃に、何とはなしにそう口ずさんでいた。

 なんだったかな。確か前に英語の先生が教えてくれた、アメリカの古いバラードだったはず。若い女の子が、お金持ちのお爺さんの所に嫁いでいくという歌詞だった。

 そしてそれが、本当に幸せなのかどうか、愛と自由を捨てた結婚は哀しいものだ、と、そういう歌だった。

 あのカナリヤはどうだろう。

 空に羽ばたく事は無いけれど、きれいな籠の中で暮らしていたカナリヤは。

 そんなことを考える度に、私はやっぱり鳥にはなれないとも思う。深い海の中で、ボーっと漂うのが、精一杯なのかもしれない。

 そんな悲しい気持ちを抱えて、私はカナリヤの羽みたいな、金色の月を眺めてみる。

 金色の鳥籠の中の、金色の羽の小鳥。

 本当に入谷さんは、あの子を大切に思っていなかったのだろうか。

 考える余裕が出てくる程、そんな様子が疑問符で溢れかえってくる。少ししか話したことは無いけれど、あんなに優しい入谷さんが、あのカナリヤにだけは不思議なくらい冷たい。そこには何か訳があるんじゃないだろうか。

 そんな謎が生まれてしまって。

 そんな時に私の足が向かうのは、決まってあの場所になる。

 中野ブロードウェイの四階、入り組んだ迷路みたいな建物の一角。タヌキの置き物がトレードマークの骨董屋さんで、そこで待っているのは、とてもきれいな男の子。

 カナリヤみたいな、羽の色をした。

 

 

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