永遠の不在なんて、大それた言葉じゃないけれど。

 それでもテーブルに置かれることの無くなった、その一つのカップを思う度に寂しくなる。とぼけた顔をしたビーグル犬が描かれたマグカップ。家族で食後のコーヒーを飲む時なんか、いつでも彼だけは食器棚に仕舞われている。

「メロウちゃん、テーブルかたしといて」なんて、お母さんにせっつかれて、私はようやく呆けていたことに気付く。

 テーブルに残された母のものと父のもの、そして自分で使った濃紺のカップを流し台へと運んでいく。食器棚に残された彼は、イギリスに留学している兄の物。使われることのない、ほんの少しの、不在の証。

 いつかまた兄が帰ってきて、一緒のテーブルに並んで熱いコーヒーをすするまで、彼はじっと待っている。だから私は彼が他の食器に紛れてしまわないよう、たまに思いを馳せておく。

 誰かの為の、大切な物だから。

 

「ちょっとめろぉ、行き過ぎ。ここだってば」

 数歩進んだ後、背後から今日ちゃんの声。ほんの少しだけ、考え事をしていたせいで反応が遅れてしまう。振り返って下を向けば、そこには困った顔で右方を指差す彼女の姿がある。

「ここ?」

「そ、ここ」

 指の先に、おしゃれな建物。住宅街の真ん中に、ぽつんと現れた洋菓子店兼カフェ。閑静なアップタウンに根を下ろして幾年、風景に馴染みつつも独特の存在感を放つ洋風の外観。軒に吊るされた古びた看板には「St.Martin」の文字と、木彫りのアヒルがぶら下がっている。

 おしゃれなお店だなぁ。あと高価そう。

「蛍(けい)ちゃん、ここで働いてるの?」

「そうそう。という訳で、私らも彼女の仕事に貢献しましょー」

 私一人だと気兼ねしちゃいそうな、堅くて重そうな扉に立ち向かう今日ちゃん。ちょっと苦戦してたので、後ろから私も押してあげた。

「あ、いらっしゃいませぇ」

 入店してすぐ、落ち着いた照明の中から蛍ちゃんが現れ、綺麗な白いエプロンをなびかせて歩み寄ってくる。

「やっほ、来たぞー」

「本当に来てくれたんだ。ありがとね、今日ちゃん、めろちゃん」

 こくこく。

 蛍ちゃんは今日ちゃんと私の同じクラスの子で、ほんわかしてて、優しくて、家庭科の得意な女の子。甘い物も好きで、こういう小さなカフェでウェイトレスさんをやるのが夢だって、いつか言ってた気がする。

 私達二人は、いつものように――今日ちゃんの趣味の買い物に付き合って――出掛けた後、ちょうど休みたいのと前々から興味があったので、蛍ちゃんのいるこのカフェへやってきた。

「はい、二人とも、こっちの席へどうぞ」

 慣れた様子で蛍ちゃんが案内してくれる。場所は窓際、出窓の所に北欧風の木の小物がいくつかあって、外には小さな花壇が見える。

 お客さんも多くはなく、近所の主婦の人や、近くの大学や美大に通う学生、それに散歩途中のお爺さんがゆっくりしているような。

 こういう雰囲気のお店、好きかも。

「めろ、ここ気に入った?」

 うんうん。

「そねぇ、私も嫌いじゃないかなぁ。あとは、ケーキの味次第!」

 愉快そうに蛍ちゃんから差し出されたメニュー表をなぞっている今日ちゃん。なんだかデパートのレストランに連れられて来た子供みたいで、すごく無邪気。

 かわいいな。

「む、なんかめろ、今、変なこと考えたでしょう。ええい、もう良いから、めろから先に選んじゃって」

 そう言って今日ちゃんは、何やら字が一杯書いてあるメニューを投げ渡してくる。

「今日ちゃんは?」

「私は、なんだっけ、えっと……」

 ぐぐ、とこちらに顔を寄せて来て。

「あ、そうそう、しゅ、シュバルツベルダーキルシュトルテ? これにする」

「あ、じゃあ私も」

 ぐにぃ、とここで頬を掴まれた。

「二人で同じの頼んでどうするのよぉ。別の頼んで分けた方が二度美味しいのよー」

 うう、解ったよ。

「じゃあ、これ」

「どれ?」

「つ、ち、つぃ、つ、ちゅ……」

「言えないなら無理しなくていいから」

 そうしよう。指差せば解ってくれるはず。

 そんな訳で、とりあえず手を挙げて蛍ちゃんを呼んでみれば、

「シュヴァルツヴェルダーキルシュトルテに、ツィトローネンルーラーデですねぇ」

 と、さすがの接客テクニック。さすが。

「あ、ところでコーヒーも一緒にいかがです? ケーキとセットで頼んだ方がお得ですよぉ」

 そんな風にさらっと言われたものだから、二人ともウィンナーコーヒーを付けてのセットに。友達相手とはいえ、こういうことをさらっとやってのける蛍ちゃんが羨ましい。

「それにしても、蛍ちゃーも良い所で働いてるなぁ」

 ちなみに、今日ちゃんは蛍ちゃんのことを「蛍ちゃー」って呼ぶ。普通に呼ぶと自分の名前と被るからだそうな。

「私もバイトしなきゃなぁ」

「してなかったの?」

「面接あるやつは高確率で落とされる。面接ないのはなんかキツそうでヤダ」

 今日ちゃんが働いてる姿を想像する。

 パタパタと、お店の中とかを駆けまわって――うん。

「あ、なんか納得したな! そうだよ! 棚の上の方から物が取れないから落とされるんだよォ!」

 ぐりぐり、と私の頬をスプーンで突く今日ちゃん。

「楽しそうな話してるねぇ」

 なんて、私らが子供っぽくしてるのを窘めるように、蛍ちゃんがお姉さんみたいな一言を添えて、トレイに綺麗なケーキとコーヒーを乗せてやってきた。

「聞いてよ、蛍ちゃー。めろが私の背の低さをバカにすんだよ。自分がノッポだからー」

 ふんふん。してない、してない。

「人のコンプレックスって、相手には上手く理解して貰えないもんだよ。そこんトコは流して笑いに変えとこう」

 って、蛍ちゃんはお皿とカップを並べながら一笑い。

 そういう蛍ちゃんの悩み事は、他の同年代の女の子より少しだけお風呂の水が少なくて済むこと――っていつか言ってた――らしい。私はそんな風にも思わないんだけど、それもやっぱり他人には理解されない、ってことなんだろう。

 なんて思っていると、向こうで「うっわ、美味しそう」と今日ちゃん大喜び。

 出されたのはチョコの欠片がまぶされて、サクランボが乗ったケーキと、レモンのスライスがクリームの上に飾られたロールケーキ。そして、ふんわりと生クリームが盛られたコーヒーのカップが、一つ、二つ。

 三つ?

 で、その最後の一つをテーブルに乗せた後、蛍ちゃんはそのまま私の横に座る。

「さ、休憩しようっと」

「いいの?」

「だいじょーぶ。ちょうど休憩時間前だったから、店長が気を利かしてくれたの」

 ね、と蛍ちゃんがカウンターの方に手を振ると、その奥で初老の男性が手元を見たまま微笑んで、小さく肩をすくめてみせた。私達も店長さんに軽く会釈をしてから、今日ちゃん曰く「お待ちかね」のケーキを賞味。

「んー、糖分が五臓六腑に滲みわたるー」

「もう、変な言い方しないでぇ」

 二人が愉快そうに笑う中で、私もレモンの味がするロールケーキを口に運ぶ。

 うん、おいしいな。

 それから次に、柔らかそうなクリームの乗ったコーヒーに口をつける。あつつ。

「それにしても、優しそうなマスターねぇ」

 今日ちゃんの視線が、細身で長身な店長さんに注がれる。ロマンスグレーの髪に、知的な眼鏡が輝いている。

「今日ちゃん、おじさん好きだもんね」

「ぐぐ、めろぉ、余計な情報を付け加えるなよぉ」

 コーヒーを口から離してから、蛍ちゃんも自分の父親が褒められたみたいな、恥ずかしくも嬉しそうな表情。

「んぅ、実際、店長は優しいかな。いつもあんな感じで、悠々としてるし。あ、でも凝り性で、職人気質。コーヒー好きが高じてお店を出すくらいだし」

「へぇ。あ、じゃあさ、このケーキって誰が作ってるの?」

「これも店長のお手製だよぉ。だから日に何個とかしか出せないんだけどねぇ」

 すごいな、ホントに職人気質なんだ。

「うっわ、凝り性だねぇ」

 って、今日ちゃんも似たような感想。

「近くのお菓子の専門学校の生徒さんとか、参考にしに来るくらいの腕前らしいよ」

「ははぁ、道理で美味しい訳だ」

 ケーキ談義に話を咲かせる二人。そんな時の私はと言えば、ただボーっと、綺麗な花柄のコーヒーカップを見つめていて。

「どしたの、めろ?」

 ううん、なんでもない。

 ただちょっと。

「家に、使われてないコーヒーカップがあって」

「ああ、留学してるお兄さんのでしょ?」

「……? 話したっけ」

「話した。もう、どうせ、それで寂しいって訳でしょ」

 うん、と頷く。

 今日ちゃんは、色々とお見通しだ。

「やっぱり寂しい。その人が居るのと居ないので、家族の話題も変わっちゃう。居たから話せてたことが、いつの間にかできなくなっちゃって、それが哀しい」

 たとえば、カップに描かれたビーグルの話とかも。

 それを受けて今日ちゃんは「めろにしちゃ語るなぁ」と、なんだか神妙な顔で天井を見上げる。

「そんなに寂しいもんかなー。私なんか、思春期の妹から邪険にされ始めてんだぞー」

「ぷぷ」

「笑うなよぉ! あ、蛍ちゃーも笑ってんな!」

 ごめんね。

 今日ちゃんはいつも、そんな風に茶化して、暗くならないようにしてくれてる。

「そうそう、そういえばね――」

 今度は蛍ちゃんが話を振る。

「使われないコーヒーカップ、で思い出したんだけど、こないだ変なことがあったんだよ」

「変なこと?」

 って、そういう二人の声が静かな店内に。

 

 

 

 いつものアンティークチェアに腰掛けて、アカルくんが音楽でも聞くみたいに悠然と、ぱらぱら、と分厚い百科事典のようなものをめくってる。

「で、お姉さんはこうして今日も、その変なことを教えに来てくれた訳だ」

「うん」

「僕ももう慣れたけどね」

 仕方ない、といった感じでアカルくんが首を傾げる。

 私は前に来た時と何か品ぞろえが変わってはいないかと、この仙狸堂の店内を見回す。ショーケースの中の宝飾品や時計類、棚に飾られた西洋風の置き物、壁際には掛け軸やなんか。いずれも高価そうなアンティークの品々。

 そんなここは仙狸堂。

 中野ブロードウェイの四階、個性的なお店が入っているこの商業施設の中でも、さらに独特な雰囲気をまとっている骨董屋さん。

 店主は千里耀くん。それこそ繊細な陶磁器で作られたみたいな、怜悧な雰囲気の小学生の男の子。それでいて――

「抜群の推理力がある」

 ぶい、とサインを作ってアカルくんにアピール。

「ううん、なんだか語弊があるなぁ。僕は推理してる訳じゃなくて、骨董の知識を通して物事を想像しているだけだよ」

「でも、凄い」

 どうかな、と困り顔で猫っ毛な髪をいじるアカルくん。

 私は単純にアカルくんと話をするのが好き。だから私は、中野に来て、好きな推理小説とかを買う度に、必ず仙狸堂に寄ってアカルくんに最近起きた変なことを報告する。

 それが迷惑かも、っていうのは、いつも考えてる。

 でも――。

「別に迷惑じゃないから、いいけど」

 って、今もアカルくんが私の心を見透かしたような、そんな言葉を言ってくれて。

「……お姉さん、気付いてないの?」

「なにが?」

「表情、すごく解り易いんだよ」

 そうなのかな。そうなんだ。

「今は照れてる」

 うーん、やっぱり解り易いのかな。

 よく解んないけど、とりあえず両手で口元を覆っておく。やっぱり恥ずかしい。

 ふぅ、とアカルくんが一息。そんな私に呆れたのかどうなのか、読んでいた事典を閉じて、その榛色の瞳を向けてくる。

「それじゃ、その変なこと、とやらを聞いてみようかな」

 

 

 

 前置きの後に、蛍ちゃんが話してくれたことは、確かに変なことだった。それでも丸きり理解できない訳じゃなくて、ただ何か理解できない所がいくつかある。そういう意味で、変なことなのだった。

「ある日ね、お客さんが来たの。若い男の人」

 そう言って、蛍ちゃんは私達が座っていた場所の一つ向こうにある、もう一方の窓辺の四人用の席を指差した。

「あそこの席に座って、まず三つ、ブレンドコーヒーを下さい、って注文してきたの」

「三つ? 三杯じゃなくて?」と今日ちゃん。

「そう、三つ。ウチ、お代わりは二杯まで無料だから、その事も伝えてあげたんだけど……」

 蛍ちゃん曰く、そのお客さんは頑として譲らず、とにかく三つ分のコーヒーを持ってきて欲しいと言ったらしい。

「私ね、それでもその時は、後から友達なんかが来ることになってて、先に頼んだんだと思ったの」

「ふーん、でも冷めちゃわない?」

「そう、だから店のすぐ外とかに居るのかな、って。でもそういったことは一向に無くて、二十分くらい経ってから、その男の人は一人で帰ってったんだ。コーヒーは残さずに三つ分飲んでいってくてたんだけど」

「友達が、来れなかったとか」

「かもしれないけど……。どうだろう、その人、私が見た限りだと、ケータイとかで連絡を取ってる様子は無かったし。ただノートか何かに書きものしてて、あとは時計の方を見て、時間だけは気にしてたかな」

 蛍ちゃんは振り向いて、カフェの壁に掛かった古くて趣深い時計に目を遣る。

「はぁ、まぁそりゃ不思議だなぁ」

「うん、でもこの話にはもうちょっと続きがあってね、その一週間くらい後になって、また同じ人がやってきて、前と同じ席に座ったの。それで、また同じように三つ分のコーヒーを下さい、って」

 ここで蛍ちゃんは声を潜めるようにして、さも重大な秘密を打ち明けるような調子で続ける。

「でもね、それを伝えると店長が残念そうな顔で、今回はお出しできそうにありません、って」

「ははぁ、店としても迷惑だった訳だ。洗う手間も増えるし」

「ううん、それがよく解らないの」

 これには私も今日ちゃんも、ハテナ、の疑問符。

「その時ね、店長が直にお客さんの所に行って何か話したの。そうするとお客さんも頭を下げて、その日は帰ったみたいで。でも次の日にまた来て、同じように三つ分のコーヒーを頼んだの。だけど今度は店長も笑顔で、お代は一杯分で構わない、って付け加えて、三つ分のコーヒーを出したんだ」

 それは、なるほど確かに変なことだ。

「それから、コーヒーを出す時に店長がおかしなことも言ってたかな」

「なんつってたの?」

「えっとぉ、昨日は三つの花が用意できずにすいません、とかなんとか」

「三つの花?」

 今日ちゃんは訊ねつつ、ぱくぱくと。サクランボの乗ったケーキを崩していく。

「うん、私も解んないけど、お客さんはそれで納得してたみたい」

「はぁ、なんかの暗号っていうか、解る人だけ解るメッセージみたいなもんかぁ。じゃあやっぱり、三つのコーヒーもなんか意味があるのかも」

「かもねぇ」

「あ、じゃあさ、例えばこんなのどう? その男の人は、昔から一緒にこの店を訪れてた親友が二人居たんだけど、事故か何かで二人とも命を落としてしまった。男の人は亡き友の為に、その分のコーヒーも頼んでいたのであった」

 どやぁ、と自分で変な擬音を加えて今日ちゃんが、自らの推理に胸を張る。

「陰膳ってやつだっけ? でも、それだとしたら月命日とか、もっと決まった日に来るんじゃないかなぁ? そんな何日も連続して来るのも変な感じだよ」

 蛍ちゃんは頬に指を当てて思案顔。

「むぅ、良い感じだと思ったんだけどなぁ」

 本気で正解を考えていた訳じゃないだろうけど、やっぱりどこか残念そうな今日ちゃん。

 と、ここで蛍ちゃんの休憩時間も終わりに近づいたのか、美味しそうに、コーヒーの最後の一口を飲み切ってから、

「それじゃ、また後でね」と、テーブルを後にする。

 私達はもう少しだけゆっくりしていく旨を伝えて、仕事に戻る蛍ちゃんを送り出す。

 それにしても。

「ザ・スリー・コーヒーズ……」

「ん、めろ、なんか言った?」

 ふんふん。

 私は少しの恥ずかしさを紛らわせるように、テーブルに目を落とす。それを見越したかのように、今日ちゃんの方からフォークが伸びて、ケーキがひとかけ、唇に押し当てられる。

「めろぉ、全部食べる前に交換交換。私にも、ほら」

 むぐぐ、と甘酸っぱさが口の中に広がって。

「んむむ、ん」

 私も自分のロールケーキをひとかけ、今日ちゃんの口の中に放り込んであげて。二人してむぐむぐと、甘くて美味しいケーキを咀嚼中。

 一方で、私の頭の中には、三つのコーヒーなんていう謎が残されてしまって。そして、そういう時はいつだって、つい話を聞きに行きたくなってしまうから――

 

 

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