1
永遠の不在なんて、大それた言葉じゃないけれど。
それでもテーブルに置かれることの無くなった、その一つのカップを思う度に寂しくなる。とぼけた顔をしたビーグル犬が描かれたマグカップ。家族で食後のコーヒーを飲む時なんか、いつでも彼だけは食器棚に仕舞われている。
「メロウちゃん、テーブルかたしといて」なんて、お母さんにせっつかれて、私はようやく呆けていたことに気付く。
テーブルに残された母のものと父のもの、そして自分で使った濃紺のカップを流し台へと運んでいく。食器棚に残された彼は、イギリスに留学している兄の物。使われることのない、ほんの少しの、不在の証。
いつかまた兄が帰ってきて、一緒のテーブルに並んで熱いコーヒーをすするまで、彼はじっと待っている。だから私は彼が他の食器に紛れてしまわないよう、たまに思いを馳せておく。
誰かの為の、大切な物だから。
「ちょっとめろぉ、行き過ぎ。ここだってば」
数歩進んだ後、背後から今日ちゃんの声。ほんの少しだけ、考え事をしていたせいで反応が遅れてしまう。振り返って下を向けば、そこには困った顔で右方を指差す彼女の姿がある。
「ここ?」
「そ、ここ」
指の先に、おしゃれな建物。住宅街の真ん中に、ぽつんと現れた洋菓子店兼カフェ。閑静なアップタウンに根を下ろして幾年、風景に馴染みつつも独特の存在感を放つ洋風の外観。軒に吊るされた古びた看板には「St.Martin」の文字と、木彫りのアヒルがぶら下がっている。
おしゃれなお店だなぁ。あと高価そう。
「蛍(けい)ちゃん、ここで働いてるの?」
「そうそう。という訳で、私らも彼女の仕事に貢献しましょー」
私一人だと気兼ねしちゃいそうな、堅くて重そうな扉に立ち向かう今日ちゃん。ちょっと苦戦してたので、後ろから私も押してあげた。
「あ、いらっしゃいませぇ」
入店してすぐ、落ち着いた照明の中から蛍ちゃんが現れ、綺麗な白いエプロンをなびかせて歩み寄ってくる。
「やっほ、来たぞー」
「本当に来てくれたんだ。ありがとね、今日ちゃん、めろちゃん」
こくこく。
蛍ちゃんは今日ちゃんと私の同じクラスの子で、ほんわかしてて、優しくて、家庭科の得意な女の子。甘い物も好きで、こういう小さなカフェでウェイトレスさんをやるのが夢だって、いつか言ってた気がする。
私達二人は、いつものように――今日ちゃんの趣味の買い物に付き合って――出掛けた後、ちょうど休みたいのと前々から興味があったので、蛍ちゃんのいるこのカフェへやってきた。
「はい、二人とも、こっちの席へどうぞ」
慣れた様子で蛍ちゃんが案内してくれる。場所は窓際、出窓の所に北欧風の木の小物がいくつかあって、外には小さな花壇が見える。
お客さんも多くはなく、近所の主婦の人や、近くの大学や美大に通う学生、それに散歩途中のお爺さんがゆっくりしているような。
こういう雰囲気のお店、好きかも。
「めろ、ここ気に入った?」
うんうん。
「そねぇ、私も嫌いじゃないかなぁ。あとは、ケーキの味次第!」
愉快そうに蛍ちゃんから差し出されたメニュー表をなぞっている今日ちゃん。なんだかデパートのレストランに連れられて来た子供みたいで、すごく無邪気。
かわいいな。
「む、なんかめろ、今、変なこと考えたでしょう。ええい、もう良いから、めろから先に選んじゃって」
そう言って今日ちゃんは、何やら字が一杯書いてあるメニューを投げ渡してくる。
「今日ちゃんは?」
「私は、なんだっけ、えっと……」
ぐぐ、とこちらに顔を寄せて来て。
「あ、そうそう、しゅ、シュバルツベルダーキルシュトルテ? これにする」
「あ、じゃあ私も」
ぐにぃ、とここで頬を掴まれた。
「二人で同じの頼んでどうするのよぉ。別の頼んで分けた方が二度美味しいのよー」
うう、解ったよ。
「じゃあ、これ」
「どれ?」
「つ、ち、つぃ、つ、ちゅ……」
「言えないなら無理しなくていいから」
そうしよう。指差せば解ってくれるはず。
そんな訳で、とりあえず手を挙げて蛍ちゃんを呼んでみれば、
「シュヴァルツヴェルダーキルシュトルテに、ツィトローネンルーラーデですねぇ」
と、さすがの接客テクニック。さすが。
「あ、ところでコーヒーも一緒にいかがです? ケーキとセットで頼んだ方がお得ですよぉ」
そんな風にさらっと言われたものだから、二人ともウィンナーコーヒーを付けてのセットに。友達相手とはいえ、こういうことをさらっとやってのける蛍ちゃんが羨ましい。
「それにしても、蛍ちゃーも良い所で働いてるなぁ」
ちなみに、今日ちゃんは蛍ちゃんのことを「蛍ちゃー」って呼ぶ。普通に呼ぶと自分の名前と被るからだそうな。
「私もバイトしなきゃなぁ」
「してなかったの?」
「面接あるやつは高確率で落とされる。面接ないのはなんかキツそうでヤダ」
今日ちゃんが働いてる姿を想像する。
パタパタと、お店の中とかを駆けまわって――うん。
「あ、なんか納得したな! そうだよ! 棚の上の方から物が取れないから落とされるんだよォ!」
ぐりぐり、と私の頬をスプーンで突く今日ちゃん。
「楽しそうな話してるねぇ」
なんて、私らが子供っぽくしてるのを窘めるように、蛍ちゃんがお姉さんみたいな一言を添えて、トレイに綺麗なケーキとコーヒーを乗せてやってきた。
「聞いてよ、蛍ちゃー。めろが私の背の低さをバカにすんだよ。自分がノッポだからー」
ふんふん。してない、してない。
「人のコンプレックスって、相手には上手く理解して貰えないもんだよ。そこんトコは流して笑いに変えとこう」
って、蛍ちゃんはお皿とカップを並べながら一笑い。
そういう蛍ちゃんの悩み事は、他の同年代の女の子より少しだけお風呂の水が少なくて済むこと――っていつか言ってた――らしい。私はそんな風にも思わないんだけど、それもやっぱり他人には理解されない、ってことなんだろう。
なんて思っていると、向こうで「うっわ、美味しそう」と今日ちゃん大喜び。
出されたのはチョコの欠片がまぶされて、サクランボが乗ったケーキと、レモンのスライスがクリームの上に飾られたロールケーキ。そして、ふんわりと生クリームが盛られたコーヒーのカップが、一つ、二つ。
三つ?
で、その最後の一つをテーブルに乗せた後、蛍ちゃんはそのまま私の横に座る。
「さ、休憩しようっと」
「いいの?」
「だいじょーぶ。ちょうど休憩時間前だったから、店長が気を利かしてくれたの」
ね、と蛍ちゃんがカウンターの方に手を振ると、その奥で初老の男性が手元を見たまま微笑んで、小さく肩をすくめてみせた。私達も店長さんに軽く会釈をしてから、今日ちゃん曰く「お待ちかね」のケーキを賞味。
「んー、糖分が五臓六腑に滲みわたるー」
「もう、変な言い方しないでぇ」
二人が愉快そうに笑う中で、私もレモンの味がするロールケーキを口に運ぶ。
うん、おいしいな。
それから次に、柔らかそうなクリームの乗ったコーヒーに口をつける。あつつ。
「それにしても、優しそうなマスターねぇ」
今日ちゃんの視線が、細身で長身な店長さんに注がれる。ロマンスグレーの髪に、知的な眼鏡が輝いている。
「今日ちゃん、おじさん好きだもんね」
「ぐぐ、めろぉ、余計な情報を付け加えるなよぉ」
コーヒーを口から離してから、蛍ちゃんも自分の父親が褒められたみたいな、恥ずかしくも嬉しそうな表情。
「んぅ、実際、店長は優しいかな。いつもあんな感じで、悠々としてるし。あ、でも凝り性で、職人気質。コーヒー好きが高じてお店を出すくらいだし」
「へぇ。あ、じゃあさ、このケーキって誰が作ってるの?」
「これも店長のお手製だよぉ。だから日に何個とかしか出せないんだけどねぇ」
すごいな、ホントに職人気質なんだ。
「うっわ、凝り性だねぇ」
って、今日ちゃんも似たような感想。
「近くのお菓子の専門学校の生徒さんとか、参考にしに来るくらいの腕前らしいよ」
「ははぁ、道理で美味しい訳だ」
ケーキ談義に話を咲かせる二人。そんな時の私はと言えば、ただボーっと、綺麗な花柄のコーヒーカップを見つめていて。
「どしたの、めろ?」
ううん、なんでもない。
ただちょっと。
「家に、使われてないコーヒーカップがあって」
「ああ、留学してるお兄さんのでしょ?」
「……? 話したっけ」
「話した。もう、どうせ、それで寂しいって訳でしょ」
うん、と頷く。
今日ちゃんは、色々とお見通しだ。
「やっぱり寂しい。その人が居るのと居ないので、家族の話題も変わっちゃう。居たから話せてたことが、いつの間にかできなくなっちゃって、それが哀しい」
たとえば、カップに描かれたビーグルの話とかも。
それを受けて今日ちゃんは「めろにしちゃ語るなぁ」と、なんだか神妙な顔で天井を見上げる。
「そんなに寂しいもんかなー。私なんか、思春期の妹から邪険にされ始めてんだぞー」
「ぷぷ」
「笑うなよぉ! あ、蛍ちゃーも笑ってんな!」
ごめんね。
今日ちゃんはいつも、そんな風に茶化して、暗くならないようにしてくれてる。
「そうそう、そういえばね――」
今度は蛍ちゃんが話を振る。
「使われないコーヒーカップ、で思い出したんだけど、こないだ変なことがあったんだよ」
「変なこと?」
って、そういう二人の声が静かな店内に。
2
いつものアンティークチェアに腰掛けて、アカルくんが音楽でも聞くみたいに悠然と、ぱらぱら、と分厚い百科事典のようなものをめくってる。
「で、お姉さんはこうして今日も、その変なことを教えに来てくれた訳だ」
「うん」
「僕ももう慣れたけどね」
仕方ない、といった感じでアカルくんが首を傾げる。
私は前に来た時と何か品ぞろえが変わってはいないかと、この仙狸堂の店内を見回す。ショーケースの中の宝飾品や時計類、棚に飾られた西洋風の置き物、壁際には掛け軸やなんか。いずれも高価そうなアンティークの品々。
そんなここは仙狸堂。
中野ブロードウェイの四階、個性的なお店が入っているこの商業施設の中でも、さらに独特な雰囲気をまとっている骨董屋さん。
店主は千里耀くん。それこそ繊細な陶磁器で作られたみたいな、怜悧な雰囲気の小学生の男の子。それでいて――
「抜群の推理力がある」
ぶい、とサインを作ってアカルくんにアピール。
「ううん、なんだか語弊があるなぁ。僕は推理してる訳じゃなくて、骨董の知識を通して物事を想像しているだけだよ」
「でも、凄い」
どうかな、と困り顔で猫っ毛な髪をいじるアカルくん。
私は単純にアカルくんと話をするのが好き。だから私は、中野に来て、好きな推理小説とかを買う度に、必ず仙狸堂に寄ってアカルくんに最近起きた変なことを報告する。
それが迷惑かも、っていうのは、いつも考えてる。
でも――。
「別に迷惑じゃないから、いいけど」
って、今もアカルくんが私の心を見透かしたような、そんな言葉を言ってくれて。
「……お姉さん、気付いてないの?」
「なにが?」
「表情、すごく解り易いんだよ」
そうなのかな。そうなんだ。
「今は照れてる」
うーん、やっぱり解り易いのかな。
よく解んないけど、とりあえず両手で口元を覆っておく。やっぱり恥ずかしい。
ふぅ、とアカルくんが一息。そんな私に呆れたのかどうなのか、読んでいた事典を閉じて、その榛色の瞳を向けてくる。
「それじゃ、その変なこと、とやらを聞いてみようかな」
3
前置きの後に、蛍ちゃんが話してくれたことは、確かに変なことだった。それでも丸きり理解できない訳じゃなくて、ただ何か理解できない所がいくつかある。そういう意味で、変なことなのだった。
「ある日ね、お客さんが来たの。若い男の人」
そう言って、蛍ちゃんは私達が座っていた場所の一つ向こうにある、もう一方の窓辺の四人用の席を指差した。
「あそこの席に座って、まず三つ、ブレンドコーヒーを下さい、って注文してきたの」
「三つ? 三杯じゃなくて?」と今日ちゃん。
「そう、三つ。ウチ、お代わりは二杯まで無料だから、その事も伝えてあげたんだけど……」
蛍ちゃん曰く、そのお客さんは頑として譲らず、とにかく三つ分のコーヒーを持ってきて欲しいと言ったらしい。
「私ね、それでもその時は、後から友達なんかが来ることになってて、先に頼んだんだと思ったの」
「ふーん、でも冷めちゃわない?」
「そう、だから店のすぐ外とかに居るのかな、って。でもそういったことは一向に無くて、二十分くらい経ってから、その男の人は一人で帰ってったんだ。コーヒーは残さずに三つ分飲んでいってくてたんだけど」
「友達が、来れなかったとか」
「かもしれないけど……。どうだろう、その人、私が見た限りだと、ケータイとかで連絡を取ってる様子は無かったし。ただノートか何かに書きものしてて、あとは時計の方を見て、時間だけは気にしてたかな」
蛍ちゃんは振り向いて、カフェの壁に掛かった古くて趣深い時計に目を遣る。
「はぁ、まぁそりゃ不思議だなぁ」
「うん、でもこの話にはもうちょっと続きがあってね、その一週間くらい後になって、また同じ人がやってきて、前と同じ席に座ったの。それで、また同じように三つ分のコーヒーを下さい、って」
ここで蛍ちゃんは声を潜めるようにして、さも重大な秘密を打ち明けるような調子で続ける。
「でもね、それを伝えると店長が残念そうな顔で、今回はお出しできそうにありません、って」
「ははぁ、店としても迷惑だった訳だ。洗う手間も増えるし」
「ううん、それがよく解らないの」
これには私も今日ちゃんも、ハテナ、の疑問符。
「その時ね、店長が直にお客さんの所に行って何か話したの。そうするとお客さんも頭を下げて、その日は帰ったみたいで。でも次の日にまた来て、同じように三つ分のコーヒーを頼んだの。だけど今度は店長も笑顔で、お代は一杯分で構わない、って付け加えて、三つ分のコーヒーを出したんだ」
それは、なるほど確かに変なことだ。
「それから、コーヒーを出す時に店長がおかしなことも言ってたかな」
「なんつってたの?」
「えっとぉ、昨日は三つの花が用意できずにすいません、とかなんとか」
「三つの花?」
今日ちゃんは訊ねつつ、ぱくぱくと。サクランボの乗ったケーキを崩していく。
「うん、私も解んないけど、お客さんはそれで納得してたみたい」
「はぁ、なんかの暗号っていうか、解る人だけ解るメッセージみたいなもんかぁ。じゃあやっぱり、三つのコーヒーもなんか意味があるのかも」
「かもねぇ」
「あ、じゃあさ、例えばこんなのどう? その男の人は、昔から一緒にこの店を訪れてた親友が二人居たんだけど、事故か何かで二人とも命を落としてしまった。男の人は亡き友の為に、その分のコーヒーも頼んでいたのであった」
どやぁ、と自分で変な擬音を加えて今日ちゃんが、自らの推理に胸を張る。
「陰膳ってやつだっけ? でも、それだとしたら月命日とか、もっと決まった日に来るんじゃないかなぁ? そんな何日も連続して来るのも変な感じだよ」
蛍ちゃんは頬に指を当てて思案顔。
「むぅ、良い感じだと思ったんだけどなぁ」
本気で正解を考えていた訳じゃないだろうけど、やっぱりどこか残念そうな今日ちゃん。
と、ここで蛍ちゃんの休憩時間も終わりに近づいたのか、美味しそうに、コーヒーの最後の一口を飲み切ってから、
「それじゃ、また後でね」と、テーブルを後にする。
私達はもう少しだけゆっくりしていく旨を伝えて、仕事に戻る蛍ちゃんを送り出す。
それにしても。
「ザ・スリー・コーヒーズ……」
「ん、めろ、なんか言った?」
ふんふん。
私は少しの恥ずかしさを紛らわせるように、テーブルに目を落とす。それを見越したかのように、今日ちゃんの方からフォークが伸びて、ケーキがひとかけ、唇に押し当てられる。
「めろぉ、全部食べる前に交換交換。私にも、ほら」
むぐぐ、と甘酸っぱさが口の中に広がって。
「んむむ、ん」
私も自分のロールケーキをひとかけ、今日ちゃんの口の中に放り込んであげて。二人してむぐむぐと、甘くて美味しいケーキを咀嚼中。
一方で、私の頭の中には、三つのコーヒーなんていう謎が残されてしまって。そして、そういう時はいつだって、つい話を聞きに行きたくなってしまうから――