レストレイドは馬車に乗り、懐かしのベイカー・ストリートに着いた。下宿に入ると、あまりにも濃厚なノスタルジアに気圧されてしまった。失礼を承知でハドスン夫人に席を外してもらう。すでに泪は枯れたと思っていたが、頬を伝わるものがあった。それを指先で拭い、散らかった室内を更に散らかす。

 パヴァリア啓明結社、カルボナリ、ヴードゥー……早速怪しげな古書が発掘出来た。科学捜査が魔術に光を当てる現代で、こんな抹香臭い書物を当たったところで進展はないだろう。装丁も立派なものばかりで、その道の者に譲れば、家具のひとつやふたつ買い換えることも可能だ――と邪念が混じったが、レストレイドはそれを振り払った。

 陽の当たらないホームズの下宿は、ありとあらゆるもので溢れかえっていた。あの頃は来る度に「少しは整理をしろ」といった意味の小言を婉曲(えんきょく)的に漏らしたものだ。ちょうどいい具合にカオスな室内が、ホームズという天才の数少ない人間味を表しているかのようで、そこに立っているだけでレストレイドは記憶に足を取られそうになった。

 しばらく調べ、未解決事件のファイル群とそれにまつわる周辺の資料をいくつか拾い上げた。それだけでもたいそうな量になってしまったので、紐か鞄でもいただけないかとハドスン夫人を呼びに部屋を出ようとした瞬間、背後に刺すような視線を感じた。

 レストレイドが長年培ってきた刑事の直感だった。ジトッとした脂汗が額に浮かび、彼は腰のホルスターに手を掛ける。呼吸を整え、ピストルを引き抜き、振り向いた。

「動くな!」

 レストレイドの一声に男は素っ頓狂な声を上げて、二歩、後退った。

「ま、待った。待ってくれ。撃つんじゃない……」

「手を上げろ! 上げるんだ!」

 鬼の形相で闖入者(ちんにゅうしゃ)をホールドアップし、青褪めた顔の男を(ひざまず)かせる。

 男は、仕立屋でつい五分前におろしてきたかのようなパリっとした鼠色の背広を羽織り、型の崩れ気味な洒落たフェルトハットを被っていた。深みがかったふたつの黒い眼球が、狼狽(うろた)えてキョロキョロと忙しなく動いている。年の割には痩せ過ぎているが、一目見てわかる典型的なアメリカの白人だった。そいつは、早口でまくし立てる。

「ちょっとヤリすぎて、トビが去るまで三日ほどベッドの下に隠れたんだ、そこのサイドテーブルに溜まっていたコカに、ラム酒を多めに混ぜてみたんだがね。最初はすこぶる良かったんだが、効き過ぎたみたいで……そんな時に、ああ、ポリスか? アンタがこの部屋に入ってきたもんだから、出るに出れなくて……そう、腹が空いたよ。床の埃以外三日間飲まず食わずだ。ピザはないか? オリーブは抜きで……」

 神経質なのか、衰弱しているか、妙な痙攣を起こしながらアメリカ人は早口でまくし立てた。怪しさを通り越して恐怖すら感じさせる挙動だ。話している内容も、理知的な言葉遣いの割には随分とけったいなものである。

「今回は幻聴が無かった……譫妄(せんもう)の類は見られなかったな、血圧の上昇と、そう、気分の高揚が主だ。それもそうだ、クラックを飲んだ時に近いかもしれん。分量を間違えなければ、晩酌にだって勧められるね、ポリスのおじさん……」

「お前は誰だ、名乗れ」

 おお、止めろ、撃つな……と男は呻いた。

「俺か、俺はビル。ビル・バロウズ……本名のほうがいいか? ウィリアム・シュワード・バロウズ・ジュニアだ。小説を、一応……書いている。親友にはリー、もしくはゴーストと呼ばせてるんだ。勿論、ここの主人も便箋にはそう書いていた」

 そういって血反吐でも吐くかと思われるように、二三咳を吐いた。死がまとわりついたような絶望的な咳だった。ただでさえ皺の寄った紙を引きちぎるような特徴的な声をしているので、更に歳の見当がつかなくなった。

「ホームズの、友人か?」

 いくらホームズ自身が奇人とはいえ、このさながら癲癇(てんかん)持ちの男との節点は見当たらなかった。

「ああ、知ってるとも。面白いヤツだった……懐かしいな。俺が南米原産の幻覚性サボテンを、ヤツに安く売ったとき……ガキみたいに喜んでいたのが、ついこの間みたいだ。あの時は俺も金がなかったから、ヤツに救われた形だな」

「何故、ここに? 不審者紛いじゃないか」というより不審者だ。

「なあ、いくらでも喋るよ。気分は良くないが、最悪でもない。まずは、下ろそうじゃないか。ピストルを……西部劇(ウェスタン・ランド)遊びは嫌いじゃないがね」

 レストレイドは、一度ためらってから、ピストルをホルスターに仕舞った。

 

 リーと名乗る小説家のアメリカ人は、米国のミズーリ州出身、四十五歳。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジという土地に、友人が多くいる――らしい。

 各国を転々としながら、甲虫のような形状のタイプライターを用いて小説を書き、その印税と親からの仕送りで生活している。自他共に認めるくだらない脛齧りだというが、個性的な喋り方と仕草には、慣れてしまえば、どこか惹きつけられるものがあった。

 長らくモロッコのタンジールという土地で合成薬物の売買や、害虫駆除業などをして暮らしていたらしいが、去年の暮れあたりにホームズから急を要する電報を貰い、それを機に英国にやって来たという。だが、電報を受けたはいいものの、渡英するだけの旅費が用意できず、友人や親類からせびって、先週の始めになってやっと友との約束を果たせたらしい。途中、何度かそのことすら忘れていて、借りた金が丸々ドラッグの買い足し費用に飛んだこともあったという。

「いや、驚いたよ……まさか、あのホームズが死んだなんて……頭の使いすぎか、もしくは肺でも病んだのかと思ったら、滝から落ちたなんてな……イギリスにはそんなに危険な名勝があるのか?」

 先程の古書の山に腰掛け、虚空を見つめながらリーは話す。勝手気ままでありながら、妙に機械的な語り方をする男だ。自分の履物に付いたゴミを凝視しながら、リーは続ける。気付かれぬようレストレイドが立ち去っても、三日ほどは止まらず喋り続けそうな気配すらある。

「落ちたのはスイスの滝だ」レストレイドが訂正する。

「あいつはスイス人だったのか? まあ、いいさ……とにかくこの街は臭いな。来て早々、人糞を踏みそうになるなんて、メキシコでもなかなかないぞ……」

 レストレイドは植民地であった米国民からの辛い評価を受けて、心中穏やかではなかった。外面通り、保守的な人間なのだ。

「悪かったな、不衛生で」

「構わないさ、どうせ外国人は困らない。自国民よりは……」

 返事のしようがない返事をしてリーは紙巻煙草(シガレット)に火を点けた。深く吸い込み、眼を白黒させて首を回した。それにも何か混ぜているのだろうか。

「しかし、ホームズは、リー。何故君を呼んだ」

「切り裂きジャック事件を……ヤツから、ホームズから頼まれた」

「何だって? では、あなたも探偵業を?」

「日銭を稼ぐためにしていたこともあったが、本職を前に胸は張れんよ」

 何が飛び出てこようと君に感心することはないだろうと、レストレイドは告げようとしたが止める。

 室内に立ち込める紫煙で、リーの顔が時折ぼやける。やけに煙の濃い煙草だ。リーは空いている手の方で背広の内ポケットをまさぐり、汚れた電報を差し出した。レストレイドが眼を通す。走り書きであったが、筆跡は間違いなくホームズのものだった。リーことウィリアム・バロウズを捜査に加えることを、強く進言している。

「確かにホームズのものだ」

「あいつは、嘘は吐かない……多くを語らないので、周りが混乱していたがね……」

 リーはなかなか知った風な口を叩くものだが、実際ホームズはそういう節がある男だったのは間違いない。そろそろ友人であるのは認めてやるべきだ、とレストレイドは折れた。

 レストレイドは思わず溜息を吐く。切り裂きジャックに関して猫の手も借りたいほどに忙殺されている最中、あのホームズが見兼ねて天国から遣いを寄越してくれたのだ。感涙にむせび泣き、ますますこの下宿と彼の墓には足を向けて寝られなくなったわけだが、それがどうしてこんな気狂(きちが)いでなければならなかったのか。他にも幾千と有識者や知識人の知人はいただろうに。

 リーはレストレイドの顔を伺いながら、もう一度「飯が要る……」と深刻そうな声音で呟いた。事実、深刻なのだろうが。

 こうなったら自棄(やけ)だ。どちらにせよ、ここ数日とて相変わらず逮捕に繋がる有力な情報は上がっていない。ホームズの手紙が本物なら、この男は最初で最後の遺言になる。本当に猫の手を借りた心持ちで、この男を相棒に侍らせてみても悪くはないか――流石に、書類をくわえて立っているくらいのことは出来そうだ。

 レストレイドは腹を決めた。眼には眼を。殺人鬼(マーダー)には、中毒者(ジャンキー)だ。

「わかった。リー、宜しく頼む」

「ああ、宜しく……」

 それで、アンタ、何て名だ? とリーが問い、レストレイドは名乗ったが、ホームズからそのような名を聴いたことは一度もないという。

 レストレイドはリーの記憶力のせいにするか、さもなくば聴かなかったことにした。

 

 不躾(ぶしつけ)ながらハドスン夫人に簡単な軽食を出してもらい、自称小説家兼侵入者は人心地つけることとなった。音を立ててサンドイッチにがっつきながら資料に眼を通すリーと、紅茶を啜って煙草を噛み、同じく資料を読み返すレストレイド。形だけなら簡易捜査本部だ。

 ハドスン夫人は、リーを招き入れたところまでは憶えているが、てっきり途中で帰ったものと思い、着の身着のままのリーを見て驚愕を超え身が(すく)んでいた。それでも長年奇人に慣れ親しんでいる女傑は、リーの挙手を見越して五枚目のパンを差し出す。リーが紳士なのは、恰好だけだ。何の副作用かは知らないが、思春期の少年ほどによく食べている。

「切り裂きジャックのものと推定されている事件で最も古いものは、(さかのぼ)ること去年の十二月下旬……腹部を杭で突かれた女性、フェアリー・フェイの事件に至るという説もある……か」

 リーがパンを咀嚼しながら資料を音読する。資料を閉じ、レストレイドの方を見て、言葉を紡ぐ。

「まだ当時は生きていたホームズが……海軍の機密文書を巡る事件を追いかける傍ら、いつも通り奇怪な事件に関するアンテナを張り巡らせていたんだ。切り裂きジャックにまつわる何らかの糸口を掴んでいても不思議ではない……」

「まあ、そういうことだな。ホームズの眼には、充分に引っ掛かる珍事だったろう」

「杭というのがまた冒涜的だ。見立てるにしても悪趣味だね……」

 時折、思い出したように知性のかけらを投げつけてくるのが、この男の癖らしい。

「何にせよ、ヤードはその事件を切り裂きジャックのものだとは断定していない」

「何故だ……?」

「『イーストエンド近辺で、娼婦が喉を裂かれて殺される事件』という線で絞ると、浮かんでくるのは四件だ。それと、二十七日付でこんな手紙が、セントラル・ニューズ・エージェンシー社に送りつけられた、リー、知っているかね?」

「ディアー・ボスの手紙か……それなら俺も読んださ」

 胸糞悪い文章だった。初見時、レストレイドはあまりの怒りで、ろくに眼を通していないその日の朝刊を破り捨ててしまった。

 親愛なる編集長殿――から始まる切り裂きジャックからの手紙は、間抜けな警察を愚弄する文章から入り、自身が売春婦に怨恨を持っていることを明かし、巷間に流布している自分の呼び名を、「切り裂きジャック」というもので統一するよう呼び掛ける。そして何より、「次の仕事ではレディの耳を切り取ってやる……」などという凄惨な犯行予告で締めくくられていた。

 事実、その直後に殺害されたキャサリン・エドウズは耳を傷つけられており、この手紙の信憑性は一気に増すことになる。世間は切り裂きジャックという名を認知することになり、同時に「私が切り裂きジャックだ」というふざけた電話がヤードに度々寄せられることとなった。

 誉れ高き大英帝国女王陛下(ハー・マジェスティ・ヴィクトリア)の臣民が、聞いて呆れる愚行である。

 十二分にサンドイッチを堪能したリーが、腹をさすりながら灰皿を手許に寄せる。さっきの紙巻煙草をもう一本取り出し、火を点けた。赤く燃える小さな火が、徹夜明けのレストレイドにはダブって見えた。この件が済んだら、少し休む必要がある。

「それで、こっちが三十日の事件を予告した、切り裂きジャックからの第二の手紙……を載せた記事だ。消印は十月朔日(ついたち)

 記事を手渡し、リーが声に出して読む。

「明日になればこの小粋なジャック様の仕事ぶりにお目にかかれることだろう……今度はダブルイベント(二本立て)だ……か。高慢ちきな野郎だな」

 皿を片付けていたハドスン夫人が咳払いをした。ついでに、彼女は気付いたことを口にした。

「ですが、消印が朔日でしたら、三十日の事件を知ってから書くことも可能ではないでしょうか。私も、朔日の朝刊で読みましたもの」

「気付かれましたか、夫人」

 鋭い指摘だ。九月三十日、レストレイドが小雨降る中、馬車を駆ったエリザベス・ストライドとキャサリン・エドウズの事件(ダブルイベント)が新聞報道されたのは、翌朝の十月朔日の朝刊である。この惨劇を新聞で読んだ赤の他人が、面白がってジャックを騙り、新聞社に送りつけた可能性も有り得るのだ。二十七日の記事とは信憑性が格段に落ちる。

 民衆に玩具を渡したのは警察の不手際だが、ここまで人間が低きに流れるものとは、楽観や日和見とは縁のないレストレイドも思わなかった。英国民は、もう少し思慮(リテラシー)があるものと思っていた。

「リーはどう思う」

 呆けた顔で煙草を吸いながら、眉間の皺を寄せて難しい表情を浮かべる器用な男に意見を伺う。小手調べの意味も多分にあったが、返ってきた答えに閉口した。

「……言語とは、本質的には、宇宙から来たウィルスだ。盟友のローリー・アンダースンともその件で幾度か話した……意志の上部に言葉があり、我々は世界を言葉で認識している……ウィルスは媒介する。さながら爆発した切符のように、地表を覆い、我々を白痴の傀儡人形か、複製された機械仕掛けの黒んぼに仕立て上げる……いずれ我々を、意識の乗り物として見る者が出てきてもおかしくない……そこで俺がかのブライオン・ガイシンから教わった技法が功を奏すのだ。カット・アップ。手法は簡単だ。雑誌や新聞を縦横無尽に切り刻み、アトランダムに貼り付ける。破壊されたグラマーが全く新しいイクスプレッションを産み出し、我々は我々をたらしめている全宇宙的な管理から逃れることができる……そうだな、近いものはコラージュなどといった――」

「ちょ、ちょっと待ちなさい。リー。何の話だ」永遠に続くゼンモンドーか。レストレイドは思わずハドスン夫人と眼を合わせた。

「言われた通り、思っていることを口にしただけだ」

 ということは、レストレイドの話はほとんど聴いていなかったわけである。

「宗教の勧誘ならお断りだぞ、リー。私たちは切り裂きジャックを捕まえねばならない。寝惚けないでくれたまえ」

 強くいさめたつもりだったが、

「よく眠れたさ。ベッドは上だったが」

 ――変わらず飄々としていた。

「そうか、それは良かった……」

 レストレイドは溜息を隠しきれなかった。故人には悪いが、会話が通じるかも怪しい相手を送り込んだホームズに、(いささ)か殺意が湧いた瞬間だった。

 

 ホームズの下宿を図々しくも借りて仮宿としたリーと別れ、レストレイドは聞き込みのためにイーストエンドの襤褸(ぼろ)アパートへ向かった。途中、捜査本部に寄り、忙しなく飛び回る局員たちを見て現実の時間に引き戻された。リーの調子で生きていたらそれは長生きできそうだが、真っ当な仕事に就くのは難しそうだ。

 ウェスト警部補の襟首と乗合馬車を捕まえて、芳しくない捜査の進捗具合を聴きつつ、惨劇の十字路へ向かった。

「有力な容疑者がふたり上がりました」

 ガタガタ揺れる馬車に身を任せつつ、渡された資料に眼を通すレストレイド。見覚えのある男が写っている。眉間に皺を寄せるレストレイドを見て、ウェストが身を乗り出して話しだす。

「兼ねてから当局にマークされていた、ロシア人医師のマイケル・オストログです。殺人の前科があります。次の……はい、それですね、エアラン・コスミンスキー。少々キ印の入った男でして、病を移された経験から売春婦を酷く憎んでいました。イーストエンド在住で、エリザベス・ストライド殺害とほぼ同時刻、黒いコートにフェルト帽で付近を走り去っていくのを見かけたものがいると」

「証言の通りだな」

「コスミンスキーは昨晩に任意出頭させ、マクドナルド警部補が応対しました」

「何か出たのかね」

「特別何か得られたわけでは……僕も立会いましたが、ペーパーバックを読み漁るのが趣味というかライフワークのようで、かなり空想に浸っているところが見受けられましたね」

「おかしいヤツにありがちな傾向だ」

「かといって、それが証拠になるかは怪しいですね。責任能力が無いことは、むしろ訴追を免れる起因になるほうが多いので」

 レストレイドは、人間の言葉が通じるウェストに、有り難みすら感じていた。

 下宿を出る直前、レストレイドはリーを連れて行くべきかしばし迷った。ホームズのお墨付きである上に、隣を歩くのを許したのはレストレイド本人だったが、未だに拭えない不審感があった。これで大事な物的証拠でも失くされた日には、地獄までホームズに恨み節を叩きに行かねばならない。

 古臭い趣味をしている割に存外考え方は常に先進的であったホームズは、現場を重んずる現代の科学捜査を強く信頼している男だった。それと同時に、時に安楽椅子に腰掛けてパイプとコークと新聞記事だけを頼りに、事件の真相を糾明せんとする特異な技も持ち合わせていた。どうせリーの痩せぎすな体躯では、連れ回しても七面倒な弱音を吐かれるだけだろう。彼にどれだけの推理力があるか、腕試しのつもりで訊くのも手だ。

 そういう経緯もあり、こちらはこちらで多少心許ないが若手のウェストを選んだ。

 そうこうしているうちに、ホワイトチャペルに着いた。

 まだ昼だというのに、なんと陰気臭い場所か。破落戸(ごろつき)がゴミの中から吸殻を拾って口にくわえ、胸元を強調した痘痕(あばた)だらけの娼婦が路毎に眼を光らせている。汚泥と糞尿がこびりついた壁の模様は、まるで(わら)っている悪魔の顔だ。これでは切り裂きジャック事件の真相は、実は幽霊の凶刃であったとするくだらない巷の噂も真に受けてしまいそうだ。

 路地裏にまわる。窓が無く、どれも同じく見えるアパートの中から目当ての住所を探し当て、軋む階段を上がる。木賃宿とさして変わらぬ外観のドアではあったが、一応、ドクター・オストログと銘打たれていたし、共同トイレも同じ階にあった。

 ウェストにノックさせる。

「――失礼、ロンドン市警ですが」

「な、何だ。免許は持っている。モグリじゃないぞ……」

「いえ、イーストエンド近辺での連続殺人事件について、少々伺いことが……立ち話も何ですから、少々お邪魔させてもよろしいかな」

 しかめ面で応対したオストログ。医者にしては随分と顔色が悪いものだ。ごわついた髪の張り付く禿頭の男だった。

 殆ど突入する形で無理矢理部屋に踏み入る。前科者に容赦する必要もない。

 オストログの部屋は思った以上に整頓されていた。部屋の中央に鎮座するベッドは手術台も兼ねているのか。居住スペースに無理矢理(しつら)えたようで不恰好だが、ドヤ街にしてはましな設備であろう。あとは、医療器具を置いた食器棚、簡素な台所しかない。

 レストレイドの観察眼も腐ってはいない。ホームズの慧眼には劣るが、長年警部を勤めてきたという経験に裏打ちされた自負がある。

 この男が切り裂きジャックであるならば、返り血を受けたはずのコートを始めとする、シゴト用の衣服をしまう収納空間が必要だ。一見したところでは、それらしきものは見当たらない。後から収納を増やすといった自由が効くような土地ではないだろうし、その費用が捻出できるのであれば、たとえ前科持ちとはいえ、もう少しマシな家に越すだろう。

 咳払いとともに部屋を眺めていたレストレイドに、オストログが冷や汗を垂らして話しだす。

「もしかして、切り裂きジャックのことか……よしてくれよ、本当に知らないんだ。たしかに、口論になって離婚裁定中に妻を絞めちまったことはあるが、あれはとっさの……その、事故だ。もう終った事件じゃないか。オレにそんな、バラバラ殺人なんて大それた真似が出来るか! 娼婦なんて買いやしない、一日の癒しは薄めのジンだけだ」

「まあまあ。お時間は取らせませんよ。二三、質問するだけです。座って、どうぞ」

 ウェストが着席を促し、レストレイドはわざと億劫そうに帽子を取った。こういった一挙一投足が重要なのだ。レストレイドが部屋に来てから初めて、重い口を開く。それに合わせてウェストも手帳を開く。

「さて、先月、九月三十日の夜ですが貴方はどちらにおられましたか?」

 レストレイドのバスのかかった渋い声に、気圧される藪医者。

「オ、オレは患者を診てた。ヤンっていう中国系の、娼婦だ。避妊薬を出してやってるんだが、生理不順で客が取れなくなるのを嫌ってろくに飲みやしないんだ。だけど待ってくれ、こんなことでオレは娼婦に恨みなんか持ちやしないからな……」

「ふむ、そうですか」

 レストレイドは曖昧な返事で出方を見る。狼狽えている以外は特に興味深い仕草を見せない。今のところは、シロである。

 ウェストに一瞥(いちべつ)をくれる。彼もこちらを見た。あとで裏を取るように指示しろ、というのが伝わったらしい。その際に、食器棚の下に押し込まれるようにして出来た本棚が眼に入る。使い込んだ医学書と数冊のペーパーバックがあるだけだ。珍しくもない。

 その後もいくつか質問をしたが、面白い反応は返ってこなかった。確かに必要以上に周章狼狽(しゅうしょうろうばい)ている様子は見られるが、有力な証言とまでは行かない。いくら強引に起訴し、証拠をでっち上げたとて、勝訴は勝ち取れないだろう。

 小一時間問い詰めた後、レストレイドたちは外に出た。汚臭が鼻につき、外出の開放感など皆無であった。

「どうでしょうか、レストレイド警部」

 ウェストがメモをめくりながら、語りかけてくる。年季の入った観察眼を披露してやるつもりだったが、得られた情報はウェストたち捜査員が事前に集めたものとさして代わり映えはしなかった。

「正直言って、さほどの情報は得られなかったな。どこにでもいるボッタクリの医者だろう」

「ですね。確かに証言から得られるものはありませんでしたね」

「君はどうなんだ? 何か気付いたかね」

 ウェストも首を横に振るものと思ったが、意外に何か言いたげであった。

「大した発見ではないのですが……」

「いいさ。そういうものが解決に繋がる」

 言いにくそうにしていたから、余程のことかと思っていたが、内容は拍子抜けであった。

「シェリングフォード・シリーズを御存知ですか、警部。そのペーパーバックが容疑者の部屋にあったな、と」

「ん……? 何かと思えば、小説かね」

「いえいえ、本当に、大したことではないので。コスミンスキーも読み込んでいたと自供していたものですから、妙に覚えてしまっていたのです。それより警部、この後は……」

 慌てて話題を反らしたウェストから察するに、ウェスト自身もその小説のファンなのだろう。だから妙に頭にこびりついてしまったのだ。レストレイドとて、さして鋭い意見を述べたわけではないが、ウェストがあまりに些末なことに注目していたので、彼のなかでこの若造に対する評価がだいぶ下がってしまった。とはいえ、

「まあ、そういうことも大事だよ、ウェスト君。一応メモしておきたまえ」

 

 と大人らしく対応した。

 

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