「こっち、こっち」

 アカルくんを先導して、住宅街の中を歩いてみる。目指すは例のカフェ。一度来ただけとはいえ、そんなに入り組んだ場所でも無いし、普通に辿り着けるはず。

 一方、私の拙い案内に付き従うアカルくんは、表情が読み難いが、これはこれで楽しみにしてくれているのかもしれない。なんてったって、仙狸堂で話をした後で「それじゃあ僕も、実際にそのお店に行ってみたいな」なんて言ってくれたのだから。

 ケーキ、食べたいんだろう。

 ぐっ、と握り拳。いつものお礼に、ここはご馳走してあげようと息巻いた所で、

「ザンクト・マーティン、ね」

 と、アカルくんの声。どうやら前方にカフェが見えてきて、アヒルのぶら下がった看板が目に入ったらしい。

「あのアヒルが目印だよ」

「うん。覚えとく。ちなみにお姉さん、あれ、アヒルじゃなくてガチョウだと思うよ」

 うん。

 うわー。

 恥ずかしい。

「お姉さん、俯いてないで案内してくれないかな。子供だけで入るのは、ちょっとだけ問題があるんだから」

「う、ごめん」と、私はぱっぱと先行してお店の扉を開ける。中は相変わらず落ち着いた空気に、優しい照明。

「いらっしゃいませ。あ、めろちゃん」

 にっこりと蛍ちゃんの笑顔。私は手を振って応える。

「その子がめろちゃんの話してた子? うわぁ、カワイイなぁ、弟にしたいなぁ」

 クラスの女の子の中でも随一の母性愛を感じさせる蛍ちゃんだ。そこは慣れた様子で、アカルくんを優しく席まで案内してあげている。片やアカルくんも、ここばかりはいつもの雰囲気を和らげて、従順な様子で蛍ちゃんに任せている。

「アカルくん、ケーキ何食べる?」

「それじゃ、バウムクーヘンで」さらっと決定。

 オーダーを受けた蛍ちゃんは、アカルくんにミルクとセットにするか勧めてたけれど、ここはウィンナーコーヒーを注文。大人なアカルくん。

 でも。

「にがい」

 と小さく一言。恥ずかしく思ったのか、こちらに話を振りつつシュガーポットから二杯、三杯。

「でも、思った通り、来てよかった」

「ケーキ美味しいよね」

「そうじゃなくて、こっち」

 そう言ってアカルくんは、クリームが溶けだしたコーヒーの方を指差す。違いのわかる男だ。

「それでもなくて……、これだよ、カップ」

「このカップ?」

「そうだよ。お姉さんの話から、ここのお店の人がドイツのコーヒー文化に凝ってるなって思ってたけど、やっぱり食器の方もこだわりがあるみたい」

 アカルくんの指差すコーヒーカップは、確かに綺麗で柔らかい乳白色に、微細な花の絵が描かれている。ソーサーの方も金縁でこちらにも花の絵。

「アカルくん、こういうの好き?」

「好きだよ。キュリオハンターとしても、ね」

 キュリオハンター。骨董趣味、物好き。アカルくんみたいな、物に対する深い洞察力を持った人。

「ドイツはね、コーヒー文化の国なんだよ。イギリスの紅茶と対照的なくらい、コーヒーに関するものが充実してる」

 ようやく飲めるくらいの甘さになったのか、少しずつカップに口をつけるアカルくん。

「海外だとコーヒーカップとティーカップの区別とかは、特に無いんだけど、やっぱり国の文化に合った物を使うのが、一つのこだわりだろうね」

 アカルくんの話を聞きつつ、私も自分が頼んだヤポネトルテっていうケーキをぱくり。

「ティーカップならイギリスのウェッジウッド。そして、こういったコーヒーに使うのなら――マイセンかな」

「聞いたことある……!」

 確かかなり高価な食器とか、なんとか。

「前にヨーロッパの陶磁器の歴史は話したよね。それの続きになるかな」

「確か、スペインが陶芸発祥の地」

「そう。確かに陶器の始まりはスペインだけど、磁器の始まりはドイツなんだよ」

「磁器って、陶器と違うの?」

「カオリンっていう鉱石が含まれてるかどうかで、陶器と磁器に違いが出るんだよ。そしてその価値もね」

 ちん、とアカルくんがカップを置くと涼やかな音。

「特にヨーロッパの王侯貴族にとっては、磁器特有の透明感のある白い輝きは、宝石にも匹敵する価値があったんだよ」

 私は手元のカップを見てみる。確かに、ガラスのように薄くて脆そうだけど、その光沢は水面のように綺麗。

「ヨーロッパだとスペインの他、オランダでデルフト焼っていう陶器も有名だったんだけど、このオランダは十七世紀から東洋の磁器を輸入してきた。お姉さんも知ってると思うよ、中国の景徳鎮や、日本の有田焼とかね」

「日本のも、ヨーロッパに行ったの?」

「そうだよ。当時、陶器しか無かったヨーロッパにとって、白い磁器は夢の品。どこの国も、自国で再現できないかって躍起になってた。そして十八世紀の初め、ドイツのマイセンで錬金術師のヘドガーが白磁の製造に初めて成功した」

「それが、マイセン……」

「その後、磁器製造の技術は広まって、フランスのセーヴルやイギリスのボーンチャイナが生まれ、メーカーだとイタリアのジノリ、デンマークのロイヤルコペンハーゲンなんかも誕生した」

 まさにブーム、という訳だ。

「で、そうした中でも、マイセンは西洋磁器のトップクラスとして君臨した」

 ふんふん、と頷く。

 道理で、私なんかでも聞き覚えがあるはずだ。

「そしてマイセンの図柄も有名だね。さっき言った東洋磁器の影響を強く受けててね、例えば中国風のドラゴンやザクロを描いたブルーオニオン、それから日本の有田焼を真似て作った柿右衛門とかね」

「日本のだ」

「余白を生かした柿右衛門様式は、当時のヨーロッパでも衝撃的らしくてね。マイセンの焼き物も、この柿右衛門の模写を多く行っていた」

 遥か昔、遠く海を渡って日本の物がドイツに行って、そこで作られた磁器がまたこうして日本で使われている。こんな所にも歴史と物のロマンが詰まっているんだと、私は改めて感心する。

「でも次第にオリジナルのデザインも増えてきて、ドイツの花を描いたマイセンフラワーっていうのも人気だよ」

 アカルくんの言葉を受けて、私は手元のカップを見つめてみる。描かれているのは精緻なタッチで再現されたスミレと黄色いバラ。

「もしかして、これ?」

「そう、これだね」

 アカルくんはバウムクーヘンを一口。小さな笑顔が浮かぶ。

「このベーシックフラワーっていう絵柄は、三十六種の花から選んで絵付けされるんだ。さらに、それに花を二つ以上組み合わせたパターンになると、なかなか他では見られないものになる」

「それじゃ、ここにあるのも、他じゃ見られない」

 そういうこと、とアカルくんは蝋細工みたいな指をカップにからませて、すす、とコーヒーを含む。

「それから加えて言うと、一つの器に二種類以上の花を描くものは、花の数によってそれぞれ二つ花、三つ花、四つ花、五つ花って呼ばれてる」

「三つ花……。三つの花?」

 それは確か、蛍ちゃんの話の中で店長さんが話したという意味不明な言葉だったはず。

「あの、アカルくん、もしかして」

「そうだね、お姉さんの話を聞く限り、店長さんが言ったのはマイセンの三つ花のコーヒーカップのことだと思うよ」

 ――三つの花のカップが用意できない。

 だから、その日は帰って貰った。つまり、その男の人の目的はコーヒーじゃなくて、カップを見ること。

「中身じゃなくて、外が大事」

 三つのコーヒーを頼んだのは、コーヒーを三杯分飲みたい訳じゃなくて、三つの別々のカップで出して貰いたいから。

「そうだね。例えば僕みたいな骨董に興味のある人間からしたら、これほど上質なマイセンのカップが揃ってるなら、一度にいくつも見ておきたい」

 でも、それだったら。

「店長に頼めば、良い」

「それはそうだろうね。でも、その人はそれを頼むには少しだけ忍びない理由があった。そして、ここの店長さんはそれも解った上で、次の時には一杯分のコーヒー代で済ませてあげた」

「どういうこと?」

「二回目が断られた理由は、三つ花のカップが、多分他のお客さんに出してるとかで無かったから。ただ見たいだけなら、他のカップでも良かっただろうけど、それじゃなきゃダメな理由があった。例えば、前にその男の人に出した三つのカップの一つがそれだったから」

 アカルくんは訳知り顔を浮かべつつ、鼻先でコーヒーを揺らしている。キザな感じだけど、それが小学生の男の子だと思うと、なんともこそばゆい。あれ、使い方あってるかな?

「綺麗で高価なマイセンのカップが、どうしても必要だった。その図柄にも意味があって、別のカップでは代用ができなかった。それでいて素直に見せて貰うには、少しだけ憚られる理由がある」

「アカルくん、わかんないよ」

「ふふふ」と、ここでアカルくんのくすぐったい笑い声。

「この近くに、美大があるんだよね」

 あ。

 そういうことか。

「模写、するんだ」

「そう、絵を描くのか、それとも染付けの勉強か、最高級のマイセンを手本にしたい美大生がいたんだろうね」

 かつてマイセンの職人が日本の磁器を模写したように、今度は日本の美術家の卵が、マイセンのカップを模写しようとしていた。

「題材として恰好だったのかな。まぁ、資料として購入できるような値段じゃないしね。だからといって、タダで見せてくれと言えるほど厚かましくはなかった。そして、最初の来店で三つ分のカップの絵を模写か何かしたけど、そこで完成はしなかった。店長さんはこの時の様子を見たりしたんだろうね。だから次に来た時、前に描いたものと同じカップが無かったから断った」

 アカルくんの話を聞いて、私はなんだか胸がいっぱいになった。それこそ美味しいケーキを食べたような。

 蛍ちゃんの見た変なこととはつまり、店長さんの厚意によるものだったのだ。

「とはいえ僕の想像だけどね」

 なんてアカルくんは言うけど、これが正解。

 ううん、正解であって欲しい、かな。

「ありがとう、ございました」

 私が頭を下げるのを見て、アカルくんが目を細める。少しだけ困った表情で、コーヒーの底の方で溶け残った砂糖をかき回している。

「なになに、どうかしたのぉ?」

 と、ここで近づいてきたのは蛍ちゃん。

 あのね、と私がことの次第を告げようとした所で、アカルくんは唇に指を押し当てて「ひみつ」のサイン。

 どうやら、アカルくん自身は推理を開陳したくないようだ。店長さんに聞けば解るようなできごと。それならば、もう少しは答えを保留にして謎を楽しもう、と私も蛍ちゃんに対して曖昧な笑顔で応えた。

「ここのケーキとコーヒー、とても美味しいですね」

 アカルくんの満面の笑み。

 いくらかはぐらかしもあるだろうけど、本心からの感想だとは思える、子供らしい朗らかなものだった。

 蛍ちゃんも「ふふ、ありがとう」と、お姉さんというより、保母さんみたいな調子で。

 立ち去った蛍ちゃんを横目に、アカルくんがバウムクーヘンの残ったひとかけをフォークで転がしつつ、しばし黙考。

「その答えは、もしかしたらもう少し後で解るかもね」

 どういう意味かな?

 なんて、アカルくんの意味深な様子に私は首を傾げるばかり。

 それに対してアカルくんの方は、

「美味しいコーヒーは飲みたいけれど、それ以上に見たいカップがあったから。人にとって『何が』必要なのかじゃなくて、『なんで』必要なのかを考える」

 涼やかに、そう言い遂げて。

「そうした時には、いつだって正しいモノ――ライトスタッフ――が傍にある」

 ふわり、とバニラに似た香りが、シーリングファンに煽られて漂ってくる。

「ところで――」

 ここでアカルくん、今までとは雰囲気を変えて、なんだか気恥ずかしそうに、

「お姉さんが頼んだケーキ、一口貰っていいかな」

 と一言。

 うん、いいとも、いいとも。

 あーん、と、そんな子供じみた真似を許してくれるはずもなく、私が頷いたのを見て、アカルくんは優々と自分のフォークにヤポネトルテを乗せて一口。

「うん、美味しい」

 その一言の後、すう、と、アカルくんは自分の方のお皿をこちらに向ける。

 そこにあるのは、バウムクーヘンひとかけら。

 それから宝石みたいに光る、マイセンの白い肌。

 

 

 

「メロウちゃん? どうしたの?」

 お母さんが訊ねてくる。

 食後のテーブルの上に置かれたのは、私の濃紺のマグカップと、ビーグルが描かれた兄のマグカップ。

「たまに、出してあげないと、ダメかなって」

 私がぽつぽつと言うと、お母さんは最初は変な顔をしたけど、後にはにっこりと笑ってくれて。

「メロウちゃん、そういうのは陰膳って言うのよ」

「かげぜん?」

 お母さんは自分の分のコーヒーを入れつつ、残った分を兄のものへと注いでいく。

「それって、死んだ人の為のものじゃないの?」

 だとしたら、ダメだよ。

 そんな私の不安に対して、お母さんは笑って返す。

「そういう使い方もあるけどね、本当は昔からある安全祈願のおまじないみたいなものなのよ」

 言いつつ、お母さんが私の前に座る。

「食事の時にね、旅に出てる人の分も作って出しておくんだって。そうすると、旅先でも無事に食事を取れる、無事でいられる、って、そういう意味なのよ」

 テーブルの上に、私のと、お母さんのと、兄の、三つのコーヒーが置かれている。

 もし今、兄がコーヒーを飲んでいるとしたら、朝食の後だろうか。そういう風に願える為の物だとしたら。たまにはこうして、その場に居ない人の為に、カップを出すのも良いかもしれない。

 私はコーヒーに口をつける。

 あの店長さんの淹れたものには及ばないけれど、これも私の好きな、家族の味だから。

 

 それから少しして、蛍ちゃんから事件の後日談が語られた。

 店長さんの厚意で、マイセンのコーヒーカップを提供されていた男の人は、巧まずしてアカルくんの推理通り、近くの美大に通う学生さんだった。

 題材が良かったのか、講評会でも中々の手応えだった、とその男の人は言っていたそうだ。

 そうして、その男の人の描いた素描は、記念ということで、あのカフェに飾られることになった。そこにあるのは、ドイツの食卓の風景。三人分のマイセンのコーヒーカップで、その場に居ない人々を表現していた。

 タイトルは「家族のテーブル」。

 とのこと。

 

 

〈了〉

 

 

 

《前編へ》