――事件開始――

 

 一切は泥のようにゆっくりと流れた。ソアラ王女の声なき悲鳴が漏れた。呑みこまれた息が小さな喘ぎとなって響いた。

 不測の事態、守るべき王女の危機。エルネルドとウィンザックは独楽のように翻ると、その凶漢の姿を見た。羽交い絞めに王女を捕える覆面の男が、細く小さな体をぐいと締め上げて、その首筋に小さなナイフを突き立てている。その頼りない刃渡りは、少女のか細い喉首を掻き切るには十分に過ぎた。

「動くな!」

 男が叫んだ。震える王女の体がびくんと大きく脈動した。汚れ一つ無き滑らかな喉を、震える切っ先が舐める。エルネルドは加速する思考と、反比例に鈍化した現実とに狼狽しながらも状況を認識した。ソアラ王女が、捕えられている。守るべき姫君が、手に入れるはずだった王女が、謎の暴漢の手に捕われ儚い命を握られている。

 何もかもがエルネルドの賢しい計算の埒外であった。目の前の男は、事前に雇っておいたごろつきの仲間では決して有り得ない。背の低い家々の屋根の上から飛び降りた男は、明確な決意と覚悟をもって、断固として王女の身に仇を成そうとしていた。

 瓦解する皮算用に現実味を失うエルネルドの視界に、もう一つの非現実が映っていた。銀色の光が空間に流れた。その残像だけがエルネルドの視野に過り、脳が認識し直してようやく何かを判別する。

 それはウィンザックだった。放たれるように動き出した白銀の騎士の軌跡を、茫然と立ち尽くすエルネルドの両の眼が追っていた。眼前の光景と現実の状況とがゆっくりと擦り合わされていく。王女に組み付いた短刀の男は、ほんの一瞬前に現れたはずだった。だが、ウィンザックの重厚な鎧姿は、既に男のすぐ目の前にまで至っていた。

 下手人の眼が驚愕に見開かれる。緊張に強張っていた右腕が、手に握られた刃物が、しゃっくりのように一つ揺れた。余りにも早すぎるウィンザックの動きが、予想の外の動揺を生んだ。その時、凶漢とエルネルドの見解が一致した。ウィンザックは、この鎧に身を包んだ騎士は、闖入した凶漢が王女に手を出した瞬間から、既に動き出していたのだ。一切の迷いなく、反射のように正確に。

「動くなってのに」

 男はまともに声を上げることも出来なかった。格子状の兜の奥から、獣の眼光が睨んでいた。鈍重な金属塊が滑らかに腕を振り上げ、殺人的な質量で迫って来る。男の眼と指先に一瞬の迷いが過り、すぐにその切っ先は襲い来るウィンザックに向けられた。そしてその逡巡が命取りとなった。

 爆発的な音がウィンザックの喉から響いた。尾を引かない瞬間的な気合いの炸裂だった。陽光を反射する金属の腕が振り下ろされた。騎士は剣を抜くことすらせず、篭手に包まれた握り拳を遠心力のままに落とした。見開かれた男の眼の中で、ウィンザックの拳がどこまでも大きくなっていった。骨の砕ける鈍い音が響いた。

 ぐるりと残った方の目を回した男は、もう意味のある言葉を発することは無かった。喉から絞り出すような悲鳴だけが後に残った。

「ウィンザック」

 エルネルドは色を失って呟いた。ウィンザックは拳を下ろし、凶漢はゆっくりと後ろに倒れ、王女は蒼白の顔で虚空を見た。一瞬の出来事だった。

「王女、ご無事ですか」

 ウィンザックが震える王女の身を案じたが、ソアラの震える歯の根は何の言葉も紡げなかった。だが、幸いにして外傷は無い。

 エルネルドの頭で巻き戻された映像が、ようやく物語を伴って理解される。突然現れた手練れの犯罪者が、王女に刃物を突き付けて脅迫して来たこと。それに一切耳を傾けず、迷わず殴打して撲殺したウィンザック。ナイフの男の躊躇は、元から王女を殺すつもりなど無かったことを示していた。か弱き女性を盾にした下手人よりも、それを一切意に介せず攻撃したウィンザックの方がよほど恐ろしく思われた。

 弾む心臓に呼吸が乱れた。何も出来なかったエルネルドの方が肩で息をし、務めを果たしたウィンザックは昂ぶりながらも落ち着いていた。兜に覆われたその表情を窺い知ることは出来ない。エルネルドは改めてこのウィンザックという男を見た。苛烈なまでの忠義に身を染め、主の危険すら顧みない果断を持って敵を殺める。お伽話の騎士道物語に染まったはずの狂人は、役目の時までただひたすらに己を研ぎ続ける剣であった。騎士道という幻想が生み出した、実体の化物であった。

 エルネルドの脳がずきずきと痛んだ。思考を放棄しようとする感情と、それを律する理性とが争い合う痛みだった。ふと目を逸らして宙を泳いだ視線が、路地の壁に伸びるその男の影を認めた。

「ウィンザック、上だ!」

 エルネルドの叫びに、ウィンザックが瞬時に身を伏せた。鎧の擦れあう耳障りな音の中に、鋭い衝突音が混じった。

「チィーッ」

 大袈裟な舌打ちが頭上から響いた。続く、風を切る幾つかの音が、エルネルドを地面に這いつくばらせる。引いていた汗が再び溢れ出る。さっきまでウィンザックの頭があった直線状の石壁に、伏せたエルネルドの鼻先に、数本の鋭利なナイフが突き刺さって揺れている。一行が詰まった路地の、背の低い家の屋根上から、その影法師の主は的確な狙撃を仕掛けて来ていた。新手だ。

 敵は一人では無かった。そして仲間の失敗と状況の悪化を見るや、すかさず二の矢を放って来たのだ。先の凶漢が飛び降りて来たのも頭上ならば、痛烈な投げナイフが放たれたのも屋根の上からだ。一刻も早くこの場を抜け出さなければならない。だが、震えるエルネルドはヤモリか何かのように石畳に張り付くだけだった。

「王女ッ!」

 主をかばうように立ち塞がったウィンザックは、頭上の刺客に眉を顰めた。逆光だ。計算か偶然か、太陽を背にしたその男を、ウィンザックは網膜に捉えることが出来ない。光に滲むシルエットが振り動かされる。金属と金属のぶつかり合う音を伴って、ウィンザックの体に衝撃と鈍痛が走った。鎧の右肩を強打し、足元に転がり落ちたのは拳小の丸い金属球だった。

「この辺で降参したらどうだい、どうせ給料安いんだろ?」

 刺客の声はうんざりしたような余裕を含んで響き渡った。追い打ちの金属球が何度も身を打ち据えるのにも怯まず、忠烈なる重装騎士は両の腕で頭を守って立ち続ける。

「やれやれ、こんなタフガイが居るなんて聞いてないぞ。おかげで哀れな子分が一人犠牲になった」

「一人では済まさんぞ、下郎」

 不動の意思持つ盾と化したウィンザックに、呑気で馴れ馴れしい声がかけられた。逆光の男は大仰に肩をすくめてみせる。人を食ったような笑いが、決死の形相で牙を剥くウィンザックを嘲弄している。

「よしてくれよ。俺の采配で部下が死ぬってのも切ないもんだぞ? ああ、哀れなオロールくんや、ちょいとばかし運が無かったな。仇を討ってはやれないが、目的は果たせそうだからまあ安心して死んでくれ」

 男の長広舌がつらつらと回る裏で、王女の小さな悲鳴が聞こえた。ウィンザックは己の失策を悟った。いつの間にか背後に現れていた大男が、一掴みに王女の体を捕まえていた。

「ようし、ご苦労だサムソン。姫をこっちによこせ。ああ、ゆっくり上がって来ていいぞ。どうせこいつらはしばらく木偶だ」

 岩のような体をした褐色の大男は、無表情を動かさぬまま命令に従った。王女の体をひょいと持ち上げて屋根の上の親分に放り渡す。受け取った男は手際よく王女にくつわを噛ませると、右肩に担ぎ上げる。滑らかで淀みのないその動作が、男達の熟練の証左となる。

「キサマらッ!」

 叫ぶウィンザックだったが、その体が動くことは無かった。頑丈な板金鎧が、猛き騎士道の象徴が、糸の切れた人形のようにつんのめって倒れ伏した。地に横たわる甲冑がもどかしげにもぞもぞともがく。

「うおおあああ!」

 足掻く甲冑から発される怒声が、騎士の激しい焦燥を伝えた。しかし、棒のように固まった肘と膝が曲がることはない。這いつくばったエルネルドは、ウィンザックの堅牢なる鎧の隙間に、金属球の飛礫が的確にはまり込んでいるのを見た。関節部位を狙ったたった数発の投擲で、ウィンザックの行動能力は奪われていたのだ。

「立派な全身鎧だ。良く手入れされているし、着装も実に丁寧だ。行き届き過ぎて、わずかな歪みでも動けなくなる程にな。何事も、ちょっとぐらい緩い方がいいってことさ」

 男は得意気に勝ち誇った。その横に現れたフードの仲間が、サムソンと呼ばれた大男にロープを投げて引き上げた。やや小柄ではあるが、目深に被った頭巾の中からは言い知れぬ殺気が漂っている。腰に佩いた刀剣の鞘は一際に大きく、外套の隙間から突き出たそれは緩やかな曲線を描いていた。

 サムソンと呼ばれた褐色の大岩。妙な剣を持つフードの曲者。そして、王女を担いだ逆光の男。三人のならず者が、高みから二人の騎士を見下ろしていた。悪漢達は姫君を召し捕って立ち、エルネルドとウィンザックは地に這いつくばる。勝敗は誰の目にも明らかだった。

 その時、太陽が雲間に隠れた。地に伏したエルネルドとウィンザックは、王女を担いだ男の姿をはっきりと見た。うっとうしい前髪と無精髭に覆われた顔の中に、深い自信と実力を宿した、凄腕の荒事師の姿を。

「便利屋、イシュタル……!」

 頭の中で合点し、思わず呟いたエルネルドに、男は、便利屋イシュタルは興味深そうに頷いた。

「なんだ、知ってるのか。俺も有名になったもんだな。……ならこれもわかってるだろう。俺は、受けた仕事は必ずやり遂げるって評判で飯食ってるのさ」

「なぜ、他国のならず者がソアラ王女を」

「おいおい、あまり深入りするもんじゃないな。お前さんはそうやって芋虫のまねをしてればいいのさ。腰抜けは腰抜けらしく。その方が長生きできるぞ」

 大男の急かすような睨みにイシュタルが頷くと、二人の仲間は踵を返して去って行った。密集した住宅街を、屋根から屋根へと跳んで伝って行く。親分もそれに続いた。

「御機嫌ようヒマワリの諸君。王女様はいただいて行く」

 白昼堂々の出来事であった。太平を貪るリューガル王都アレスティアにて、突如としてその事件は勃発し、関わった者達の人生を永遠に変えてしまったのだった。

 

 

10

――事件開始、十分後――

 

 エルネルドの思考は空転を続けていた。何もかもがあまりにも唐突であった。

 王都の光景は常と同じく長閑で愚かで、エルネルド一人だけが別の世界に降り立ったかのように絶望を目に浮かべていた。突っ伏す伊達男に集まって来る野次馬が、彼をこの上なく不快にさせる。

「畜生、畜生」

 エルネルドの言葉が宙を泳いだ。斜に構えた知恵者という立場で世界と接して来たエルネルドには、自分が混沌の渦中に叩き込まれたことが不条理としか思えなかった。どうして噂に聞いていた他国の便利屋が王女をさらう。王女を奪われた責任は自分達が取らされるのか。あの男は、ウィンザックはなぜああも迷わず行動出来る。虚ろな自問に答えは返らない。

 エルネルドは茫然と自分の吐瀉物を見下ろした。エルネルドは、生まれて初めて殺意をもって人間が殺される様を見た。表情を兜に隠したウィンザックの殺人は、大仰で劇的であった死のイメージをあっけなく破壊した。騎士道馬鹿と見下しつつも、純粋で愚昧な騎士ウィンザックというレッテルに安心感を覚えていたエルネルドは、正々堂々たる騎士の豹変に愕然とした。夢想家であるはずのウィンザックは、あまりにも冷徹に効率的に外敵を排除してみせた。虫を殺すかのような他愛の無さで。

 何もかもが掌の上だったはずの世界は、エルネルドの傲慢をきっぱりと拒絶した。理は月齢よりも容易く移ろい、エルネルドを冷たく見下ろしていた。数分前までの世界の常識は打ち砕かれ、変貌する現実はあまりに不条理で脈絡無く映った。

 だが、エルネルドは自らの感情も解せないほど愚かにはなれなかった。状況の急転よりも、ウィンザックの本性を目の当たりにしたことよりも、たかが殺人にこうも衝撃を受けているという事実が何より重く圧し掛かっているのだ。賢く残酷な野心家という自意識は、本物の殺し合いの前にすっかり尻尾を丸めて萎縮していた。その事実を認めたくない思いが、動揺の理由を他者に転嫁させていた。

「やい旦那、何事ですかい!?」

 見覚えのあるごろつき共が慌てた顔で現れた。手筈通りに王女を襲うフリをしようと現れたのは、エルネルドが金で手懐けておいたならず者達だった。狂言暴漢達は、不測の事態に顔を見合わせてきょろきょろと様子を窺っている。粗野で、愚かで、流されやすい。エルネルドが期待していたのはこういう種類のクズ共だった。

「くそっ。予定変更だ。お前ら人数を集めろ」

 その言葉に目に見えて動揺が広がる。エルネルドは口を滑らせたことを悟った。ごろつきの目が、路地裏の死体やエルネルドの口元を泳ぎ、やがてにやりと下卑た興味の笑いに変わる。

「おやあ、旦那ぁ、思い通りに行ってねえみてえですなあ」

 ごろつき共が達したらしい大雑把な見解は、これ以上ないほど本質を正確にとらえていた。計画が頓挫し、賢く強いエルネルド殿が慌てふためいている。その事実はエルネルドの自信とメッキを剥がすに十分に過ぎた。彼は裸の王様となり、馬鹿者どもに向けていた嘲りのまなざしが、今や自分の無様に注がれているとエルネルドは悟った。

「何でえ、すくたれ騎士風情が、偉そうにしやがってこの様かよ」

「所詮ヒマワリなんぞこんなもんよ、しょうもねえ」

「こいつももう終わりだな」

 エルネルドは屈辱と悔しさに歯噛みした。酸味の溢れる口の中が急激に渇く。小洒落た帽子を被った頭が急激に熱くなった。言いようの無い怒りが、あらゆるストレスへの不快が、エルネルドの中で激情へと変わっていた。

 確固たる意志がエルネルドの中に蘇った。自分の失態と狼狽を苦く噛み締めた。ウィンザックという強烈なる騎士の評価も改めた。今現在、王女をさらわれて窮地に追いやられていることも事実だと認めざるを得ない。だが、それとても。エルネルド・ブラウンフォウドともあろう者が、目の前の愚物どもに馬鹿にされていることは絶対に許せなかった。断固として認めるわけにはいかない。それだけは。

「てめえら、よく聞きやがれ!」

 死体と事件に集まっていた野次馬達のざわめきが、エルネルドの叫びに一瞬で静まった。緊張した空気に、エルネルドは頭の靄が晴れていくように感じた。増幅した感情を露わにして初めて、エルネルドは本当にするべきことを理解した。

 エルネルドは、突然の大声に怯む男達を満足げに見回した。脅える者、怒る者、未だ侮りを投げる者、全部揃ってくだらないクズどもだ。その事実に満足と充足が溢れた。こんな連中の悪感情など、意に介してやるまでもない。エルネルドの慢心が、挫折を経て一回り大きくなって立ち上がった。

「お前ら、誰でもいい。俺と靴を交換しろ! 丈夫で足に合えば何でもいい、俺の自慢の靴をくれてやろう。金に換えれば金貨二枚にはなるぞ!」

 エルネルドは朗々と叫んだ。愚弄に歪んでいた男達が一様に面食らい、素朴で間抜けな慌て顔に戻った。うめき声しか上げられなくなったごろつき共に、どちらが上かをはっきり解らせる睨みをぶつける。その中でも一番身形のいい男に伊達靴を突き付けると、無理やり相手の靴を奪った。男の抗議は、文句があるか、というエルネルドの恫喝一つでねじ伏せられた。

 呆然と立ち尽くすごろつきの前で、エルネルドは靴の調子を確かめて踵を鳴らす。これで走りは問題ない。ちょうどその時、混雑する街道を運の悪い馬車が通りかかった。エルネルドが手を挙げて止める。御者をしていた小太りの男が馬を抑えた瞬間、迷わず男を引きずり倒してエルネルドは馬車を乗っ取った。二匹の馬が引く、屋根がない四輪の軽馬車だ。

「悪いな、事は緊急だ! 後で王城に請求しろ!」

 積荷を放り捨ててそれだけ言うと、エルネルドは手綱を打って馬車を繰り出した。道を開ける群衆と馬車を奪われた男が、困惑の目線を去りゆく後姿に投げかけた。

 馬車は爽快に走り出した。エルネルドは清々しい力の漲りを覚えていた。口元を拭い、汚れた長手袋を道端に捨て去る。靴も服も体面も、もはや些事に過ぎなかった。絶対的な暴力と権力を振るう側に回ってさえしまえば、気取りや権謀術数など所詮は虚飾に過ぎないのだ。自分を打ちのめした屈辱の全てに、暴力をもって応報してやればいい。自分を見下した便利屋に、自分を嘔吐させたウィンザックに、自身の優秀さを証明してやらねば気が済まない。エルネルドは高らかに雄叫びを上げた。

「どいつもこいつも、ふざけやがって! 俺は、俺様はエルネルド・ブラウンフォウドだぞ!」

 高揚した自尊心が、貴族社会の軛を解かれて思うままに暴れ出した。エルネルドは狂喜した。とらわれの王女を救い出し、悪を討伐し、英雄となって凱旋する。今この瞬間だけは、黴臭い騎士道物語の単純な世界観に生きていいのだ。それは、エルネルドが今まで押し殺して来た憧憬の解放であった。

 軽やかに走り行く馬車が、見覚えのある不自然なシルエットを捉えた。エルネルドは曖昧な笑みを浮かべて馬速を緩める。疾走する鎧甲冑と馬車の速度が一致する。隣を並走する同僚に気付いたウィンザックは、さも当然というように走る馬車の上に飛び乗った。馬が驚きの悲鳴を上げた。

「遅いぞ、エルネルド」

「待たせたな、反撃開始だ」

 

 

 

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